やってきた異世界にて
純はしばし、その幻想的な風景に見惚れていた。
やがて風が吹き、草原を舐めるように揺らすと、草原に生えていた草が一斉に舞う。
その中の一つが、純の鼻の上に落ちてきた。
純はそれを恐る恐る拾って眼前に持ってくると――それはうねうねとまるで純の手から出ようともがくようにその身体を動かし始めた。
「うわぁ!?」
純が慌ててその草を離すと、草は開放されたことを喜ぶように空を跳ねまわり、浮遊している草の群れに加わっていく。
それは本当に、目を疑うような光景だった。
「本当に、来たんだ……」
またもやこの景色に心を奪われそうになったとき、純はハッとなる。
「そうだ――! あの渦!」
純は勢いよく振り返り、後方を見る。
後ろには、横に広がる深い森しかなく、あの黒い渦はそこにはなかった。
それは、純の浮ついた心をたちどころにへし折った。
「そんな……」
たちまち、この幻想的な世界が灰色と化し、不安と恐怖がたちどころに純の心を支配していく。
この世界には、自分を知っている人は存在しない。ましてや、なにか危機的状況に陥ったときに、それを助けてくれる人もここにはいないわけで。
そしてその世界は、そういうった人達に悪辣で、
「グゥゥゥ……」
森から、真っ赤に染まった目が二つ見えた。
次いでそれは徐々に森から姿を現わしていき、その体躯を露わにする。
体長はおよそ二メートルほど。短い茶色の体毛で覆われており、四本足で立っていることから、その様相は熊を彷彿させる。
だが、熊にはない長い爪と牙――そして真っ赤に血走った目が、それを熊だということを否定する。
その熊のような獣は、涎をだらだらと垂らしながら、まるで犬が警戒したときに出すような低い唸り声を上げている。
――俺の縄張りに何の用だ。そう言わんばかりに。
「うあ……!」
純は檻の中にいる状態でしか、こんな大きさの動物と間近で接したことはない。しかもその動物は、調教され、人間慣れしている。少なくとも、こんな警戒心をむき出しにされ近寄られてきたことはない。
純の頭は、真っ白になった。
「ひ……!」
純は熊のような獣に背中を向けるようにしながら、走りだそうとした。
だが、上手く足が動かず、足がもつれてそのまま勢いよくその場にすっ転んだ。
――そしてそれが開戦の合図だった。
熊のような獣が、その四本足を駆使して一気に地を駆けた。
その速さは巨体に見合わず高速で、あっと言う間に純と熊のような獣との距離は目と鼻の先になった。
目の前にいる熊のような獣が、ぎらりと光る鋭利な爪が生えた人間の胴体ほどの太さの前足を、勢いよく振りかざす。
「や、やめ――!」
純は顔をかばうような体勢をとるが、無駄だった。
前足は斜め上から振り抜かれ、純はそれをまともに食らい、草原をものの見事に跳ねまわった。
何度か跳ねた純の小柄な体躯は、熊から一定の距離をとったところで止まる。
服は切り裂かれ、色んな所をしたたかに打った身体はどこもかしこも痛む。
――だが、それだけだった。
「あ、あれ……?」
純は地面から身を起こすと、体の傷を検分する。
身体を引き裂かれ、絶命してもおかしくないほどの攻撃を受けたはずなのだが、衝撃としてはがたいのいい人に芝生の上でタックルを食らったような感じだ。爪の食い込みも浅く、かすり傷程度しかついてない。
ようするに、そこまで大した傷ではないのだ。
「いったいどうなって……」
「グオォォォォ!」
熊のような獣は雄叫びを上げると、畳みかけるようにこちらに迫ってきた。
その速度は先程と同じなはずだ。だが、どういうわけか、それほど速いようには見えなかった。むしろ、遅く見える。
熊のような獣が、先ほどと同じように前足を振りかざし、純を切り裂かんとした。
だがそれを純は、身体を半歩後ろに下がることで避けた。
「グオォォォォ!」
熊のような獣はそのままの勢いで純に肉薄すると、口を大きく開けた。真っ白な牙と涎で濡れた口内が顔を覗かせる。
そしてその口は、純を頭から噛りつこうと勢いよく迫ってくる。
それをまたもや純は横っ飛びで避けた。不細工な避け方だが、喰われるよりかはましだ。
純は崩れた体勢を慌てて立て直しながら、熊のような獣との距離を一メートルほど空け、身構える。
だが、熊のような獣は追撃してくることはせず、相手の力量を推し量るかのようにこちらをじっと見つめていた。
純は熊のような獣から目を離さないようにしながら、ふと考える。
どうして自分がこの熊のような獣から逃げ続けられているのか。
その解は、もうほとんど出てきている。
――原因は、この異世界だ。
異世界ものにおいて、異世界にやってきた人間は、その世界では大抵身体能力が高くなっていることが多い。
つまり今ここでこの熊のような獣から逃げ続けられているのは、純もそのパターンに適応され、身体能力が高くなっているからだ。
チート能力――異世界にきたら勝手に強くなっていることを、界隈ではそう言われている。
ようは何もしてないのに勝手に強くなってるから、それってチートじゃね。みたいなことだ。
そして純もそれに倣ってそのチート能力を手に入れたようだが、ここである疑問が発生する。
それは、どれくらいのチートさなのか、ということだ。
チート能力といっても、強さには結構ばらつきがある。
世界中のありとあらゆる人間を超越した文字通りのチートさもあれば、ただ他の人より身体能力が優れているだけとか、強いけど更に上はいるとか、そういうちょっと現実的なチートさもあるのだ。
それを、今ここで確かめてみなければならない。
純は身構えた。今度は、こっちが反撃する番だ。
軽く息を吐き、純は間合いを詰めるべく勢いよく地面を蹴った。
純はいま丸腰だ。ならば攻撃するためには相手の懐に飛び込むしか方法がない。
なので、とにかく間合いを詰めようと走り出した地を蹴ったわけだが。
「うわ!」
身体が強化されたことに慣れてないのか、凄まじい勢いで純は熊のような獣との距離を詰めた。もう、拳を放てば相手に届くくらいだ。
「グゥ!」
熊のような獣は純がいきなり眼前に現れたことに驚いたのか、前足を振り上げ二足歩行するように立ちあがり、その前足を純に叩きつけようとした。
けれど、それは純が熊のような獣のちょうどお腹の部分に拳を叩きつけるほうが早かった。
「グオォォォォ!」
熊のような獣はかなりダメージを負ったのか、身体をよろめかせ、後ろに振り上げた前足を置いて体勢を立て直しながら純と距離を取った。
今のは手ごたえがあった。
だが、熊のような獣がただダメージを受けただけなのを見ると、身体能力の強化としては、そこまで飛躍的に高くなってはいないのかもしれない。
ならば次だ。
純は先程まで恐怖でいっぱいいっぱいだったことも忘れ、次にやることを考える。
次にやることは、魔法だ。
異世界の必需品と言ってもいいその魔法が使えるかどうか、試してみなくてはならない。
異世界においてたいてい魔法を使う時に大切なのはイメージだ。
具体的に色や大きさ、形などを頭の中で思い描くことができれば具体化できれば、きっと魔法はこの場に顕現するはずだ。
純は手を開いて前にかざす。
イメージは自分と同じくらいの大きさの球体の炎。
「
純はご丁寧に技名まで発しながらやってみたが。
――魔法は発動しなかった。
「あれ……違ったかな」
なんだか無性に恥ずかしさを覚えながら、おどおどしていると、熊のような獣が動き出した。
身を翻し、森のほうへと駆けて行ってしまう。
「や、やった……」
純は森の中へと消えて行った熊のような獣を見て、身体中の力が一気に抜けて地面にへたり込んだ。
「た、助かった……」
純はホッとしたような溜め息を吐いたあと、ふと自分の手を見つめた。
今の自分なら、この異世界でも生活することができるのかもしれない。
きっとこの世界には魔物を討伐するようなギルドがあるはずだ。そこに行って登録して依頼をクリアする。
そうすればお金をもらえるはずだ。そのお金でどうにか生計を立てていけば、野垂れ死ぬことはないかもしれない。
そうと決まれば、早速遠くに見える街に向かおう。
純はそう決心して立ち上がった。
――そのときだった。
「う――!!」
なにかが純の口から飛び出してきた。
それは、緑色の草原を赤く染めた。
「え……?」
それは紛れもなく血だった。
純は慌てて口を拭うと、手の甲にべったりと血が付いた。
「な、なにこ――」
次いで、猛烈な吐き気に襲われる。
「う――」
純は地面に手をついて、必死に自分を落ち着かせる。
だが、時間が経てば経つほど、症状は悪化するばかりだ。
めまい、悪寒、手足のしびれ。
ここぞとばかりにありとあらゆる症状が純に押し寄せてくる。
ついに純は膝立ちになっていることさえもままならなくなり、そのまま地面に倒れこむ。
もう、視界は朧気で、意識が朦朧としている。
「どうなって……」
身体の感覚が、足の先から段々に無くなっていく。
「だれ……か……」
振り絞るような声で叫ぶが、そもそもいまちゃんと声が出ているのかもわからなかった。
「たす……け」
そのとき、森の奥から、ドドドドドド、と地を揺らすような地響きが聞こえてきた。
誰か、来る?
純はほんの一瞬期待したが、森から出てきたのは熊のような獣の群れだった。
先頭には先ほど対峙した熊のような獣がいて、その後ろにはその獣の体躯よりも一回りも二回りも大きな獣がひしめき合うようにしてこちらに向かってきている。
純は絶望した。
こんな状況であの熊のような獣たちと太刀打ちできるわけがない。
もう既に下半身は麻痺して感覚がない。逃げることもできない。
純は死を悟った。
結局、彼女に告白できないまま終わってしまう。
それが、とても情けなく感じた。
「奏多……さん」
最後の気力を振り絞り、純はつぶやいた。
「僕は、あなたのことが……」
「馬鹿お前。その先は本人の目の前で言えっての」
そのとき、声が聞こえた。どこかで聞いたことがあるような声だった。
「あとは任せて、さっさと寝ろ」
その声に安心したのか、純はゆっくりと目を瞑った。
プツンと、意識が途切れた。
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