第8話 彼女の家の中
気づけば純は玄関の土間に立っていた。
「よいしょっと」
八千代は大きな買い物袋を二つ上がり框に置くと、純のほうを振り向いた。
「待っててね、いま美愛の様子見てくるから」
八千代がそう言ったときだった。
廊下を少し行った先に階段があるのだろう。そこを降りる音が聞こえてきた。
「あ、お母さん。ポカリ買ってき――」
階段を下りてきた美愛は、廊下から玄関を見て、その場に立ち尽くした。
彼女はピンク色のふわふわとした寝間着を着ていて、額に冷えピタを貼っていた。表情は少しだるそうで、顔も少しばかり赤く見える。
そんな彼女の顔が驚きの表情に一変し、「な、なんで!?」と声を上げた後、一瞬の内に階段のほうに隠れてしまった。
「こら美愛! 寝てなさいって言ったでしょ! それとマスク! 彼に移したら大変でしょ!」
「ならそれを先に言って!!!! 着替えてくる!」
美愛はそう言うと、もの凄い駆け足で階段を上っていく音が聞こえ、次いでバタンと勢いよくドアが閉まる音が聞こえた。
「あらあら、照れちゃって。可愛い」
八千代が面白がるようにくすくすと笑っているのを見て、確信犯だな、と思った純だったが、口には出さなかった。
「ちょっと待っててね。様子見てくるから。それと、そのフルーツ、カットするからそこの袋と一緒に置いといてくれる?」
「あ、は、はい……」
純はもう脳内処理が追い付いていない状態なので、言われるがままのロボットと化している。
八千代は廊下に上がると、そのまま二階へと上がっていった。
ここでようやく一人になった純は、張り詰めていた息をこれでもかと吐き出す。
「し、心臓が縮まったよこれ絶対」
純はばくばくと緊張で高鳴っている胸を抑えながら、自分に落ち着け、落ち着け、と言い聞かせる。
それにしても、あんな無防備な美愛の姿を見れるとは思わなかった。きっと、一生忘れない。というか忘れたくない。頭に焼き付けておく。
とか考えていると、また階段を下りてくる音がして、階段から顔を覗かせたのは八千代だった。
「準備できたみたいだから上がって。一番奥が美愛の部屋だからね」
「わ、わかりました」
そう言うと、八千代は置いてあった買い物袋と茶色の紙袋を手に持つと、廊下の奥にあるドアの向こうに消えていった。きっと、あそこがリビングなのだろう。
純は靴を脱いで、そっと廊下に上がった。
とにかく、もうここまで来たら後には退けない。勇気を振り絞りながら、純は二階へと上がった。
奥の部屋はすぐに見つかった。
ノックして入るのも変かなと思った純は、ゆっくりと部屋のドアを開けていった。小さく、「失礼します」と呟きながら。
中はもう片づけが進められているのか、がらんとしていて物があまりなかった。広さとしてはかなり広いので、なんだか物悲しさを感じる。
けれど、ベッド際のサイドテーブルには、空色のブックカバーがかかった小説が置かれていた。
美愛は奥のベッドで上半身だけベッドの格子にもたれかかっている状態でこちらを見ていた。
彼女はマスクをしていた。それなのに、どきりとしてしまう。そして彼女は白いワンピースを着ていた。少し青みがかった髪色との相性は抜群で――なにを着てもそう見えるのかもしれないが――、またしてもドキッとする。
そもそも私服を見るのが初めてなので、こうなってしまうのも無理はないのだ。
「君、なんというか天才的に間が悪いよね」
「すいません……」
寝間着姿を見られたからなのかご機嫌斜めな美愛に、純は苦笑しながら謝るしかなかった。わざとではないのだ、決して。
「なんか君には、格好悪いところばかり見られてる気がするよ」
「そんなことないと思いますけど……」
「だって君は私の両親に会って、私が泣いてるのも見て、ラノベが好きなことも知ってて家の場所も知ってる。おまけに私が異世界に行けたらいいなって思ってることも理解してくれてる」
「そのほとんどが不可抗力ですけどね……」
「それでも――ここまで知ってるのは君だけだよ」
その思わぬ一言に、純は一気に息が詰まり、心臓が跳ねる。頬が上気していくのがわかって、慌てて顔を逸らす。
「ありがとね、お見舞いに来てくれて。退屈だったから」
「そんなの、全然。そもそも僕のせいですから。ほんとすいません風邪を引かせてしまって」
なんだか謝ってばかりで恰好悪いなと、内心純は自分の情けなさに嫌気がさす。
「別に君のせいじゃないよ。悪いのは雨。というか、立山くんは風邪引かなかったんだね。よかった」
「まあ、馬鹿は風邪ひかないみたいな感じですかね……あはは」
自虐気味に言ってみたが、美愛はきょとんとするばかりで、笑ってくれなかった。
そこで自分が空回りしていることに気づき、慌てて話題を変えようとする。
「そ、それにしても結構片付いているんですね! お、驚きました」
「まあ、もうすぐだからね、引っ越し」
美愛がほんの少し寂しそうな顔をしたので、やってしまったと純は後悔する。これは完全に話題のチョイスミスだ。
「あ、いや、そうですよね、なんかすいません」
本日何度目になるかわからない謝罪をしていると、美愛がふふ、と楽しそうに笑い始めた。
「立山くん、ここに来てから謝ってばっかりだね」
「ですよねすいません」
「ほらまた」
「あ……」
純は慌てて口を塞ぐ仕草を、美愛は楽しそうに見ている。
「そういえばさ、立山くんは大丈夫だったの? 急に苦しんでたから」
「あー、まぁ、はい。とりあえずは」
「ならいいけど……驚いたよ。いきなり蹲って倒れるから」
「あはは、すいません」
「また謝ってる」
お見舞いに来てこんなに謝ってる人は純の他にいないだろう。
「……ねぇ、あの後さ、なんて言おうとしたの?」
「え……」
美愛と純の瞳が交差する。激しい動揺が、純の胸の内を襲った。
「そ、それは……」
純は言うべきか迷った。雰囲気とか、気恥ずかしいとかそういう問題ではない。もっと現実的な問題だ。
彼女は、もうすぐ引っ越してしまうのだ。冷静に考えれば、それを言っても離れ離れになるだけだ。
それはお互いにとっても辛いものになる。なら、言わないほうがいいのかもしれない。
なにを言おうか逡巡し、言葉を探していると、部屋がノックもされずに突然開いた。
「はい、お待たせ。切ったから食べて」
入ってきたのは八千代だった。フルーツが山盛りに入った器とポカリを持っていて、丸いテーブルの上に置いた。
「はい。じゃあ何かあったら言ってね。お母さん下にいるから」
「わかった」
「ありがとうございます」
八千代は純を見てにこりと笑うとさっと部屋を出て行った。
「食べよっか」
「あ、うん」
ベッドから出た美愛は、机の前に座って爪楊枝が刺さった一口サイズのフルーツをぱくりと食べる。
純がなんとなくその様子を見ていると、美愛が不思議そうにこちらを向いて、「食べないの?」と聞いてきた。
「いや、食べる食べる」
純も同様に爪楊枝が刺さったフルーツを頬張る。けれど、甘いってことだけがわかるくらいで、なにを食べているのかよくわからなかった。
そのまま無言で二人はフルーツを食べていく。
「ねぇ、異世界ってどんなところだった?」
唐突にそう聞かれて、純はむせた。
「え、だ、大丈夫? あ、ポカリあるよ」
美愛はポカリの蓋を開けて純に差し出し、それを純は流し込み、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「あ、ありがとう」
「ほんと君って面白いね」
「いや、だっていきなりそんなこと言うから」
「だって行ったんでしょ? なら、どんなところだったのか訊いてみたくなって」
本心で言ってるのか、場をつなぐために言ってるのかわからなかったが、とりあえず純はほんの少しではあるが異世界に行ってみた感想を述べてみた。
「そもそも異世界には変な黒い渦みたいなのに巻き込まれて行ったんだけど――」
そこから草が空中を踊るように飛び回っていたこと。熊に似た魔物がいたこと。真っ青な空と広々とした草原。西洋風の街。森。高台から見た素晴らしい景色。
純はつっかえつっかえになりながらも、そのすべてを余すことなく美愛に伝えた。
美愛が異世界があることを本当に信じているのかわからないが、それでも彼女は笑いながら、時には驚きながら聞いてくれたので、とにかく懸命に話した。
「――え! 荒田くんと楓が異世界の人!? それほんと!?」
「うん。そうみたい」
「信じられない……楓なんて中一から仲良いのに」
「それ僕も一緒」
「あ、それもそっか。じゃあ二人して気づかなかったわけだ」
「そうだね」
「ふうん。だからいきなり仲良くなったんだね。納得」
「え?」
「いや、こっちの話。あ、もうこんな時間。立山くん時間大丈夫?」
そう言われて純が時計を確認すると、時刻は七時前。もうすぐ夕飯の時間だ。さすがにそこまで邪魔するのはまずい。
「そろそろ帰ろうかな。親うるさいし」
「うん、わかった。あ……そうだ」
美愛はなにかを思い出した様子で、携帯を取り出す。
「その、なんか急にまた来られても困るし。LINE交換しとこ」
「あ、うん……わかった」
純は内心嬉しさでいっぱいになりながら、平然とした様子でLINEを交換した。
「じゃあ外まで送るよ」
「あ、うん、ありがとう」
こうして二人が部屋を出ようとしたタイミングで、ばったり八千代が二階に上がってくるタイミングだった。
「あら、もう帰るの?」
「はい。お邪魔しました」
「外まで見送りに……」
「だめ。美愛は寝てなさい。代わりに私が外まで送るから」
「えー、大丈夫だよ」
「いいから」
八千代は部屋から出てきた美愛の背中を押して部屋の中に入れようとする。
美愛はわかったよと文句を言って、純を見た。
「じゃあ気を付けてね」
そう言って美愛は部屋の中に入っていった。
「よし。じゃあ、下に行きましょうか」
「はい……」
なんだか、上手くいった、みたいな顔をしている八千代に対して嫌な予感を覚える純だったが、とりあえず八千代についていく。
案の定、通されたのは玄関ではなくリビングだった。
「あ、あの……」
「いいから座って座って。いまお茶淹れるから」
もうこの家では純はされるがままなので、とりあえず椅子に座る。
リビングも美愛の部屋と同様に物が少なく、隅には段ボールが積まれて置かれていた。
その光景をぼんやり見ていると、八千代がお茶を入れたコップを純の前に置いた。
「ありがとうございます」
「いいえ。ねぇ、君って立山純くんだよね?」
目の前の椅子に座りながら、八千代がそう聞く。
「あ、はい。そうですけど……」
「あぁ、やっぱり。時々美愛の口からあなたの名前が出てくるから、そうかなぁって思ってたけど、当たってた」
「そうなんですか……」
一体どんな話題のときに自分の名前が出てくるのか気になったが、ここで聞くのもやぶさかだと思い口にはしなかった。
「それで、僕になにか……」
「あぁ、ほら、私達引っ越すでしょ? それでいま家がぎくしゃくしてるのよ。まあぎくしゃくしてるのは美愛とパパなんだけど」
「そうなんですね」
「そう。あの子、引っ越しが決まったときすごくショックだったみたいで。パパともの凄く喧嘩したの」
「そうだったんですね」
「もちろん理由はわかってるし、私達も結構会社には反対したんだけどね。こればっかりはどうにもならなくて」
「……そうですか」
転校が取り消されることはないんだな、と純は改めてそう思った。
「美愛はね、ここを離れるのが嫌なんじゃないだって。ただ、新しいところに行くのが怖いんだって、そう言ってた」
それを聞いてあのときの美愛の言葉を思い出す。彼女は震えていた。
「だから、勇気づけてあげてほしいの。新しいところは怖くないって。その一歩を、その勇気を、与えてあげてほしいの」
「な、なんで僕なんですか」
「あら、それ知りたい?」
八千代がふふふとにんまり笑って、こう言った。
「だって純くん、若い頃のパパそっくりだもの」
純はそうして美愛の家を後にした。
外はもう真っ暗で、結構な時間家にいたんだな、と驚く。そんなに長いした覚えはないが、これが楽しい時間は早く過ぎるというやつなのだろう。
純はふわふわした状態で部屋に戻ると、ベッドにダイブした。
なんだかすごいつかれた。
「……あ! チケット!」
そこで臆人にもらったチケットを思い出し、顔を青ざめる。せっかくおぜん立てしてもらったのに、どうすれば。
だが、ここではたと気づく。別に、口頭で言えなんて言われてない。
純はすぐさま携帯を開くと、ラインで美愛宛てにメッセージを送った。
『風邪を引かせてしまったお詫びとして、映画でも観に行きませんか?』
その返事はすぐに来た。
『今度の日曜日ならいいよ』
純はすぐに返事をした。
『大丈夫です!』
また返事はすぐに返ってきた。
『じゃあ楽しみにしてる』
その返事が来た途端、胸がいっぱいになった。
そして気づけば、純は疲れのせいかそのまま眠っていた。
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