第34話:てあ・ぱて(Tearful parting)
「出せ。
黒塗りの胴長な車は、
結局あの後、お互いの言い分は平行線だった。
半ば口論となり、
茜の気持ちを確かめなければ、と隆紫の頭はそんな焦りでいっぱいだった。
「坊っちゃん、もう少し冷静になってください」
書類にサインや判を突く様子を見て、猿楽が口を挟んできた。
「僕はいつでも冷静だ」
「いつもお側で見てきた身の目線では、そう映っておりません」
ダン、と承認印を苛つき気味に押す。
僕自身、苛ついているのは自覚している。
どうしようもないこの気持ちは自分でも制御ができないでいることが、なお苛つきを助長しているだけに、余計苛ついている。
「あの、隆紫様」
声をかけてきたのは
フロアまるごと明先ロジスティクスになっていて、僕はフロアの端で全体が見渡せるよう斜めに机が配置されている。
とはいえ、かなりの広さがあるため見渡すと言っても見える範囲には限界がある。
隆紫の席隣は猿楽が秘書として席を持っている。
「どうした?」
「重要書類ですので、手渡しに参りました」
「ああ」
重要書類を受け取って斜め読みする。
「あの、本日はどうかされましたか?」
「ん?いやどうもしない。いつもどおりだ。この件はわかった。他に用件が無ければ下がれ」
「はい」
書類を持ってきた部下は席に戻るが、猿楽が何か言いたげな顔をしている。
「…どうにも顔と態度へ出ているようだ。だが仕事は仕事だ。しっかりやる」
「坊っちゃんの態度がフロアのスタッフに影響しなければよいのですが」
心配している言葉をかける猿楽が、別の部下が近づいてきたことに気づく。
「隆紫様は現在急ぎの対応をしておりますゆえ、用件がありましたら私が代わりに聞きます」
機転を利かせた割り込みで、猿楽が代わりに用件を聞いていた。
「では、確かに承りました」
「よろしくお願いします」
こうして、僕あての用事はすべて猿楽が代わりに引き受けてくれた。
もちろん僕がすぐ側にいるため、内容は猿楽から聞くまでもなく把握している。
ヒューン…
極めて静かなエンジンは、車内に僅かな駆動音とタイヤがアスファルトを蹴り出す僅かな音でハーモニーを奏でていた。
「坊っちゃん、今日はどうしたのですか?」
「どうもしない。いつもどおりだ」
「…茜様のことですね?」
「猿楽には関係ない」
「いえ、ございます。実際に今日は私がほとんどの用件を代理で聞き取りました。関係ないと仰るなら、社員が気持ちよく坊っちゃんと接することができるところをお見せくださいませ」
猿楽の言うことは否定しようもない正論だった。
ヒューン、と静かに鳴るエンジン音が、少し大きくなる。
「こうして坊っちゃんが心を乱す今の理由は、茜様ですね?」
「………」
僕は無言をもって答える。
しばし沈黙して、僕は口を開いた。
「もし、猿楽に恋人ができて、その人を信じられなくなったらどうする?」
ハンドルを握る手から、少しだけ力が抜ける。
「まずは話し合います」
「…その相手が、本音を隠していて、本音を確かめたい時は?」
「駆け引きするでしょう。自分の求める結果へ導き、その反応が違えば、疑うのはやめます」
「例えば、だ。その相手が金銭目的で近づいていたとしたら、猿楽はどうする?」
猿楽はしめしめと思いつつ、しかしそんな気持ちを微塵も出さず続けた。
「相手の要求する金銭をちらつかせます。一瞬でも目を輝かせれば黒。表情を輝かせずがっかりするような態度を見せたなら白と判断します」
僕はしばし考えにふける。
茜が僕に近づいた理由として考えられるのは、明先グループにおける
あるいは明先の持つ財産目当て。
それを確かめるために、どうすればいい…?
最初、茜は僕のことをとても嫌っていた。
一緒に過ごすうち、次第に打ち解けてきて、いつしか僕への思いが募っていって、気がついたらすでに後戻りできないほどまで想いを寄せていた。
それを思い知ったのが、茜の誘拐事件だ。
犯人から取り戻した後で、茜は叫ぶように僕への思いを吐露した。
その時の僕は、茜の気持ちに応えてはならないと自らを縛っていた。
いつの頃からだっただろうか。
茜が僕に心を許したのは。
ある朝、僕を起こしに来て、途中で目が覚めたけどそのまま狸寝入りしていた頃だったと思う。
経営に関する本をベッドに腰を掛けて読んで、メールの返信をするため机に向かったものの、その日の内に返事が必要ない返事を後回しにして宿題をやってる最中に寝落ちした。
あれから急激に僕の隠していることが暴かれていった。
茜に知られないようひた隠しにしたものの、
知られた時は、確実に僕を恨んで離れると思っていた。
しかし予想に反して、より僕への思いを募らされたのを感じた。
協業の話を進めていた
ここまでを振り返って、茜が僕の立場や財産を目当てにしていると仮定した場合、どうにも納得できない。
納得はできないけど、否定しきるだけの材料が不足している。
「考えはまとまりましたか?坊っちゃん」
「いや、結論は出ていない」
「何があったのか存じませんが、この猿楽はいつでも坊っちゃんの味方ですぞ」
「そう言ってもらえるだけで心強いよ」
クイッと横に揺られる感覚に襲われる。
交差点を曲がるために猿楽の切ったハンドルが車体を揺らした。
「そういえばもうすぐ今年も終わりますな。決算の準備を進めておりますが、業績はまずまずです」
「そうか。親父を見返してやるつもりだったが、そうはいかなさそうだな」
「
「櫟家に融資した分は回収できたのだろう?
「櫟託送便は上場間近というところで今回の展開ですので、確かに多額の出費を伴いました」
「それでも結果を出してのことだ。僕が親父に切った
「そう…でしたな」
「僕はいつ
「大旦那様の意向に沿うまでです。すでに私は坊っちゃんの指揮下へ入るよう命が下されました。大旦那様の命にはもう従う必要がございません」
飛び出した一言は、隆紫を驚かせた。
「待て。そんな話は聞いてないぞ。いつからだ?」
「ちょうど茜様がここを出ていった頃の話です」
「そうだったのか。何でそんな重要事項を黙っていた?」
「私が坊っちゃんにお仕えする現実が何一つ変わらないからです。それに、あの落ち込んでいる状態の時だったのでお伝えしそびれた事情もあります」
話をしている間に、乗った車は屋敷の敷地に滑り込む。
「それで、猿楽は変わらず母屋で過ごすのか?」
「坊っちゃんと茜様の邪魔は致しません。どうぞ親睦を深めていってくださいませ」
隆紫はそれ以上追求しなかった。
離れに帰ると、茜が出迎えてくれた。
「ただいま、茜」
「おかえりなさい、隆紫」
屈託のない笑顔を見てわずかに心が動くも、この笑顔の裏に打算が働いているかもしれないと思った途端に、空恐ろしさを感じてしまう。
「夕食の準備できてるから、着替えたら降りてきてね」
あたしはあのキスが未遂だったことを
隆紫の様子が少し違うことに気づきつつも、疲れているだけと思って様子が違うことに触れることはしなかった。
どうでもいいのではない。隆紫を信頼しているから何も触れないでおく。
必要な時は必ず教えてくれる。無理やり暴くと、出会って間もないあの時と同じく隆紫を追い詰めてしまうだけ。
10分ほどしても隆紫が降りてこない。
「どうかしたのかな?」
あたしは温めたスープが冷めてしまうので、呼んでくることにした。
「隆紫、料理が冷めちゃうよ?早く食べようよ」
「わかってる。今行く」
リビングに戻って、5分くらいしてから隆紫が降りてきた。
「それでね、真弓さんは今週でやっと退院できるんだって」
「そうなのか。結構重症だったんだろうな」
「少なくとも本気走りは禁止されてるって。体育でも激しい運動は止められてるそうよ」
真弓さんは体育祭で無理をしたことが祟って、足に深刻な負担がかかっていた。
その負担は、競技として脚を使うことが禁じられるほどの後遺症を抱えることになった。
「ごちそうさまでした」
隆紫がどこか浮かない様子なのは気になるけど、口にはしない。
「お粗末様でした」
あたしはテーブルに重ねられているお皿を流し台に運ぶ。
隆紫は何か考え事をしている様子だけど、構わずお皿の汚れを取って水を切る。
「茜…」
食事の後片付けが終わり、隆紫はあたしをソファに座るように導く。
「どうしたの?何か悩んでるみたいだけど」
あたしは彼の口からどんな言葉が出てくるのか、じっと待つ。
ふと、隆紫はあたしの肩を抱き、その顔が迫ってきた。
「っ!?」
反射的に前やったのと同じく唇を口の中に引っ込める。
「唇、引っ込めたな…」
「どうしたの隆紫!?何があったのっ!?」
問いかけに答えず、あたしは抱かれた肩にかかる力に負けて、ソファに組み敷かれた。
「答えてよ…何があったのか…」
口を閉ざしたまま、その手はあたしの胸に伸びる。
明らかに様子が違う隆紫は、構わずブラウスのボタンを外し始めた。
一つ、二つ、とボタンが外されていき、ブラの左右をつなぐ中心部分が部屋の明かりに照らされる。
「ちょ…隆紫、こんな形でなんて…」
ボタンを外し終わったブラウスの前身頃の左右をガバっと広げられた。
かあっ!
初めて隆紫に素肌を見られて、顔がかっと赤くなったのを自覚した。
薄っすらピンク色のブラと上半身の素肌が外気に晒される。
さっきまでブラウスのボタンを外していたその手は、あたしの胸に伸びてきた。
控えめな二つの膨らみ、その形を確かめるように手があたしの胸を覆う。
「あんっ…」
カリ、と膨らみの最上部に爪を立ててひっかかれる。
布越しでも、敏感な部分へ送られてくる刺激に反応してしまう。
添えられた手から送られてくるムズムズするような感覚に身を委ねていたけど、明らかにいつもの余裕が消え去っている隆紫の顔を見て我に返った。
「隆紫っ!やっぱりだめっ!!」
あたしは余裕の消え去った隆紫の顔を、両手で思いっきり押し返した。
男女の愛を確かめあう営みは、二人の共同作業。
ほんの少し抵抗するだけでも思いどおりいかなくなり、それ以上続けることは困難になる。
開け広げられたブラウスの左右前身頃を手繰り寄せて素肌を隠す。
左の端を右手で、右の端を左手で掴んで、肌を見せない意思を示した。
今も組み敷かれた状態だけど、あたしはしっかり向き合わなければ、と隆紫の目を見つめる。
「ほんとに、何があったの!?急にこんなことするなんて、隆紫らしくないよ!」
「やはり…そういうことだったのか…」
やっと喋った隆紫は、しかしその意図が皆目見当もつかない。
「この程度の覚悟もなく、僕に近づいたわけだ…」
一体何のことなのかわからない。
突然襲ってきて、やっと話できると思ったら、そんな空気ですら無くなっていた。
「それ…どういう…こと…?」
「…僕は所詮、優良物件だ」
欲しい物が手に入らず、悔しがる子供のような顔をした隆紫の表情は、天井の照明を後ろに背負っていて暗く見える。
「君が僕に近づいた理由は確認できた。けど安心しろ。君が僕の元を離れても、櫟託送便は必ず守り抜く」
その一言で、とっさに隆紫の様子が変だった原因と思われる理由を悟った。
「…………………それを…ずっと抱えていたんだ…?あたしが…そんな打算で…隆紫に近づいたと思われていたのね…」
「自分の頭では何度も否定した。けど…」
「…信じられなくなった…のね」
どれだけの沈黙と見つめ合いが続いたであろうか。
お互いに言葉をかわさず、時間だけが流れた。
自分でも口がへの字に曲がり、眉間にシワが寄ったことを自覚する。
あたしは意を決して目を閉じ、口を開いた。
「わかったわ…さよなら」
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