移動
きづかと
プロローグ
季節は夏。夏休みが差し迫った頃。
「この高校は、ちょっと厳しいんじゃないかなぁ」
ここは三年三組の教室だ。
この教室の真ん中で、森山とその生徒――
「厳しい……ですか?」
純はそう言われて目に見えるほどに肩を落とし、しゅんとしながら森山にそう聞いた。小柄な体が、より一層小さくなる。
「この成績だとねぇ」
森山の机の上には、なにやら資料が詰まった透明のクリアファイルと、手のひらサイズの紙が置かれている。
森山は、この手のひらサイズの紙を見て顔をしかめていた。
この紙はいわゆる進路希望調査票というもので、行きたい高校の『第一志望』『第二志望』『第三志望』を書いてもらうことになっている。
これを参考に、先生は生徒に進路のアドバイスをしていくのだ。
例えば、もう少し成績が伸びるだろうからもう少し高い高校を目指したほうがいいんじゃないかとか、好きなことがあるなら、それを突き詰めるために四年制の大学じゃなくて、専門的に学べる専門学校に行くべきなんじゃないか、などだ。
今回森山が純にアドバイスすべきは、第一志望の高校が背伸びしすぎているので、もっと地に足をつけた高校に変えよう、というものだ。
だが、あからさまに落ち込んでいる純の姿を見ていると、もう少し様子を見てもいいのかなと思ってくる。まだ夏休み前だ。ここからぐんと伸びる可能性だってある。
で、教師歴三十年にもなる森山が見てきた中で、ここからぐんと伸びる生徒の大半には、共通点がある。
それは、理由が存在するかどうかだ。
「どうして、この高校を選んだの?」
ここから成績が伸びる生徒と伸びない生徒の違いは、ここにある。
ただぼんやり上を目指したいという生徒で、ぐんと伸びた生徒はほとんどいない。
「それは……その……」
純は目を泳がせながら、もごもごと口を動かす。ほんのりと顔が赤い。
「理由はあるの?」
「……はい」
純は恥ずかしそうにそう呟いた。
ここで森山は考える。
そもそも純は、上昇志向が高い生徒ではなかった。テストの点数はそれなりに取ってはいるが、良いほうではないし、日ごろの授業の態度も積極的ではない。
なので森山は、自分の身の丈にあった高校を受験するのだろうと思っていた。
けれど、実際は違う。上を目指そうとしている。
その理由は、なんなのか。答えは純の態度を見ればわかった。
「君は、好きな子と同じ高校に行きたいんだね」
「――!」
ド直球でそう言われて、純の顔が一気にトマトのように真赤になる。
「相手は……奏多かな?」
「――!!!」
純は図星を突かれて、何も言えず耳まで真赤にさせながら口をぱくぱくさせている。
「な、なんで……」
「だって、この高校を第一志望にしてる子、彼女くらいしかいないからね」
「あ、な、なるほど……」
純はばれた理由がわかって少しホッとしている様子だ。
「それで、彼女と同じ高校に行きたいから、この高校を志望したと」
「……やっぱり、難しいですか」
純の顔がまた不安そうな顔つきに戻る。
森山は、そんな純を見ながらこう言った。
「行こう。私も出来る限り手伝うからさ」
すると、純が驚いたように目を見開く。そして、零れ落ちるように「ほんとですか」と呟いた。
「うん、だからこれから頑張ろう」
「はい! ありがとうございます!」
純はここにきてようやくはじけ飛ぶような笑顔を見せる。
「受かるといいね。そしたら、彼女との青春の日々が待ってるよ。これがインスタ映えってやつ?」
「いや、意味違いますよ先生」
「え、あ、そうなの? じゃあなに、エモい?」
「うーん、僕もよくわかんないです」
「あ、そうなの……難しいよね、若者言葉」
「まあ、若者でもマスターできないですからね。先生にはちょっと」
「確かに最近白髪増えて物忘れも激しくなって……なんか悲しくなってきた」
こうして、多少の雑談を交わし、森山は純との面談を終えた。
「さて、次はと……」
前までは、その日に面談する生徒の順番は頭に入れておけたのだが、最近は年のせいかすぐに忘れてしまう。
「次の生徒は……なんだ、噂の彼女か」
どうやら先ほど話題に上がった彼女が、次の面談相手らしい。
「探りでも入れておこうかな、はは」
ああいう初々しい生徒を見ていると、ちょっかいを出したくなる。
まあ、前にそのせいで女子生徒のほうに男子生徒の気持ちがばれ、それがクラスに広まって、その男子生徒が軽いいじめにあってしまったので、もうするつもりはないが。
「奏多美愛、か。奏多美愛……? あれ?」
ここで、ふとあることに気がついた。
「たしか、二学期の終わりで転校する子がいたはず……たしかその名前って」
森山は机の引き出しの中から一枚の書類を取り出す。転校届だ。
その転校届を見て、森山は引き攣った笑みを浮かべる。
「これはもう、取り返し、つかないよね……?」
その転校届には名前が印字されている。
奏多美愛――印字された文字にはそう書かれていた。
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