第28話:ない:びゆ(Night view)
あたしは夕食の後片付けをしながら、さっきの言葉を頭の中で
『確かに仕事漬けな毎日で一度もデートしたこと無かったな。せっかく
逢いたければいつでも逢える。
けど、生活の一部になっている今の状況とは違う気持ちで逢ってみたい。
それに、一度やってみたい。待ち合わせ。
一緒に住んでいるから、一緒に出てくればいいとも思ったけど、やっぱり今の日常から離れて気分を変えたい。
そして数日が過ぎ、やっと念願かなって隆紫とデートの約束を取り付けられた。
カレンダーにバツ印を付けて、日が迫ってくるのをソワソワして浮足立つあたし。
一人ファッションショーをしたり、ベッドに所狭しと広げた服を眺めて、どれを着て行こうか悩むという、ベタなことをして夜を過ごした。
デート当日
………忘れてた。
あたしは今、駅前広場で佇んでいる。
ただし、ビシッと黒スーツ黒サングラスを着けた高身長でガチムキなボディーガードこと
「あのー、官司さん…。今日は…」
「存じ上げております。隆紫様と
はぁ…。
これまでずっと登下校の間も付いてきてたけど、すっかり慣れて空気みたいに思っていたから、デート当日のことまで気が回らなかった。
「おい官司、命令変更だ。こいつを渡すから、アラームが鳴らない限り僕たちのことは放っておいてくれ」
後から追いついて合流した隆紫が取り出したのは、アマチュア無線のようなアンテナが出ている小型端末だった。
「茜と僕がそれぞれ発信機を持っている。身の危険を感じたら呼ぶから、それまではお前もどこかでぶらつくんだな」
「承知」
隆紫から指示されたことで、官司さんはやっとあたしたちの前から姿を消した。
はぁ…。
本日二度目のため息。
せっかく『待った?』『ううん、今来たところ』をやろうとしたのに、
「それじゃ茜、行こうか」
「それはいいんだけど…」
「何か不満か?」
駅前広場の自動車用ロータリーに横付けされた、黒塗り胴長な高級車がドドンと居座っている。
その圧倒的威圧感に、他の乗用車は周囲数メートル間を空けて停車している始末。
「なんで
せっかく官司さんが視界から消えたというのに、今度は同じくガチムキ黒スーツな猿楽さんが車のドアを開けて佇んでいる。
「自慢じゃないが僕は生まれてこのかた電車というものに乗ったことがない。だから駅前広場で待ち合わせというリクエストを不思議に思ったんだ」
「自慢にならないわよっ!」
あたしは頭を抱えつつ、どこまでも展開が読めない愉快な仲間たちに
そういえば隆紫に駅前で待ち合わせようと言った時に、
「おい猿楽、屋敷に戻ってろ。今日はオフだ」
「
隆紫が下手にヒラヒラ振ると、猿楽さんは車に乗り込んでバカでかい車体を
獅子が去った場所の草を求めて集まる鹿のように、見慣れた大きさの乗用車が次々に目の前に広がるロータリーを埋め尽くす。
「どうした茜?しゃがみこんだりして」
「この数分で激しく疲れたわ…」
「そうか、じゃあ帰…」
「るわけないでしょ!」
あたしは立ち上がって駅へ足を進める。
しかしこの後、さっきまでのやり取りが何を意味するのか、あたしの考えがいかに甘かったかを思い知る。
ピンポーン
「なんだこれは?なぜ通れない」
隆紫が改札ゲートに制止されて警告音が鳴り響く。
「当たり前でしょ。電車は乗車券というものが必要なのよ」
「なんだそれは」
信じがたい返しを聞いて若干引くあたし。
「あなた、本当に財閥の御曹司?世間をというものを知らなすぎでしょ。そんなんで跡を継げるの?」
なんだかもう、ムードどころの話ではなくなってきている。
「タクシーみたいに後払いじゃないとは。うーん…ならばこれは使えるか?」
取り出したのは券面が金色のクレジットカードだった。それを隆紫は自動改札のカード認証部分に
「本当に何も知らないのね。そんなのが使えるわけ…」
ピッ
バタン!
「へっ?」
今度は警告音じゃなくて、認証音が耳に飛び込んできて、ゲートが開いた。
「これで通れるわけか?」
まさか、交通系ICクレジットカードを持ってたなんて…。
そのままゲートを通り過ぎる隆紫。
「おーい茜、来ないのか?」
振り向きざまに声をかけられてハッとなる。
「今行くわ」
続いて交通ICプリペイドカードを自動改札機に
ピンポーン
『チャージしてください』
今度はあたしがゲートで止められることになってしまった。
「あちゃ…隆紫、ちょっと待ってて。券売機に行ってくる」
学校は徒歩圏ということも相まって、しばらく使う機会が無かったからチャージをすっかり忘れてたわ。
それにしても、二人揃ってゲートで止められるなんて…恥ずかしいったらありゃしないわ…。
やっと駅のコンコースへたどり着いた。
こんなに疲れた待ち合わせは初めてね…こういうデート自体初めてだけど。
「それで、どこへ行くんだ?」
「あのね…行き先は僕に任せろって言ってたでしょ。決めてないの?」
「そりゃ決めていたけど、猿楽が運転することを前提に組んでた予定だから、電車を使うと多分一箇所目へ行くのに半日はかかる。最寄り駅もこれから調べることになる。それでもいいか…ってどうした?」
この不毛なやり取りに、クラクラとめまいがしてきた。
「もういいわ。今日の行き先はあたしが決めるから…」
「茜、怒ってるのか?」
「呆れてるだけよ」
ため息混じりに短く答えた。
タタンタタン…タタンタタン…
レールの継ぎ目を拾って、車内に小さな衝撃音としてリズムを奏でる。
「どうした茜?ずいぶん静かじゃないか」
「うるさいわね。ちょっと考え事をしてるのよ」
先程までの隆紫を見ている限り、世間一般の常識というか、知識が著しく欠如していることは想像に難くない。
次に隆紫がやらかしそうなことといえば…。
「下手な考え休むに似たり…痛っ!」
あたしは黙って隆紫の眉間にデコピンをお見舞いする。
いくら考えても結論は出なかった。
そしてほどなく、その出なかった結論の答え合わせをすることになった。
「申し訳ございません、お客様。当店はカード非対応でございます」
こう来たか…。
またもや頭を抱えるあたし。
ランチタイムまでなんとか切り抜けて来られたけど、隆紫はレストランの会計にカードを出して店員さんを困らせていた。
「まいったな…普段から現金なんて持ち歩いてないぞ」
「もういいわよ。あたしが出すから」
そりゃそうよね…普段猿楽さんが同伴だし、現金支払いなんてしたことなさそう。
完璧超人に見える隆紫も、こういう姿を見ると万能ではないことを肌で実感できる。
「すまん、茜…」
「もういいわよ。このノリもだいぶ慣れてきたし」
こうも疲れる展開はあまり慣れたくはないけど、そんなことも言っていられない。
そんなことを考えていたら、突然…
「ちょっと来てくれ」
あたしの手を掴んでずんずんと歩いていく。
「ちょっと…ここ…」
あたしはその建物を見て、思わず後ずさりしてしまう。
あまりに立派過ぎて、威圧すら感じているあたしの手を引っ張って、その建物に入ろうとしている。
「やだ…あたしにはまだ早いわよっ!!」
「何を言ってるんだ。これは君のためでもあるんだ」
グイグイと引っ張る手を振りほどこうとしても、隆紫は全く動じない。
「ほら、変に思われるよ?」
気づけば、もう引き返せないところまで足を踏み入れてしまった。
あたしは覚悟を決めて、隆紫と手をつないだまま足を進める。
「いらっしゃいませ、お客様。お探しのものがございましたらなんなりとお申し付けくださいませ」
誰が見てもそれと分かる、ビシッとしたスーツ姿で出迎えるスタッフに、あたしは思わず気後れしてしまう。
ここは世界的有名高級ブランドのお店だった。
内装はダークトーンながら、飽きのこないシンプルで品格を漂わせる計算され尽くしたラグジュアリーな空間がそこにあった。
スタッフはいずれも洗練された立ち居振る舞いで、まるで王宮に迷い込んだかのような錯覚を起こしてしまう。
こんな高級店…初めて入ったわ…でもあたしには場違いだから行きたくなかった。
「財布を探している」
「お財布でございますね。こちらに取り扱いがございます」
案内された先には、商品同士が贅沢なほどのスペースを使って配置されていた。
黒くて小さいサイコロみたいなものが並んでいて、そこに商品価格の数字が銀のエンボス加工で記されている。
一…十…百…千…万…っ!?
げっ!
思わず身を引いてしまう。
十種類ほどある財布のどれも、六桁に届く寸前の五桁が並んでいた。
あたしが使ってる財布なんてこれの一桁少ないものよっ!?
ここはハイパーインフレの空間なのっ!?
「これをもらおうか」
即決っ!?
指差した財布は長財布で、消費税を入れたら六桁に届いてしまう。
「ありがとうございます。ただいま奥からお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」
案内係が奥へ姿を消し、ほどなく戻ってきた。
立派な箱に入った黒塗りで本皮みたいなテクスチャが入った箱から、隆紫が選んだものと同じ財布が姿を現す。
「支払いはカードで」
隆紫はこともなげに自動改札で使ったカードを差し出す。
「ふう…心臓に悪いわね…あの空間」
「スタッフの練度はなかなかだったな」
「あのね…」
あたしの疑問はまだ晴れてない。あたしのため、というのは…?
続けて隆紫はまたあたしの手を引っ張って、今度は銀行のATMコーナーへ入った。
まさか…。
「入り切らないぞ。財布が小さすぎないか?」
そう言って、隆紫はなんと横に立ててそのまま自立するほどの札束を財布に押し込もうとしていた
「馬鹿じゃないのっ!?そんなに持ち歩く人がいるわけないでしょ!」
「そうなのか?僕のカードは上限額が…」
「ああもう、貸してっ!!」
こうしててもキリがないから、あたしは自分でも触ったことのないほどの札束から、5枚ほどを隆紫の財布に入れて、財布と一緒に残りを隆紫へ突きつける。
「はい、普通はこれくらいで足りるわよ。早く残りは
「…こんなので足りるのか」
「それでも十分すぎるわよ。足りなければそれこそカードでいいでしょ」
やや不安そうな顔をしながら、隆紫は手にした札束をATMに入れた。
この後は、特にこれといって隆紫の問題行動もなく日が落ちてくる。
気づけばあたしは隆紫と指を絡ませる恋人つなぎをして、二人で歩いていた。
「茜…今日は、ずいぶん迷惑をかけてしまったな」
「いいわよ。こういう人間らしい欠けてる一面があるとわかったし」
あたしたちは海の見える夜景が楽しめる公園に来ている。
柵の向こうは波打つ海。
柵にふたりもたれ掛かって、夜の海と遥か向こうに見える街明かりを眺めていた。
ふと、視線がぶつかる。
月明かりに映える隆紫の顔から、目が離せなくなる。
「茜…」
「隆紫…」
どちらからともなく、ふたりは抱き合って見つめ合う。
そして吸い寄せられるように顔を近づけていく。
お互いの吐息すら感じられるほどの距離になった瞬間…
♪♪♪♪♪♪
突如、隆紫の携帯が着信を知らせようと自己主張を始める。
…ああもう、せっかくいいムードになったところで…。
ポケットからスマートフォンを取り出して耳に当てた。
「僕だ。どうした?ああ、それは僕の捺印がいるな。わかった、すぐ向かう」
一瞬で察した。
隆紫はすぐ本社に行かなければならないことを。
「…茜」
「わかってるわ。いってらっしゃい。帰って待ってるわ」
「すまない」
再びスマートフォンの画面に目を落として、耳に当てる。
すっかりキスするようなムードではなくなってしまった。
「僕だ。官司はすぐに茜の護衛に回せ。猿楽は…」
「こちらにおります」
薄暗い植え込みの影から、スマートフォンを耳に当てた猿楽さんが姿を現す。
終話ボタンを押してポケットにしまう。
「予定変更だ。官司はこの後オフにしろ。茜を離れに送ってから本社に向かうぞ」
「畏まりました」
こうしてドタバタとした隆紫とのデートは終わり、猿楽さんの運転する車で窓をスクリーンにした夜景を眺めていた。
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