第32話:うい・きす(Witnessing kiss)

 隆紫りゅうじが…どうして…。

 心にモヤモヤとしたわだかまりを胸に、あたしはベッドに身を投げだす。

 事の発端は体育祭が終わった振替休日明けの学校だった。


「おはよう、隆紫」

「おはようあかね

 あたしは隆紫の胸に抱かれて愛を確かめる。

 大切な彼は、初めてのキスを大切に取っておいてることがよく分かった。

 もっと彼のことが欲しいと思うけど、気持ちを知った今はそんな焦りもどこかへ吹き飛んでしまっている。

 名残惜しそうにあたしの肩を掴んで引き剥がされた。

「食べようか」

「うん」

 振替休日の昨日も隆紫は仕事が忙しかったらしく、朝に出ていって夜に帰ってきた。

 夜に返ってくる日は疲れを見せてはいるけど、本当にあたしを抱きしめて充電しているらしい。

 ろくにデートもできていないけど、毎朝毎晩顔を合わせては抱きしめあっている。

 付き合ってみて初めて気づいた。

 あたしはとても甘えん坊だということに。

 隆紫は甘えられたがりのようで、1時間近く抱きしめあったこともある。

 それ以上を求められたら拒否するつもりはない。

 むしろあたしのほうが焦れ始めている。

 物足りなく感じている。

 でも、恥ずかしいから言い出せない。

「ご馳走様」

「お粗末様」

 毎朝一緒に顔を見ながら食事をする様は、まるで夫婦のよう。

 けど実際には学生で、キスもまだの関係。

 真弓さんには驚かれたし、隆紫の気持ちをはっきりさせる誘導もしてくれた。

 だから安心できる。

 あたしは隆紫がその気になってくれるのを待っていられる。

 こうして一緒に住んでいられるのも親の理解あってのことだし、そもそもの始まりは親の都合であり、隆紫の心を開いてくれたのは亡き姉のおかげ。

 隆紫の気持ちを知ったのも体育祭があって、入院している真弓さんのおかげ。

 いろいろな人に助けられて今がある。

 一人の力では、今の状況は決してありえなかった。


「それじゃ先に行くね」

 制服に着替えて、あたしは先に出た。

 あたしより先に出て後から来る隆紫は、やはり明先本社に数分だけ顔を出していると聞いた。

 書類の積み上がり具合を見てから学校に来ていると聞かされた。

 本当に休む暇もなく働いているみたい。

 それでいて学校の課題もやってるのだから、一体いつ休んでいるのか疑問は尽きない。


 お昼休みになり、かおると学食へ行く。

 隆紫と行きたいけど、仕事を少しでも片付けておきたいらしく、一人になれる場所で電話をかけていた。

「あら、二人なのね」

「え?」

 声をかけてきたのは、体育祭で担当した救護テントにいた一人だった。

「体育祭、お疲れ様」

 先にねぎらいの言葉をかける。

くぬぎさんこそ、お疲れ様でした」

「えっと…」

 どうしても出てこない名前を思い出そうとしているのを見て

紫苑しおんよ。司東しとう紫苑しおん

 察した紫苑さんが名乗ってきた。

「紫苑さんね、そういえば一度だけだったわね。体育祭の実行委員でお互いに名乗ったの」

「うん。ここ、お邪魔するね」

 そう言って向かい合うあたしたちの隣に腰を掛けてくる。

 少し強引な気もしたけど、悪い気はしなかったし、面識があったから何も言わずやりすごすことにした。

 C定食を置いた紫苑さんを含めると、AとB定食にした二人で日替わり定食が揃い踏みになる。

「100m走で櫟さんが抱きとめたあの人はどうなったの?」

「入院したわ。足首をやっちゃって…」

「心配したわよ。救護テントに来るかと思ったら、そのまま救急車で運ばれちゃったものね」

「うん…」

 真弓さんは、もう競技として足は使えないかもしれない。

 せっかく陸上部のエースと競り合ったのに、もうあの走りは見られない。

「ところで明先さんは?」

「隆紫ならしご…」

 言い掛けてハッとする。

 明先本社の仕事は内緒だったんだ。

「しご…何?」

 わずかに頭をかしげる紫苑さんが顔を覗き込んできた。

「…仕事があるみたいよ。体育祭実行委員会の後始末って言ってたかな?」

「そんなのがあるの?まったく聞いてないけど。というより、それだったら櫟さんとわたしもやらなきゃダメじゃない?」

「よく聞いてなかったから、何をやってるのかわからないわ」

「ふーん…」

 これでうまくごまかせたはず。

 何気ない会話をして、学食を後にする。

「なんだ…アテが外れたわね」

 紫苑さんはボソッと呟いて、学食を後にする茜たちを見送った。


「ああ、その件は猿楽に任せてある。猿楽の指示に従ってくれ」

 隆紫は終話ボタンを押して電話を終える。

 次にメールを開いて内容を確認してから返事を入力していた。

 誰もいない実習棟の非常階段。

 今はそこが隆紫の定位置になっていた。

 校舎のどこからも死角になっていて、グラウンドからも見えにくい。

 職員室の窓際からはギリギリ見えそうだけど、しゃがんで動かなければそうそう見つかることはない、と踏んでいた。


 紫苑さんは次の授業が実習棟の家庭科室だったため、一足先に家庭科室へ入る。


 シャッ


 独り言をつぶやきながら家庭科室のカーテンを開けて、外の光を取り込む。

「彼女を放って別行動してるなんて、意外だったわ。けど一体どこに…」

 すべてのカーテンを開け放って窓に背を向けたその時…

「ん?」

 何かが外で動いた気がして、窓に貼り付く。

 非常階段の方へ目を向けると、ひとつ上の階にあるドアを開けて人影が姿を消す。

「誰かが…」

 気になった紫苑さんは、家庭科室を出ていって非常階段のある階段室へ足を運ぶ。

 ぱたぱた、と降りてくる足音に気づいて、階段室手前の壁に身を隠す。

「早く戻らなきゃ…」

 その声は隆紫のものだった。

 さらに下の階へ行った隆紫の背中を見て、折り返す直前にまた身を隠す。

「ここにいたの…?でもなんで?体育祭の後始末じゃなかったの?」

 疑問に答える人はいないけど、思わず口から言葉が漏れた。


 紫苑に見られていたことも知らず、教室へ戻ってきた隆紫。

 授業は滞りなく進み、何事もなく下校時間になる。

「では頼むぞ、猿楽」

「かしこまりました」

 いつものとおり、校門の前で待っていた猿楽の車に乗り込んで明先本社へ向かう。

 その様子を遠くから眺める一つの熱い視線があった。


 次の昼休みとなり、隆紫はまた非常階段の踊り場で仕事の電話をかける。

「僕だ。メールは見た。その件は返信したとおりに動いてくれ。イレギュラーがあった場合は猿楽に指示を仰げ。夕方まで時間を稼げるなら、それ以後は僕が対応する」

 何の話?

 一つ上の踊り場で一人の影があった。

 何をするでもなく、下から聞こえてくる声に耳を傾けている。

「ああ、それから総務部に変わってくれ」

 え?

「部長か?僕だ。あの件は承認するから、そのまま進めてくれ」

 隆紫は電話を切り、メールの確認を継続する。

 ひとつ上の階にいた人影は、足音を立てずにそっと非常階段から校舎へ滑り込む。


「何…?総務部の部長って…しかも部長より上の立場…?」

 非常階段から校舎に戻った人影は、聞いた内容の意味がわからず混乱していた。

「何なの…明先くんって…」

 思い起こすと、校門の前まで迎えに来る車の姿が浮かぶ。

「まさか…学生でありながら、仕事をしてるというの…?」

 そう考えると辻褄の合うことだった。

「彼って優良物件ということで評判だったけど、まさかもう仕事してたなんて…」

 しばらくぐるぐると思いを巡らせて、でも結論が出ないと思い至り、その場を後にした。

「これは確かめなきゃ…」


 5限が終わった昼休みに隆紫のスマートフォンへメールが入った。

「どうやら今日は会社に顔を出さなくて済みそうだな」

 内容はすべて丸く収まったという報告だったから、そう判断した。

 6限は移動教室だから、教材を手に移動教室先へ向かう。

 一方、紫苑さんは移動教室の科目が終わり、家庭科室を後にする。

 入れ替わるように家庭科室へ入る茜や隆紫。

 授業が始まり、内容は調理実習だった。

「ではこれから野菜入り炒飯を作ります」

 先生の号令でテキパキと準備が進められる。

 すでに白米は炊かれていた。

「美味しい炒飯はご飯がパラパラしているものですけど、あれは大火力でご飯の水分を飛ばすのがポイントになります。ですが、ここのコンロは火力が足りないため水分を少なめにしたご飯にしてあります」

 周囲は役割決めを進めていた。

 隆紫は班組みの段階であたしとは別の班になってしまった。

 あたしはいつも隆紫に食事を作っているから、作り方は全部頭にすっきりと入っている。


「ほら、次は明先くんだよ」

「わかっている」

 隆紫はご飯、野菜が入った状態でバトンタッチして出番になる。

「それでは塩を少々振ります。続いて胡椒を適量振ります」

 ジャージャーと油の跳ねる音が響く教室に、先生の声が混じる。

「はい、明先くん。胡椒だよ」

「ありがとう」

 隆紫は塩を振り、続いて胡椒を振ったその瞬間…。


 どさっ


 その班は、空気が凍った。

 手にした胡椒の瓶は逆さになったまま、何が起きたのか理解するまでに時間を要した。

「…どうするんだ…これ?」

 同じ班の一人が声を出す。

 フライパンでジュージューと音を上げるご飯と野菜の上へ、胡椒がフライパンの中心に小高い丘を作り上げていた。一緒に落ちた透明な内蓋は油まみれになって段々と色が透き通っていく。

 隆紫は内蓋を外す動作をしていないのは明らかだった。

 隆紫は胡椒の蓋を菜箸で取り除き、先生を呼んだ。


 結局、胡椒まみれになった部分はフライ返しでざっくり取り除くことになった。

 このトラブルは前に使った人が多めに胡椒を振ろうと、蓋を取って使い終わった後に蓋が十分に閉まっていないことが原因という結論に至った。

 幸いにも、フライパンの外周にご飯と野菜が多く集まっていたため、試食段階でそれほど量は減らなかったが、想像していたよりも胡椒が利きすぎる辛い仕上がりになった。


 後片付けを進めるうちに、班の数人はやることがなくなった。

 その数人に隆紫がいる。

 こっそりとスマートフォンを操作して、茜にメッセージを送った。


 ピンポーン


 音量を小さく設定していたあたしのスマートフォンがメッセージの受信を知らせた。

『今日は一緒に帰ろう。家でゆっくりできそうだ。教室で待ってるよ』

 と隆紫からメッセージが入ってきた。

 あたしは思わず、ぱあぁっと顔が綻んでしまう。

 相変わらず忙しい日々を送っていて、一緒に帰る日なんてめったに無い。

 些細なことでも、少しの時間でも、一緒に居られることが嬉しくて仕方ない。

 ウキウキしながら後片付けを進める。

 教材を持ちながら教室を出た時、お手洗いに行きたくなった。

 手を洗うために流し台の棚にスマートフォンを置いた。

 ハンカチを取り出し、手を拭いて再び画面を見て顔が綻ぶ。

 ポケットにハンカチを入れようとしたけど、ポケットフラップが半分入った状態だったから、思うようにポケットにハンカチが入らない。

 手にしたスマートフォンを棚に置いてハンカチに持ち替え、空いた手でポケットフラップを整えてハンカチをポケットに収める。

 ルンルン気分でそのままトイレを出た。

「あ、こんにちは」

「こんにちは」

 体育祭で同じ救護テントを担当した紫苑さんだった。

 特に話すことは無かったから、そのまますれ違う。

 紫苑さんは忘れ物をした心当たりのある家庭科室に入っていく。

 ほどなく紫苑さんは家庭科室を出てきて、あたしが出てきたトイレに入る。


「あら?忘れ物かしら」

 紫苑さんは流し台にあったスマートフォンを手にする。

 見ると、画面には隆紫からのメッセージが表示されていた。

「彼、今…教室にいるんだ…」

 そう呟いて、元あった場所にスマートフォンを戻す。


 いけない。トイレにスマートフォンを置いてきちゃった…。

 教室のあるフロアまで上がったところで忘れ物に気づいた。急いで心当たりのトイレへ急いだ。

 画面は三十秒操作がないとロックが自動でかかるようになってるから、簡単に中身を見られないと思うけど。

 トイレに入ってすぐ、流し台の上に置いてあったあたしのスマートフォンを手にして教室の階へ急ぐ。

 その時、あたしは気づかなかった。

 画面、背面ともにまるで未使用のようなほど、きれいに拭き取られていたことを。

 珍しく一緒に帰ることになっていて、待ち合わせ場所は教室に指定されている。

 下校時刻は過ぎているので、どの教室も残ってる人は少なくてガランとしていた。

 教室番号の外札が見えた。もうすぐ…。

「おまたせ、隆…」

 隆紫は窓を背にして女の子がその隆紫に抱きついていて、お互いに顔を至近距離に近づけていた。

「えっ…?」

 何が起きているのか、理解するまで時間がかかった。


 バササッ


 手にしていた教材一式を床に落としてしまう。

「何…してるのよ…」

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