第1話 彼女の涙

 純は教室のドアを閉めると、体内に溜まっていた緊張をすべて吐き出すかのように息を吐いた。


 そして先ほど話していた内容を思い返して、頬が上気する。


 他の誰かに、自分の恋心を知られてしまった。生徒ではないにしろ、それは思春期の学生にとっては穴があったら一生入っていたいくらい気恥ずかしいものだ。


 それにしても、森山は言いふらしたりしないだろうか。教師なのだからべらべら喋ることはないと思うが、教師だって人間だ。人の口に戸は立てられない。


 もし、彼女に胸の内が知られてしまったら、そう思うと身震いがする。たとえ同じ図書委員をやっていたとしても、自分と彼女ではあまりに釣り合わない。


 そんなことを考えながら昇降口に差し掛かったときだった。


「あ、立山くん。おはよう」


 いま現在進行形で頭を埋め尽くしていた彼女――奏多美愛が、靴を片手に持ちながら立っていた。


「あ、おはようはおかしいね、こんにちは? いや、こんばんはかな?」


 いまの時間帯が夕方だからそう言ってるのだろう、ということまでは理解できたが、それにどう返していいかまではまったく考えが及ばず、純は黙り込む。


 すると、美愛は「まぁどっちでもいいよね、そんなこと」と笑って、「立山くんも面談?」と聞いてきた。


 「立山くんも」ということは、美愛も面談で呼ばれたようだった。


「うん。奏多さん、僕の次だったんだね」

「そうみたいだね。どうだったの、面談? 志望校決まった?」

「う、うん、まぁ」

「へぇ、どこ受けるの?」

「く、草刈くさか


 純は意を決してそう言った。これを聞いた彼女がどういう反応をするのか、心臓をばくばくさせながら。


「そっか。そうだったんだ……知らなかったなぁ」


 嬉しがるでもなく、驚くわけでもなく、彼女は寂しそうにそう言った。その表情は、なんだか「いいなー」とでも言いたげな様子だった。


「え、奏多さんもそこ受けるんじゃ……」

「……知ってるの?」


 目をキョトンとさせて純を見る美愛に、純はしまったと声を上げそうになる。


 なんとか取り繕わなくては。


「い、いや、先生が、言ってて……」

「先生が? まだ知らないのかな」

「知らない……?」

「私ね、志望校変えたんだ」

「え!? ほんとですか!?」


 思わず大きな声を出してしまう純。


 その様子に、くすくすと笑う美愛。


「そんなに驚くことかな?」

「ま、まぁ、そうですよね……」


 純は一度気持ちを落ち着かせるべく、軽く息を吐く。


「志望校、どこにするんですか?」

「それがまた決まってないんだ。どこがいいのか」

「決まってないのに、変えるんですか?」


 純の頭の中は疑問符が飛び交っている。


「変えるというより、なのかな」

「……それは、成績があまり良くなくて変えるとか、そういう」

「それがね、私の成績上がる一方なの。すごくない?」


 茶目っ気を入れながら明るく話す美愛。嘘は言っていないように見えた。


「じゃあ、なんで」

「まぁ、色々あるんだよ。人生ってのはさ」


 ふと、美愛の目線が昇降口の外に向いた。


 その目線を追うようにして振り返ろうとして、


「じゃあ私行くね」


 美愛はそう言って、純に背を向けて歩き始める。


「あ……」


 純の手が無意識に伸びた。けど、その手は半ばで引き戻されていく。


 彼女はなにかを隠しているのかもしれない。でも、そのことを上手く聞き出せる自信が、いまの純にはなかった。


 もし仮に、あの足が止まり、堰を切るように話してくれれば、聞くことくらいはできるのかもしれないが。


 そんな願いはただの願いでしかない――はずなのに。


 ――美愛の足が止まった。


「ねぇ、立山くん」


 美愛は振り返らない。意を決したような声色で、純の名前を呼ぶ。


「……なんですか?」


 純は彼女の言葉を聞き洩らさないように、全神経を耳に集中させた。


 そして彼女は、こう言った。


「異世界ってあると思う?」

「……異世界、ですか?」


 純はなにか聞き間違えたのかと思い、思わず聞き返す。


「うん、そう。あるのかな?」


 異世界――ここではない別の世界のこと。


 この異世界という言葉は、最近ではもっぱらライトノベルの転生もので流行っている。


 ことライトノベルにおいて異世界とは、今までの過去を一切合切切り捨て、新しい自分となって別の世界で生きる場所とされている。


 その異世界では基本、魔法が使えたり、魔物と呼ばれる凶悪な生き物が生息していたり、人間ではない人種が住んでいたり、とにかくファンタジー要素を全面に押し出されていることが多い。


 そんな異世界という場所が本当に実在しているのか、美愛はそれを純に聞いているのだとしたら。

 

 それは、なんて答えるのが正解なのだろうか。


「もし、あるとしたらさ」


 美愛は純の答えを待つことなく、そう続けた。


「私の第一志望は、魔法学校がいいかも」

「魔法学校、ですか」


 魔法学校とは、異世界ものでよく登場する魔法を学ぶための学校だ。この世界でいう高等学校のようなものだ。


「うん。だって、楽しそうだし。私も魔法、使ってみたいしさ」

「まあ、たしかにそうですね」


 異世界ものの魔法学校といったら、それはもう和気あいあいとしていることが多い。そこに憧れる人も、少なくはないだろう。


「それになにより――すごく自由じゃない?」

「自由……」

「うん。そこには夢があって、冒険があって、笑いがあって、涙があって、それらすべて自分たちの力で切り拓かれていく。素敵だなぁって。私も行ってみたいなぁって、そう思うんだ」


 まるで夢を見るかのような口調で、美愛はそう言う。


「だから私、いつか行ってみたいんだよね、異世界」


 終始、美愛のペースで進んだその話は、やっぱり最後も美愛のペースで終わった。


「なんて、ね」


 こうして美愛は今度こそ、この場から去って行った。


 純は立ち尽くしながら、美愛がいなくなった場所を呆然と見つめていた。


 いったい、今のはなんだったのだろう、そんなことを考えながら。


「君、ちょっと訊ねたいんだが」


 すると背後から野太い声が響いて、純は身体をびくっと震わせながら振り返る。


 そこにはスーツ姿で強面の中年男性が、純をじっと凝視していた。


「は……はい」


 すっかり物怖じしながら、か細い声でそう答える純。


 すると強面の中年男性はこんなことを言った。


「奏多美愛を見かけなかったか?」

「奏多さん……ですか? それなら、いま教室に向かってると思いますけど」

「そうか……わかった、ありがとう」


 強面の中年男性はやれやれと言わんばかりに肩を竦めると、純の横を通り過ぎていく。


 純はぼんやりとそれを目で追っていると、彼女が止まったあの場所とぴったり同じ場所で、強面の中年男性も足を止めた。


 そして振り返る。そして眉尻を下げ、申し訳なさそうに、


「すまない。その教室ってのはどこにあるのかな?」



 純はいま、強面の中年男性と一緒に階段を上っている。気まず過ぎて、階段の段数が三倍くらいに増えたような感覚がした。いつまでたっても教室に辿り着かない。


「君は、同じクラスの子かね?」


 もう少しで教室がある三階に辿り着きそうになったとき、だんまりだった強面の中年男性が純に話しかけた。


「え、は、はい……」

「そうか。すまないね」

「……なにが、でしょうか?」

「いや、なんでもない。忘れてくれ」


 強面の中年男性との会話は、これで終わった。


 こうして辿り着いた教室を見て、純は安堵の溜め息をこぼす。


 強面の中年男性は教室の前に着くと振り返り、声をかけてくれる。


「ありがとう。助かった」

「あ、いえ」


 大の大人に率直に礼を言われて、純は返す言葉も思いつかず、自分も頭を下げた。


 そしてその勢いのまま立ち去ろうとしたのだが、強面の中年男性のほうが一歩早かった。


 がらがらがらと教室のドアが開いていく。


「え……!」


 こんな急に開けてるとは思わなかった純は、目の前で開け放たれた教室の中を、無意識的に覗き込んでしまった。


 中に入って行く中年男。その教室の様子が、純の視界に映った。  


「――――」


 まず目に映ったのは美愛の横顔だ。映ったというよりは、映したという表現が正しいのかもしれないが。


 彼女は、泣いていた。


 目尻から零れ落ちる涙が、机の上に落ちる。


「あ、お父さん。どうぞお入りください」


 美愛の前で座っていた森山が、さっと席を立ちあがる。


「遅れて申し訳ありません。娘が一人で勝手に行ってしまい、案内してもらっていたら遅くなってしまいました」

「案内……?」


 そこで森山が、ドア越しに立っている純の存在に気がついた。


「立山くん?」


 その瞬間、美愛の顔がこちらを向いた。


 頬が濡れている。目が赤い。髪が頬に張り付いている。


 そんな彼女が、瞠目してこちらを見つめた後、


「――!」


 自分の今の状況に気づいたのか、勢いよく顔を背ける。


 そこでようやく純は、自分が場違いなことに気がついた。


「す、すいません。失礼します!」


 純は逃げるようにしてその場から走り去った。


 見てはいけないものを見てしまった。そんなことを思いながら。




 階段を半ば飛ばしながら、純は昇降口まで戻ってきた。


「はぁ……はぁ……」


 左手で下駄箱を掴み、右手で心臓を抑えながら、純は乱れた息を整える。


 いったい、美愛の身になにが起きたのだろうか。


 その事実を、純はすぐに知ることになった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る