第2話 募る想い
それは翌日の朝のホームルームでの出来事だった。
教壇の前に美愛が立っている。
「一学期を区切りに、奏多は転校することになった」
森山がそう言った途端、クラスが一気に騒然となる。
いまは三年の二学期の終わり。
そんな中途半端なタイミングでクラスメイトが転校になるなんて、誰も想像がつかない。
ただ一人――純を除いては。
純はこの話を聞いた瞬間、すべて納得した。
美愛の問いかけも、父親がわざわざ学校に足を運んだことも、彼女が涙を流していたことも全部。
あの問いかけはきっと、悪あがきだったんだろう。
現実を認めたくなくて、理想に縋りたくなったのだ。
けれど現実は淡々と未来へと進んでいく。そこに、理想は存在しない。
「そんな……! 私たちもうすぐ卒業なのに、タイミング悪過ぎませんか!」
純の隣の席に座っていた一人の女生徒――
楓は美愛の大の仲良しの友達だ。親友といってもいいかもしれない。いつもよく一緒にいるところを見かける。だからこそ、この状況に納得できないのだろう。
「せめて卒業まではと、私も父親に掛け合ってみたんだけど、会社の都合らしくてね。どうしても変えられないらしい」
「変えられないって……! こんなタイミングで――」
森山が神妙な顔つきでそう答えると、楓は歯を食いしばりながら悔しそうな表情を浮かべる。
「こればっかりは仕方ないよ、楓ちゃん」
教壇の前に立っている美愛は、励ますように笑いながらそう言った。
まるでもう気にしてないから、という口ぶりに、純の胸は痛いほど締め付けられる。
それを楓も見て取ったのか、納得しきれない様子ではありながらも席に座った。
「その、短い間になりますがよろしくお願いします」
こうして朝のホームルームが終わると、多くのクラスメイトが心配そうに美愛に駆け寄って行く。
こんなにも心配されるのは、きっと彼女の人柄ゆえなのだろう。
美愛は多くのクラスメイトに囲まれながら笑っている。昨日のあの姿は綺麗さっぱり洗い流されて、見る影もない。
純はその光景を見ていたくなくて、視線を窓の外に向ける。
変わらない街並みが、変わらない様相でそこに映し出されていた。
世界は変わらない。誰かが転校しようとも、たとえ誰かがここで殺されたとしても、世界はきっと、何一つ変わらないのだ。
だからこそ、自分が変わらなければならない。変わらなければ、何一つ進まない。
――彼女に、告白しよう。
それは純が高校一年生のあのときから、ずっと言おうとして胸にしまっていた想い。
それを、彼女が転校するまでに、伝えなければならない。
そうしないと、自分は一生後悔する。
けれど、二年半も言い出せなかった想いを、果たして今になってぶつけられるのだろうか。
「おい純」
そんなことを考えていたとき、一人の男子生徒が純のもとにやってきた。
「なんか、思ったより平気そうだな。もっと取り乱すかと思ってたのによ」
やってきたのは、
臆人とは高校一年生からずっと同じクラスで、一番腹を割って話せる友達であり、唯一美愛に対する恋心を知っている人物でもある。
「さては、あまりのショックに取り乱す気力もなくなったか」
「いや、ちょっと訳あって知ってたんだよね」
「あぁどうりで。てか、どうすんだ。告白。するつもりなんだろ?」
「それは、したいけど……」
「けど?」
「勇気、出るかなぁってさ」
「ばか。やらないで後悔するよりやって後悔しとけ」
「やって後悔ってそれ振られるパターンじゃん……やめてよ」
ずばずばと言ってくる臆人に対し、気弱な発言をしていく純。
性格としては正反対な二人だが、なぜか馬が合うのだから不思議なものだ。
「まあでも、告白はするつもり」
「そう言って二年半経ってること、忘れんなよ」
本当にこの男は人の痛いところを容赦なく突いてくる。まあ正論過ぎてぐうの音も出ないのだが。
「大丈夫。今日はあの日だから」
「あの日……あぁ、そうか。なら、絶好の告白チャンスだな。頑張れよ」
「うん」
純は力強く頷いた。自分でもやればできるということを、見せてやるのだ。
空は夕焼けに染まっていた。痛いくらいに眩しい夕日が窓に射しこみ、窓際の長机を橙色に照らしている。
ここは図書室だ。
蔵書数は他の中学に比べれば多く、室内も広々としていて、読書をするには快適な環境なのだが、現実はテスト前の勉強場として使われているのがほとんどだ。
「では、来週の月曜日までに返却をお願いします」
純は受付の椅子に座って、生徒にバーコードを通した本と返却期限が記載されたレシートを渡す。
その生徒が出ていったところで、純は椅子の背もたれに身体を預け、軽く一息吐く。
この時間になると、もう図書室にはほとんど生徒はいない。閉室まで残り三十分ほど。それまではゆったりとした時間が流れるはずだ。
「よし」
純は自分に喝を入れながら、いつもは本を読んだり宿題をしたりして時間を潰しているところを、今日はそわそわとしながらただひたすら手持ち無沙汰に待つ。
純は中学一年生の頃から図書委員をやっている。もうかれこれ二年半は経とうとしているので、作業は手慣れたものだ。
純が図書員を選んだのは、元々本を読んだり映画やドラマを観るのが好きだからという理由もあるのだが、主となっている理由は他にある。
その理由は――
「隣、いいかな」
声の先に視線を向けると、美愛がいた。青ぶちの四角いメガネをかけた彼女は、それだけで文学的少女のような知的さを身に纏う。
陰ではメガネが似合う生徒ナンバーワンと噂されている彼女だが、本人曰くメガネをかけたほうが司書っぽいからかけているだけらしい。
「あぁ、うん。どうぞ」
「ありがと」
美愛はゆっくりと、隣の椅子に腰かける。それだけで心臓が跳ね上がる。髪からほのかに香るシャンプーの匂いが鼻をくすぐった。
「もう人全然いないね」
「まあ、テスト期間まだだからね。もう少ししたら増えるんじゃないかな」
「みんな、テスト勉強は家ですればいいのに」
「家じゃ集中できないんだよ。誘惑があるからさ」
「まあ、そうだよね」
「奏多さんはないの?」
「誘惑はあるけど、切り分けできるタイプ」
「羨ましいなぁ。僕、誘惑に弱いから」
「君、そんなことで草刈受かるの? 大丈夫?」
美愛がくすくすと笑う。純がははは、と苦笑する。
二人だけの空間。
純は、こうなることを夢に見ながら、図書委員に入った。
つまり、図書委員になった主たる理由は、美愛と仲良くなるためなのだ。
純が美愛に出会ったのは入学してすぐの頃。
陽の光を浴びながら、図書室で彼女が楽しそうに空色のブックカバーに包まれた本を読んでいる姿を見て、ただそれだけのことで純は目が離せなくなってしまった。
それ以降、純は美愛を目で追うようになり、次いでは図書委員なることを聞きつけ、ならばと純も図書委員になった次第である。
そこから二年半、純は片想いを続けながら美愛と共に図書委員をやっている。
そして今年度、初めて美愛と同じクラスになって天にも昇るくらい嬉しかったのだが、関係はまったく発展していない。
純は何を隠そう奥手なのだ。クラスメイトの女子に話しかけるのにも緊張してしまうくらいに。
そんな彼が、陰で人気が高い美愛に告白する勇気なんて、まったくもって持ち合わせていなかったのだ。
今日、転校を聞かされるまでは。
「昨日は、みっともない姿見せてごめんね」
美愛が唐突にそんなことを言って、純は息を詰まらせた。
「い、いや、こっちこそ、覗き見るようなことしてすいません」
そう言ったあと、あの場面を思い出す。
俯きながら泣いていたあの姿を。頬を濡らしてこちらを見たあの表情を。
そのとき、美愛の顔がそっと純の耳に近づいた。
そして、そっと耳打ちする。
「あのこと、誰にも言わないでね」
生暖かい吐息が耳にかかり、純は思わず背筋を伸ばした。
緊張と恥ずかしさで爆発しそうになるのを必死にこらえ、「言えませんよ、そんなこと」と平然を装いながらそう返す。
「それにしても、君って間が悪いね」
「奏多さんがちゃんとお父さんを連れていけばよかったんですよ。何で何も教えずに先に行っちゃったんですか」
すると美愛の眉間に皺が寄り、「それはまぁ、年頃だし、私」と小声でそうつぶやいた。
「あぁ、なるほど……」
「というか、生まれたときからあんまり。なんか近寄りにくくて」
確かに、美愛の父親には近寄りがたいオーラがにじみ出ていた。強面で、生真面目で――不器用そうだった。
「昔から仕事一筋だったから、あんまり家に居なかったの。そしたら急に、転勤で引っ越すことになったから準備しろって。この時期なのに、ありえないよね」
「学校はどうするんですか?」
「引っ越し先の近くにあるから、そこに通うんだって」
「そう、なんですね」
それはようするに、中学三年の三学期を、まったく知らない見ず知らずの生徒と一緒に過ごすということを意味している。
そう考えただけで、背筋がぞっとする。そんなの、自分だったら耐えられない。
「でも、出席日数足りるように調整してくれるから、学校には行きたいときに行けばいいらしいよ」
「へぇ……そうなんですか。良かった、んですよね」
「うん。不幸中の幸い」
不幸中の幸いとは、言い得て妙な物言いだった。
「それでもちょっと、不安だけどね」
物憂げな彼女を見て、純はつんのめるように言う。
「な、なにか僕にできることはありませんか? あ、この前読んだラノベお貸ししましょうか? 結構面白くて」
「ちょ、ちょっと! いきなりそういうこと言わないで!」
美愛は慌てた様子で純の口を塞ぐと、周りを確認する。
そして誰もいないことを確認すると、美愛は取り乱したことを取り繕うように一度咳ばらいをして、純にむすっとした表情を向けた。
「君、そういう軽口で他の人に話してないよね?」
「言っても信じませんよ、奏多さんがラノベオタクだなんて」
そのことに気づいたのは中学二年生のときだ。
純が図書委員の仕事を終えて帰ろうとした矢先、空色のブックカバーに包まれた一冊の本が、机の上に置かれていたのだ。
これはたしか奏多さんが読んでいた本だと気づき、明日学校に持って行ってあげようと手に取った。
そしてそこで、純にある思いが過る。
彼女が読んでいる本がどういうものなのかわかれば、話のタネになるのではないか、と。
純は美愛と仲良くなるために図書委員に入ったわけだが、仲良くなるどころかいまだまともに話せていない。
それは単に純が奥手だということもあるが、美愛と話すきっかけがないというのも理由の一つにある。
けれどもし、彼女が読んでいる本がどういうものなのかわかれば、純もその本を読んで感想を言い合えるのではないか、そう思ったわけだ。
だが、勝手に人の私物を覗くのはよくない。でも、タイトルくらいならいいんじゃないか。いや、でも。という葛藤をしながら、純はとりあえずえいやとページを開いた。
そのページには、右側に文章、左側には可愛らしいイラストが描かれていた。
これはたしか――と思った瞬間、戻ってきた美愛に取り上げられてしまった。彼女は走って戻ってきたのか、息も絶え絶えで、髪もボサボサだった。よほど見られたくなかったのだろう。顔が真っ赤だ。
「み、見た……?」
恐る恐るというように、彼女は純にそう聞いた。
だから純はとっさにこう言った。
「面白いですよね、それ」
最初、美愛はぽかんとした様子で固まっていたが、その後感極まったのかその本の感想について弾丸のごとく捲し立ててきたので、純は自分のとっさの判断に感謝した。
「ラノベ好きなんですね」
すると彼女は頬を赤くして拗ねるように、「悪い?」と言い、「このことは、絶対に内緒にしてね」と念を押した。
そして二人はこれをきっかけに話すようになった。
ようはラノベは純にとっての恋のキューピーだったりするわけだ。
「誰にもばれないようにしてたのに。君くらいだよ、中身見ようとしたの」
「それは忘れてください……」
「まぁ、そのおかげで君とこうして話せるようになったから、いいんだけど」
「え?」
「ラノベ。話せる人いなかったから」
「……あぁ」
純は一瞬浮足立ったが、すぐに現実に引き戻された。紛らわしい言い方である。
「ありがとね。話し相手になってくれて」
「……いえ」
「君には結構、感謝してるんだ」
照れたように笑う美愛に、純の胸は一杯になる。
いっそのこと、ここで告白してしまおうか。
図書委員の業務は当番制で、学年クラス関係なくごちゃまぜに回していくため、夏休みが始まるまでに美愛と同じ当番になるのはあと一回か二回あるかないかだ。
するなら、今しかないのかもしれない。
「だから時々は思い出してね、私のこと。なんて」
美愛が冗談めかした声でそう言う。
けれど、純にはそれをまた軽口で返している余裕はなかった。
「あの――!」
息を張り詰めて、心臓が暴れ出すのを抑えながら、
意を決して、美愛の顔を見た。
「え――」
その瞬間、色々と詰め込んだ想いが、一気に霧散した。
彼女は、泣いていた。両目からぽろぽろと涙が落ちていく。
「え、ちょ、待って。これは」
美愛は制服の袖で目元を隠し、純に背を向ける。
「おかしいな……もう振り切ったはずなのに……」
「奏多さん……」
「待って、もう少しで……」
「いいですよ。いま人居ませんし。存分に泣いててください。僕、横向いときますから」
「……うん、わかった。じゃあティッシュ」
そう言って背を向けながら、手渡してくれとばかりに手を伸ばしてくる美愛に、純は笑いながら持っていたポケットティッシュを渡した。
それから数分後。
「お、お待たせしました」
美愛はそう言うと、すっと純の目の前にポケットティッシュを差し出した。
「ありがとう」
「いえ、どういたし――」
「こっち見ないで受け取るように」
「……はい」
純は「こっち見ないで」という前にちらりと横目で見てしまったが、言う前に見たのでセーフのはずだ。
「少しは、気が晴れましたか?」
「うん。でも、君に二回も情けないところを見せちゃったね……」
「気にしてないですよ」
すると、美愛がなにかを探るように純に聞く。
「……ねぇ、さっき何か言おうとしてなかった?」
そう言われて、純の息が詰まる。そして苦笑して、
「いえ、なんでもないです」
「……そっか」
ふと、美愛が図書室にかけられた掛け時計を見て、「あ」と声を上げる。
「もうこんな時間。早く閉めないと」
「そうですね」
美愛は立ち上がり、窓際に束ねているカーテンをの帯を開き、端を握って横に引く。薄い緑色のレースのカーテンが、ざーっと音を立てながら窓を覆っていく。
純は、カーテンを閉める美愛の姿を、じっと見つめていた。
このまま、終わっていいものだろうか。
告白はもうやめた。
冷静に考えたら、すぐに離れ離れになる人の告白なんて、されても困るだけだろう。どうしてそんなことにも気づけなかったのか、恋をすると周りが見えなくなるとはよく言ったものだなと感心する。
だとすると、自分にできることはなんだろうか。
「……あ」
ふと、机の上に置かれた空色のブックカバーに包まれた本に目が留まる。このブックカバーは、彼女が中学一年生の頃から使っているはずだが、寄れもしわもなく綺麗で、大切に使われていることがわかる。
その本を見て、純はふと懐かしさを覚えた。
出会いも、仲良くなったきっかけも、すべてはこの本から始まっている。
ならきっと、この運命を変えるのも――。
そのとき、ふわりと風が吹いた。
どこからともなく現れた風は、空色のブックカバーに包まれた本のページをめくりだす。
ぱらぱらとめくられていく本は、やがてあるページで止まる。
純は、まるでその本に誘われているかのようにそのページに目を向ける。
気づけば、そこに書かれている字を追っていた。
「――――」
そこで、やがて登場人物のこんな言葉に目が止まる。
『異世界に行きたい』
純は、ここで美愛が言った昨日の問いかけを思い出す。
「異世界ってあると思う?」
それは最初、意味がわからない問いかけで、その翌日転校知ったときには、ただ転校から目を背けるために聞いてきたものなんだろうくらいにしか思っていなかった。
けれどもしあの言葉が、美愛の中に眠る本心だとするならば――
その願いを叶えたとき――
ほんの少しくらいは――
救わたりするのだろうか。
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