第41話:るむ・えん(Room empty)
「おはよう、
朝起きてすぐに愛する人の顔を見ることができる幸せを噛み締めつつ、あたしは朝食を用意する。
「ああおはよう。
けど、隆紫がどこか浮かない様子だったのが気になるけど、無理に暴いて困らせた前例を教訓にして、あえて黙っていた。
「そうそう、昨日花瓶を取りに行った時、隆紫のお父様とすれ違ったよ」
ピクッと眉を跳ね上げたような気がしたけど、いつもと変わらない顔に戻った。
「そうか。何か会話したのか?」
「うん。隆紫があたしの両親に挨拶を済ませていたから、あたしも挨拶したわ」
質問に答えた瞬間、一瞬だけ動きが止まった…気がした。
「だからか…」
「え?」
「何でもない。茜は気にしなくていい」
すぐ切り返されて、あたしは頭の中からこのやり取りを思い出さないよう別のことを考え始めた。
「そういえばもうすぐ進路調査の提出だよね。隆紫は何を書いたの?」
「とりあえず大学進学だ。経営学部に進むつもりでいる。茜は?」
「あ…あたしは…」
思わず口ごもってしまう。
「大学進学かな…。それよりご飯冷めちゃうよ。早く食べよう」
「そうだな」
いつものとおり、隆紫は放課後になるとすぐ会社へ向かっていった。
あたしは後ろにガチムキの
「ん?」
玄関マットがわずかにズレていたことに気づいて、誰か入っているのかと警戒したあたしは、わざと敷地から出て官司さんを後ろにつかせる。
「ねえ、離れに誰かが入っているかもしれないから、一緒に来て」
「わかった」
短く答えて、敷地に入った後も官司さんが後ろをついてきた。
「誰かが入ったかもしれないと考える根拠は?」
「玄関マットがズレてたのよ。いつも出る前に定位置へセットしてるんだけど、隆紫が先に出てるから、ズレるとしたらあたしが離れから出て以後の話よ」
「そうか。ではここを入ったら会話は控えるように」
官司さんが先に玄関のドアを開けて、足音を立てないよう忍び足で踏み入れた。
そっと入っていき、リビングへ続くドアの前に背をつけて立つ。
くいくい。
人指し指を立ててこっちに来い、という意味らしい。
あたしはスリッパを履かずに官司さんの隣に控える。
チャッ…。
耳を澄ませて、そっとドアの隙間からリビングを覗き込む。
スッとドアを開けて上下左右を見渡して確認する。
再びくいくいと合図を送ってくる。
どうやらリビングには誰もいないらしい。
周囲を警戒しながら、キッチンや勝手口に至るまで隅々まで確認する。
次にバスルーム、トイレ、階段下の物置き、と人がいないことを確かめつつ、一階には誰かが入った様子なかった。
いつもは鬱陶しく思える官司さんだけど、この時だけはいてもらってよかったと思う。
本当にこの時のみだけど…。
階段をしずしずと踏みしめて上がっていく。
あたしは階段を背にして、一階を警戒する。
「上がってこい」
そっと囁くような声で、官司さんが促してきた。
途中で母屋へ通じる通路を横切る。
もしかして母屋から誰か来たのかな?
いや、基本的に母屋は母屋。離れは離れで治外法権な不干渉をしているらしいし、こっちに用事があってくることは考えにくい。
リビングの時と同様に一つずつ部屋を確認していく。
この時ばかりは、隆紫の部屋も例外ではない。
人が隠れられそうなクローゼットやベッド下もすべて確認したけど、それらしい形跡は見られなかった。
しっかり確かめてからでなければ、安心できない。
最後はあたしの部屋。
男の人が部屋に入ってくるのはさすがに落ち着かないけど、今はそんなことを言っていられる場合じゃない。
慎重に部屋に足を踏み入れる。可能性が残っているとしたらここだけになったことで、緊張が走った。
バッ!
ドアの隙間から見える範囲に人がいないことを確認した官司さんは、あたしの部屋に飛び込んで臨戦態勢のまま周囲を見渡す。
さすがにあたしのプライベートな空間だから、隠れられそうなクローゼットやベッド下はあたしが確認した。
「結局誰もいないようですね」
「うーん、だったらなんであの玄関マットがズレてたのかしら…」
そう言いつつ、あることに気づいた。
「ねえ官司さん…」
「何ですか?」
「部屋に飛び込んだ時、ゴミ箱にぶつかりましたか?」
「いえ、そっちの方には近づいておりません」
見ると、あたしの机近くに置いてあるゴミ箱が、明らかに移動した形跡を発見した。
いつもは袖引き出しの横においてあるのだけど、今は不自然なほど斜め前の場所へ移動している。
「まさか…あたしの部屋に誰かが入った…?」
「消失したものなどはありませんか?」
「見える限りでは何も手を付けられてないようだけど…」
あたしは引き出しやクローゼット、棚など見えない場所の中身を一つ一つ確認を進めていった。
しかしあたしの部屋で何かに手を付けた様子は全く見られなかった。
「一体…誰が…?」
誰かがあたしの部屋に入ったであろうことは、状況証拠としてもう疑いの余地はなかった。
「茜殿本人を狙ったものとも思えませんな」
「どうして?」
「もし本気で狙っていたとしたら、潜んで待っていればいいのですから」
「それも…そうね」
「離れに踏み入った瞬間、誰もいないであろうことは気配でほぼ確信していました。あまりにも人の息吹を感じなかった…チッ」
今、舌打ちしたのを聞き逃さなかった。
誰か侵入者がいるとして、多分合理的に暴れられる好機と思っていたのだろう。
「そして母屋から入った来客でもない」
「うん。渡り廊下があるからね」
「いずれにせよ、この離れに誰かが残っている様子はない。当面の危機は去ったと考えていいでしょう」
そう言って、官司さんはあたしの部屋から出ていく。
「どこへ行くの?」
「私の任務は茜様の護衛。危機が無いと判断したので持ち場に戻るだけです」
そういえば、官司さんっていつもどこにいるのだろう?
「ねえ、待ってる時って外にいるの?」
「もちろんです。こんなのここへ来る前の仕事に比べれば極楽です」
こんな寒い外にいることのどこが極楽なのやら…。
「万一の際は、大声を出してください。またはブザーを押してください。すぐ駆けつけます」
「わかったわ。その時は頼りにしてるわ」
これが、初めて官司さんが頼もしいと思えた一瞬だった。
改めて離れに一人となった瞬間、薄ら寒い何かを感じた。
人の気配ではない。
人が入ったであろう痕跡を思い出したから。
しかもあたしの部屋に。
どうしよう…これ、隆紫に相談すべきなのか、心配させないため黙っているべきなのか…もし官司さんを離れの中で待機させるなんて言い出したら…。
やめておこう。
それがあたしの結論だった。
せっかくあの護衛から開放されるたった二つの聖域なんだから、わざわざその聖域を狭めるのは避けたい。
そういえば隆紫に言えば、誰が入ってきたか映像を確認できるんだっけ?
帰ってきたら相談してみようかな。
「ねえ隆紫、前に真弓さんがここへ来た時の映像を取り寄せたことあったでしょ?」
「ん?あったな。そんなことも」
夜になって帰ってきた隆紫と夕食を終えてから一息ついたあたりで話を切り出してみた。
「それならさ、今日の映像を取り寄せてくれないかな?」
「急にどうしたんだ?」
「それが来客あったみたいなんだけど、誰なのかがわからなくて…」
「それは何時頃だ?僕が取り寄せたのは静止画で、動画はどんな形で来るかわからないぞ」
「そうなの?これで再生できればいいんだけど」
あたしはスマートフォンを取り出して隆紫に見せる。
「…何が気になるのかわからないけど、かけあってみよう」
よかった。深くは聞かないでくれた。
これでどこぞの原住民が離れにまで乗り込んでくる危機は回避できる。
「多分一時間後くらいには返事があるはずだ」
管理室に連絡したと思われる隆紫が、通話を終えてあたしにそう告げた。
「うん、わかった。ありがとう」
部屋に戻って机に向かって課題を進めている最中に「ピロン」と通知音が鳴る。
見ると、動画ダウンロードリンクのメールが届いていた。
送られてきた動画のダウンロードをして、開いてみる。
記録されていたのは、母屋に仕掛けられていると思われるカメラが正門をズームしている様子だった。
向かって右側が離れ。正面が母屋で、左が車庫になっている。
「なるほど…これで真弓さんの顔を撮影して探させたわけね。うーん、わかっていたけど、これじゃ一晩徹夜になっちゃうわ…」
思い立って、倍速再生機能を使ってぐんぐんと確認を進める。
シャカシャカと人や車が不自然な動きで移り変わる。
さらに倍速率を上げていく。
今のところ、右側へ進んでいく人影はない。
「ふあぁ…」
そろそろ眠くなってきて、あくびが出た頃…。
「えっ!?」
左から右へ進んでいく人影を見つけた。
左から来たということは、車庫に車を停めたということ。
人が横切る前のシーンまで早戻しして、倍速再生を解除した。
見ると、堂々と車が入ってきてそのまま駐車場から離れへ歩いていくように見える。
そして、15分ほど経過したところで、右から左へ人が歩いていき、当然のように車で外へ出ていった。
「…間違いない…多分これだ…でも、一体なぜ…何をしていたの?」
何度見返しても、それ以上のことはわからなかった。
何か分かるかもしれないと思って、あたしが入ってきてから再び戻り、官司さんを引き連れて正門から入ってきた映像が出たところで、見るのをやめた。
「やっぱり、離れに人が入っていくとしたら、このタイミングしかない…」
営業車っぽい小さな軽自動車らしき車と、それに乗ってきたと思われるスーツを着込んだ人。
これ以外にそれらしい動きをしている人はいなかった。
「何を…してたの?ここまで堂々と入ってくるということは、誰かが招き入れた?」
少なくとも不審者や泥棒の類ではなさそう。
「何で…?」
カメラには、母屋から出てきて離れに案内する人はいなかった。
そもそも渡り廊下で自由に行き来できるから、離れに誰かを招くにあたって母屋から外に出る必要もない。
となると、母屋から誰かが離れへ渡り、離れの内側から鍵を解除してドアを開けたと考えるのが自然かもしれない。
そう考えると、玄関マットとあたしの部屋のごみ箱が移動していたのは、偶然でも思い違いでもなく、確実に誰かが入ったことを裏付ける証拠になる。
ならば、いったい誰が離れに人を招いたのか。
それと黙ってあたしの部屋へ案内したことになる。
どんな可能性にせよ、住んでいるあたしが知らないところで勝手にされたことに寒気がしてくる。
隆紫が知っていて黙っている可能性は低い。
緊急性がない限りはお互い部屋に入らないという線引きをしている。
いくら考えても結論は出なかった。
改めて部屋の中を確認したけど、ごみ箱以外に変わった点は見当たらなかった。
何かが無くなったわけでもない。
「これでよし」
翌朝、あたしは部屋を出た後に細工をした。
ドアを開けると、ドアに挟んだ小さな紙が舞い落ちてくるようになっている。
ドアと似た色の紙にしているから、注意してなければ気づきもしない。
あたしが入るまでの間に、誰も入っていなければ紙はそのまま。
誰かが開けたなら、紙は舞い落ちる。
侵入防止には全く意味がないけど、侵入された形跡は事前に確認ができる。
「坊っちゃん、あの件はどうお考えですか?」
猿楽は隆紫を車に乗せたまま問いかける。
「何とも言えないが、茜からあんな頼まれごとがあったのは気になる」
「母屋にある防犯カメラ映像を要求した件ですね」
「そうだ。何か気になっているようだが…嫌な予感がする」
そう言ったきり、隆紫と猿楽は黙り込んだ。
「ただいま…って言っても誰も居ないんだけどね…」
いつものとおり離れに帰ってきた。
「また…玄関マットが…」
嫌な予感を覚えつつ、あたしは自室のドアに手をかけようとした時、仕掛けた紙が床に落ちていることに気づいた。
信じられない現実を目にして、隆紫が帰ってくるのを待った。
「ただいま」
「ねえ隆紫、ちょっと来てほしいんだけど…」
帰ってきた隆紫を自分の制服姿のまま迎えて、話しかける。
「どうした?」
あたしは自室のある二階へ上がる。
「これ、どういうこと?」
あたしに割り当てられた部屋のドアを開けた。
「っ………!?」
隆紫は目を見開き、言葉を失った。
そこには広々とした空間が広がっていた。
ベッドや机、コート掛けやラテラル服入れなどは無く、まるで最初から誰も住んでいなかったような、ガランとした空間だった。
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