第35話:てい・ばく(Take back)
「何だよ…少しくらい…食い下がってくれよ…こんなにあっさり身を引かれたんじゃ、打算じゃなくて…本気だったのかと思ってしまうじゃないか…」
「本気だったのですよ。坊っちゃん」
ふと、後ろからかかる声に振り向く。
「分かっているのでしょう?茜様がそんな打算で動くお方ではないことを」
「
力なく答える。珍しく弱気になっていた。
「坊っちゃんは、どうしたいですか?」
「茜と…一緒にいたい」
「ならばやることは一つでしょう」
「だが、僕は勝手な思い込みで…茜を一方的に傷つけた。取り返しのつかないことをしてしまった」
悔しさに歪めた顔の大部分を隠すように手で覆い、指先は前髪の根をかき乱す。
ぐいっ!
隆紫は襟を捕まれ、寒風吹きすさぶ玄関の外に放り出された。
玄関の扉を背にした猿楽の顔が、周囲の光に照らされてぼんやりと浮かび上がっている。
「猿楽!何をっ!?」
「茜様をお連れ戻しなさいませ。それまでこの猿楽、ここで待っております」
ドアを背にした黒服は、いつの間に持ってきたのか、手にしている隆紫の愛用コートを差し出した。
「本気…みたいだな?」
「それは坊っちゃんが一番よく分かっているでしょう」
静かに、ひたと見つめる猿楽の視線は、隆紫の背中を凍りつかせた。凍りついたのは、決して夜風の寒さだけではない。
いつもは実力行使などしない猿楽が、こうして腕力にモノを言わせるときはいつもそうだ。決して曲げない決意を示している。
立場の違いがあるため、ここで猿楽に対して命令すれば、その命令に従うだろう。
だが、ここまで明確な個人的意思を示すことは滅多に無い猿楽の態度に、隆紫は言葉を失った。
所々に足元を照らす街灯が道を浮かび上がらせている。
夜道に女の子を一人で歩かせてしまった。
なんとしても追いつきたいところだが、ふと思い出した。
まだ
おそらく無事に家へ帰っていけることだろう。
茜にちょっかいを出す不届き者がいれば、官司はジャングルの原住民みたいな歓喜の雄叫びを上げて、不届き者をぼろべろにするまで暴れ続ける。
前に誘拐犯へ襲いかかった時もそうだった。文字にすることすら困難な声…いや、音を口から発して暴れた。
ものの数秒で凶器を持った犯人三人を地に沈めたほどだ。
さらに恐ろしいのが、決して致命傷や入院を要する怪我を負わせないこと。
驚くことに服はボロボロになっても、目立った外傷は無く流血すら伴わない。
見る者にあれだけの狂気を印象づけつつ、手加減はできているということ。
つまり、手加減なしの本気を出されたらどうなるか…。想像するだに恐ろしい。
あの官司とは、一体何者なんだろうか。
猿楽とどういう関係なのだろうか。
そもそも、猿楽の過去を知らない。
元々父親付きの補佐として活躍していたところ、僕の補佐として軸足を移してきたから、彼のプロフィールもろくに知らない。
いずれは聞き出すとしよう。
ピンポーン
茜の家に着き、呼び鈴を鳴らす。
しばし待った後、インターホンから声が飛び出す。
「どちら様ですか?」
「…僕だ。茜、話をさせてほしい」
ガチャ
インターホンが切られ、玄関から出てくるのかと思いきや、いくら待っても茜は出てこなかった。
隆紫は玄関の柵に背を預け、その場でしゃがみこんだ。
びゅうっ…
吹きすさぶ風が体温を奪う。
「茜…出てくるまで、僕は帰らないからな」
「隆紫どの、ここは冷えますぞ。帰るべきではないか?」
「そういうお前こそ、ずっとここにいるつもりか?
「これ以上家を出てくる様子がなければ引き上げます」
「待たないでいい。お前はもう帰れ」
「それは命令ですか?」
ずーんと壁のように立ちはだかる官司へ目線を送る。
「そうだ、ここは僕が引き継ぐ。だからお前は帰れ」
「緊急時はアラームを鳴らしてください。可能な限り迅速に駆けつけます」
そう言い残して、黒スーツは夜闇に溶けて消えていった。
シュルシュルシュルシュル…
聞き慣れないエンジン音を響かせて、車が一台迫ってきた。
座り込んでいる隆紫の前に停まって人が二人降りてくる。
「隆紫様!?」
降りてきたのは茜の両親だった。
「どうしたのですか?」
「もしかしてうちの娘が何かをしたのですか?」
「これは僕の問題だ。放っておいてくれ」
「とんでもない!こんなところに居てはお風邪を召してしまいます!どうぞ家にお上がりください!」
慌てた様子で隆紫を家に招き入れようと門扉を開いた。
「せっかくだけど、気持ちだけいただきます」
「茜!ちょっと降りてきて!」
母に呼ばれて、布団だけ敷いた殺風景なあたしの部屋から出て一階に降りた。
「ねえ、何があったの?明先の
あたしは何も答えられなかった。
何があったのかは知らないけど、隆紫はあたしを政略結婚目的で近づいたと思われていた。
そんな考え自体全く無かったけど、どういうわけか隆紫の中ではそれが確定事項としてあたしに問い詰めてきた。
その原因を答えることができないから、こう答えるしかなかった。
「わからない…どうしてこうなったのか…」
「茜が出てくるまで外に居座るつもりのようだが、一声くらいかけてあげてもいいのではないか?」
「今は、そんな気分じゃないの…あたしのことは放っておいて」
居座ると言っても、せいぜい1時間くらいで諦めると踏んで、あたしは親の呼びかけにも応えず部屋に戻った。
「そっちの様子はどうだ?」
離れの玄関外に立っている黒服は、手にした黒い箱へ話しかける。
「まだ動きはありません」
黒い箱から声が返ってきた。
「外は冷える。坊っちゃんの体は心配だが、せめて護衛のお前はいつでも動けるよう暖房をかけた車の中で待機。気づかれないよう用心しろ。暖房の温度は上げすぎるなよ。脳の活動レベルが下がるからな」
「了解だ。そちらこそずっと突っ立ったまま夜風に吹かれているのだろう?」
「この程度、あの頃に比べればぬるま湯同然だ。それはお前も同じだろうさ」
「確かにな」
「シベリアでは文字どおりに凍ってしまいそうだったからな。何度死にかけたことかわかったものじゃない」
「眠ることもできず、足を止めることもできず、ほとんど飲まず食わずで三日三晩かけてやっと仕事から開放された時は、暖かい部屋でまる二日寝込んだな」
「今や懐かしい限りだ」
「あの経験は何物にも代えがたいものだった。極限状態でのサバイバル術を嫌でも会得せざるを得なかった…今動きを確認。
「そのまま監視を続けろ」
「隆紫様、これをどうぞ」
門扉に背を、地面にお尻を預けている隆紫に差し出されたのは、おびただしいほどの湯気を立たせたコーヒーだった。
「体の中から温まりますよ。それとこれを」
取り出したのは使い捨ての
「ありがとう。けど差し入れはこれで十分です。以後は放っておいて頂けると…」
「いったい、何があったのですか?茜に聞いても要領を得なくてわからないことだらけです」
ずず、とコーヒーを
冷え切った体を内側から温めてくれる熱い器の中身は、心まで染み渡るような心地だった。
「すべて…僕のせいです。少しでも茜…さんを疑ってしまったことで、深く傷つけてしまいました。だから、ここでじっと待つのは自分自分への戒めでもあり、罰として受け入れます」
「…まさか、娘と…付き合っているのですか?」
父は驚いた表情を向けた。
それを見た隆紫は、決して政略結婚を狙ってのことではないと裏付けを得て、確信した。
「はい、茜さんとお付き合いさせていただいています。ご挨拶が遅くなりましたことをお詫びします」
「…明先の御曹司と付き合うなんて…とんでもない。今すぐ別れるよう娘を説得しますので、今日のところはご自宅へ…」
「余計なことはするな。これは茜さんと僕の問題だ」
ギロリと睨みつけるその視線に、父はたじろいた。
もしここまでのやり取りがすべて演技であるなら、おひねり代わりに最後まで踊らされてもいいと隆紫は考え始めた。
「ですが…」
「自分の娘が決めたことを、親が捻じ曲げようなんて傲慢にも程がある。何の権限があってそんな口出しをできるというのだ?」
ひゅおおっと風が吹き抜ける。
「言っておくが、これは明先におけるあなたの上司として立場を利用しているのではない。一人の人間として真正面から向き合う決意だ。親として僕に娘を預けられないというならともかくとして、立場の違いから娘の意思を無視するなら、たとえ駆け落ちしてでも彼女と一緒にいることを選ぶ。コーヒー、ごちそうさまでした」
中身が空になり、すっかり冷えたコップを父に手渡す。
「…わかりました。娘を…よろしくお願いします。ですが、どうかご無理はなさらぬよう…」
会釈をして、父は家に戻った。
「やはり政略結婚なんて考えは微塵もない…か」
さっきのやり取りで、茜が隆紫と付き合うことを選んだことは完全に茜自身の意思に間違いない手応えを感じていた。
「あんなデタラメに振り回されたというのか…僕は…」
今更ながらに冷静な判断を欠いた自分を恥じる隆紫だった。
「茜…必ず一緒に離れへ帰るぞ」
天を仰ぐその瞳には、吹き荒れる寒風すらも熱風と化しそうな激しさと鋭さを持っていた。
あたしはショックのあまり、よく寝られなかった。
度々見たくもない夢にうなされては目を覚ます。
朝日が差し込み、寝続けられそうにない。
自分の部屋から外を眺める。
さすがに隆紫はいないよね。
この部屋は外に向いていて、目の前の道路も見える。
えっ!?
嘘でしょ!?
隆紫、まだいるのっ?
あたしは居ても立っても居られなくなり、外へ飛び出す。
「隆紫!」
駆け寄って、門扉に身を預けたままぐったりしている隆紫を抱き寄せた。
その体はすっかり冷たくなっていて、凍死していても不思議はなかった。
「隆紫!隆紫!!起きて!!起きてよっ!!」
クタッとして、隆紫は返事をしてくれない。
「隆紫っーーーーー!」
あたしは最悪の結果が頭をよぎって、涙がにじみ出てきた。
「ん?茜か…?」
返事をしてくれないと思い込んでいたあたしの耳に、隆紫の声が飛び込んできた。
「隆紫…?」
目をパチクリして、わずかに開いたその目を見ると、心の奥底からじんわりとこみ上げてくるものが堪えきれず、思わず大泣きして抱きついてしまう。
「隆紫っーーーー!!良かったぁーーー!!」
わんわんと泣きはらして、落ち着いた頃合いに隆紫は立ち上がってそっと抱き返してきた。
「こんなに冷たくなっちゃって、どうしてこんな無茶したの?」
「僕の覚悟を知ってもらうためだ。茜…僕はわずかな時間だけど、茜を信じることができなくなった。けど、茜の気持ちに裏がないことを思い知った。勝手ですまないが、もう一度僕の側にいてほしい」
「今後はこんな自殺行為なんてしないって約束して…」
「ああ、約束する。茜…帰ろう。君が君らしくあれる場所へ」
「うん…もう二度と、あたしから離れていかないでね」
「約束する。この一生を、茜に捧げる覚悟だ」
ふふっ
あたしは思わず笑いが
「それ、まるでプロポーズみたいだね」
「あっ…いや、別にそういうつもりじゃ…」
ふんふんと首を横に振る隆紫。
「訂正する。そういうつもりだ」
優しい微笑みで続けた。
「どうしよっかな…隆紫には昨夜振られちゃったし…」
思わず意地悪したくなって、そっぽ向きながら焦らしてみる。
がばっ、とおもむろに正面から抱きしめてきた。
「僕には…茜が必要なんだ。この言葉を信じられないなら、僕を突き飛ばしてくれ」
頭の上から浴びせられた言葉に、あたしの心はほわっと暖かくなる。
「ずるいよ…そんな言い方」
あたしは抱きしめてきている大きな体の後ろに手を回して、ギュッと力強く抱き返した。
「隆紫のこと、嫌いになんてなれるはずがないわよ」
「出会った時は散々嫌ってたよな」
「…訂正するわ。隆紫のこと、もう嫌いになんてなれない」
しばし抱きしめあって、二人の足を駆け抜けた寒風すらなんとも感じないほどに、お互いの心は暖まっていた。
「また、隆紫の家に行っていいんだよね?」
「もう茜を実家に戻したくない。ずっと、僕の側にいてほしい」
再び、戻ってきた。
大きな門をくぐって、昇り始めた朝日に照らされる離れへ。
玄関の扉を背にしている黒服の影がやけに眩しく見える。
「おかえりなさいませ。坊っちゃん」
「ただいま」
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