第14話:ぼで・がど(Body guard)

「………は?」

 今、隆紫りゅうじがなんて言ったのか理解できなかった。

 聞き間違えか、勘違いか。

「どこへ?」

 どうせ勘違いや思い違いだろうと思って、ベタな展開を促す聞き返しをした。

あかねが僕と、恋人として付き合ってくれ」

 頭の中が真っ白になった。

 あの隆紫が、意地悪であたしの困っている姿を見てニヤニヤしてる隆紫が、あたしを一人の女として認めて…。

 いや、絶対何か裏がある。

「ふん、その手には乗ってあげないから」

 どうせ今回もあたしの慌てる姿を見て楽しもうって魂胆だろう。

 話を打ち切ってリビングから出ようとするあたしの腕を隆紫が掴む。

 掴んだ腕をそのまま壁に押し付けて、あたしは壁を背に、前には隆紫が覆いかぶさるようにして迫ってきた。

 思わず目を閉じてしまったあたしは恐る恐る目を開ける。

 これまでキスマークを付けられる以外でこれほど隆紫の顔が迫ってきたことはない。

「本気だ。逃がさない」


 ドキッ!


 いつになく真剣な顔つきを見せられて、心臓が飛び出しそうになる。

「ふ…ふん、どうせあたしが慌てたところで茶化すんでしょ。隆紫はいつもそうなんだから」

 顔が迫る隆紫を見ないようにそっぽを向く。

「いつもはな。だが今回は違う」


 キュン…


 その一言に、胸が締め付けられるような想いに駆られる。

 ずっと雲を掴むような手応えのなさに焦れて、隆紫に振り向いてもらうのは諦めると決めたあたしの心は、みるみるほどけてゆく。

「隆紫…あたし、ずっと待ってた。ここに来た時はひたすらお父様が融資分を早く返済して、あたしは早く実家に帰ることばかり考えてた…」

 目の前に迫った顔、その目を見て言葉をつなげる。

「けど、一緒に過ごして…気づいてしまった気持ちはもう止められなくて…ずっと言えなかったけど、隆紫…あなたが、好き…」

 感極まったあたしの目はすでに潤んでいた。

 すると隆紫は驚いたような顔の後、バツが悪そうに表情を変えた。

「あー…付き合うって言っても、少しの間だけってつもりだったんだけど…」

「へっ?」

 思わず目が点になりそうな気分だった。

 この時、すっかり忘れていた。薫に言われたことを。まさに今思い出した。

真弓まゆみさんってすごい激しく僕を追いかけてくるから、諦めてもらうために付き合ってるフリをしてほしいって意味だったんだけど…」


 今度こそ、あたしは真っ白になった。

 頭の中は言うに及ばず、髪も体も服の色も真っ白になってサラサラと風に流される灰のような真っ白に。

 ほどなく現実に引き戻されたあたしは

「……あ………あはははははっ!迫真の演技だったでしょ!?こんな感じで真弓さんに見せつければいいのかなっ!?」

 強がり。

 こんな言葉が今のあたしにはピッタリかもしれない。

「…ああ、十分だ…けど」

「けど?」

「いいのか?それで」


 ズキッ


 よくない。

 本当は、嫌だ。

 あたしだけを見て欲しい。

 隆紫に迫る真弓さんへ対する牽制なんかじゃなく、本気で向き合う関係になりたい。

 でも、こんな気持ちを知られて、気持ちを受け入れてくれなかった後でも、今の関係をそのまま続けていられる自信はない。

 これまで、ただでさえギクシャクしてた二人だから。

「いいのよ。偽装カップルの話は薫から聞いてたし、そろそろあたしにも来る頃じゃないかと思ってたわ。話はそれだけ?」

「ああ、それだけだ」

「それじゃ明日からでいいわね?」

「助かる」

 話がまとまり、時間になったあたしは仕事を終えて自分の部屋に入る。


「うっ…うああ…ああああっ…」

 背にしたドアへもたれかかって、そのまま泣き崩れた。

 声を上げて泣きたい気持ちを抑えつつ静かに。

 わかっていた。

 わかっていても、これで決定的になってしまった。

 あたしの気持ちは、隆紫には届かないんだ…。


 パタン

 自室のドアを閉める。

 明かりを点けることすら忘れて、月明かりの差し込む窓のわずかな光が照らすベッドの横に佇む。

 その暗闇に照らされるベッドは、まるで隆紫の心を包み込む闇をそのまま現しているかのようだった。

 いや、真に隆紫の心を表すならば、そのわずかな月明かりすら明るすぎる。

 ボフンッ!!

 スプリングの利いたマットレスに思いっきり垂直で拳を叩きつける。

 壁や床に叩きつけたなら、その部分がへこんですらいただろう。

 そしてその音は茜の耳に届いていたはずだ。

「また…茜を悲しませてしまった…僕は…茜を笑顔にすることはできないのか…」

 悔しさに顔をクシャクシャにして涙を浮かべていた。


 二人は互いに涙を流していることを知らないまま一夜を明かした。


 結局あまり眠れなかった。

 朝食は今日も別々。

 あたしは離れ。隆紫は母屋。

 登校の時間が近づいてきたから、制服に着替えたあたしは隆紫を玄関で待つ。

 トントンと階段を降りてくる音が耳に飛び込んできた。

 ほどなく隆紫の制服姿を確認した。

「それじゃ、今日から恋人同士のフリね」

「茜、その…本当にいいのか?」

「早く真弓さんに諦めてもらうため、がんばって演じるわ。それじゃ学校で」

 なんだか妙なことになってしまったけど、隆紫のため…あたしにできることをやると決めた。

 だけど大事なことを忘れていた。

 この決断がもっと大きな問題を引き起こすという事実があることを。


 学校に着くと、薫がすでに登校していた。一緒に出たはずで、車だから早く着くはずの隆紫はなぜかまだ来ていない。

 そうだ。薫にだけは言っておかないと。

「薫さん、大事なお話があります。他言無用でお願いしますね」

「まさかー」

「うん。そのまさかです」

 こっそりと薫に耳打ちする。

 偽装カップルとして付き合うことになった、と。

「ちょっときてー」

 手を引っ張られ、人の少ないところに連れ出された。


「茜、だいじょーぶなの?」

「問題ありませんわ。完璧に演じきってみせます」

「そーじゃないわよ。茜の気持ち…」

 言いかけた薫の口元に人差し指を立てる。

「彼の気持ちは昨夜に思い知りました。わたくしは彼のお世話役に徹して過ごすと決めました。これはその一環です。くれぐれも、他言無用でお願いしますわ」

 そう言い残して、あたしはその場を離れた。

「…ひと晩中泣き明かしておきながら、よくそんなことが言えるわねー」

 まるで見ていたかのようなそのつぶやきは、あたしの耳に届くことはなかった。


「おはよう、諸君」

 なぜか隆紫はあたしよりかなり遅れて登校してきた。

 すでに真弓さんは登校してきていて、隆紫につきまとい始める。

「おはようございます。

 早速呼び方を変えてさり気なくアピールを始める。

「んっ?」

 真弓さんは何かに気づいたらしく、いぶかしげな声を上げた。

 けどそれ以上は追求してこない。

 あたしは隆紫の側に行って話しかける。

「隆紫さん、今日はお昼をご一緒しましょう。心を込めてお弁当を作ってきましたの」

 前もって朝のうちに作っておいたお弁当はカバンの中に入っている。

「それは楽しみだな。お昼は二人でゆっくりできるところを探そうじゃないか」

 鼻にかかったような喋り方は相変わらず続いている。

 薫が心配そうな顔でこっちを見ているけど、気にしない。

「ええ、わたくしもご一緒に過ごす時間が楽しみです」

 偽装とはいえ恋人関係になったことは、聞かれるまで何も言わない。

 そう二人で決めたことだった。

 自分から言うと空々しくなる可能性を考慮してのこと。


 ゾクッ!


 鋭い視線を感じて、その視線を追うと真弓さんだった。

「何かしら?真弓さん」

「別にっ」

 何を怒っているのかわからないけど、隆紫につきまとう空気が少し変わって距離感を持ち始めた気がした。

 休み時間になると、隆紫はあたしのところに来る。

 そして教室の外に出て、ひとけの無いところで隆紫は一人行動を始める。

 あたしの前を通りすぎない限り、誰も隆紫のところへはたどり着けない場所。

 仮にあたしが一人なのを目撃されても、隆紫がその奥にいるからなんとか言い逃れはできるようにしてある。

 仕事で電話しているであろうその時間が終わると、隆紫が姿を現す。

「悪いな、面倒な役回り…」

 聞かれては困ることを口走りかけた隆紫の口元に人差し指を立てる。

「うかつなことを言うと、誰が聞いてるかわかりませんわ。今のあたしたちはあくまでも普通の恋人同士。違いますか?」

 口元に立てた指をひっこめる。

「そうだったな」

 意外だったのは、朝のやりとりだけで真弓さんがしつこく絡んでくる様子はぱったりと途絶えたことだった。

 とても熱心な分、隆紫に彼女ができたことはそれほどショックだったのだろうか。

 けどわかっていた。

 この状態が不毛だということは。

 一緒にいるのに、心の距離は大きく離れている。

 昼休みになって、二人でお弁当を持ってひとけの無いところへ足を運ぶ。

「しかし意外だったな。こうもあっさり引き下がってくれるとは思わなかった」

 ベンチに腰掛けて、こっそりと話しかけてくる隆紫。

「うん、拍子抜けするくらいでしたね」

 問題は、この関係をいつまで続けるかということ。

「黙ってて」

 突然、隆紫が何かに気づいたらしく、あたしを黙らせる。

「何か言いたいことがあるならはっきり言ってみてはどうだろう。我慢は体に良くないよ。そうは思わないかい?」

 え?

 その呼びかけに、誰も返事をしない。

 そもそもどこに向かって呼びかけているのかすらわからない。

「名指ししなければ声も上げにくいかい?」

「なんだっ、気づいてたのっ」

 後ろの植え込みから、ガサッと音を立てて真弓さんが姿を現す。

 いつの間に…。

「それで、何を言いたくて隠れてたのかな?」

 真弓さんは目の前まで移動してきてから口を開く。

「言う前に一つ確認しとくっ。二人は付き合ってるのっ?」

「そうだよ。言わなければわからなかったかい?」

「聞かなくてもわかってたよっ。けどこれで言いたいことを言えるっ」

 真弓さんは隆紫ではなく、あたしを見る。

 …何かあったっけ?

くぬぎさんのっ…嘘つきっ!!」

 あたしっ!?

「何のことかしら?」

「とぼけないでよっ!わたしのこと応援するって言ってたくせにっ!」

 ………あ。

「…言われて思い出しましたわ…というよりもすっかり忘れていました」

 少し前に、あたしと隆紫では釣り合いが取れないからと、真弓さんの恋を応援するって自分で言ってた…。

 しまった…偽装カップルを引き受けたのは失敗だったわ…。

「二人の間でどういうやりとりがあったかは知らないけど、僕から茜くんに告白した後に粘ってなんとか口説き落としたんだ。となれば責められるべきは茜くんではなくて僕のほうだろう。文句は僕がいくらでも聞こう」

「これは明先さんには関係のないことよっ!わたしと櫟さんの問題だからっ!」

「茜くんの問題は彼氏である僕の問題でもある。僕を差し置いて話をしてもらっては困るな。言いたいことがあるなら僕も聞こう」

 真弓さんの肩が震えを見せる。

 言いたいけど、隆紫を前にしては強く出られない憤りがあるためだろう。

「…櫟さんは絶対に許さないからねっ!」

「僕の彼女に手を出したら、僕は決して君を許さない。それだけは覚悟しておいてくれたまえ」

 キッ!とあたしを睨みつけて、真弓さんは背を向けた。

 怖い…。何をしでかすかわかったものじゃないのが、余計に怖い。

「茜、すまない。こんなはずでは…」

「話は後にしましょう。どこで誰が聞いてるかわからないわ」

「…そうだな」

 余計にややこしくなってしまったあたしたち二人の関係は、この先どうなってしまうのか…先行きがますます見えなくなってきた。


 真弓さんの敵意を一身に受けて、放課後になった。

「それでは一緒に帰りましょう。隆紫さん」

 連れ立って教室を出るあたしたちの背中…いや、あたしの背中に真弓さんの視線が突き刺さる。

 学校を出て、校門前に待機している猿楽さんの運転する車に隆紫が乗り込む。

「茜も乗れ」

「あたしは…」

「黙って乗れ。ワケは後で話す」

 真剣な隆紫の目を見て、追求は諦めることにした。


「おや、今日は茜様もご一緒ですか」

「少々やっかいなことになった。屋敷の途中で茜は降ろす」

 猿楽さんの声に答える隆紫。

「茜、十分に用心しろ。真弓あいつは何かを企んでいる。僕はこのまま明先本社へ行くけど、茜はまっすぐ離れに戻れ」

「…わかったわ」

 車で5分ほど進んで、あたしは車を降りる。


「坊っちゃん。それで、何があったのですか?」

「今、僕は真弓という女に付きまとわれている。諦めさせるために偽装カップルを茜にやらせているけど、どうにもすっきり収まりそうにない」

「では、監視を付けさせますか?」

「いや…茜の身が危険に思える…万一のため」

「護衛が必要ですね」

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