第5話 届かぬ想い

 屋上の扉を開けみると、本当にすんなりと開けることができた。


 入るのは初めてなので、なんとなく緊張しながら純が入る。


 それから続いて、美愛が入って来た。


 屋上には目立ったものはなく、灰色の石畳と二メートルを超える落下防止の柵が周りを囲っているだけだった。


「ここ、開いてたんだね? もう前に閉められたって聞いてたけど」

「いや、まあ、なんか友達が屋上の鍵が開いてるのを前に教えてくれて、それで」

「友達って、荒田くん?」

「まあ、そんなところ」

「そうなんだ」


 美愛はさほど驚いた様子もなく、風でなびく髪をそっと片手で抑えながら、柵の外に広がる景色を眺める。


 純もそれに続くように柵の外に目をやる。


 今日は朝からずっと曇り空だ。そのせいで景色は仄暗く、周りも住宅地と道路とそこを走る車だらけで、とても良い景色とは言えない。


「それで、話って?」


 純は思い切って口火を切った。


 すると美愛がそっと純のほうを振り向く。その表情は、やはり元気がない。


「あ、うん……そのことなんだけどさ」


 美愛の目線は純の顔を一瞬だけ見た後、すぐに足元に落ちる。


「君にその……謝りたいことがあって」

「謝りたいこと……?」


 美愛の表情が浮かない原因は、そのことなのだろうかと考えつつ、なにか謝られるようなことをされたかどうか記憶を辿っていく。


 だが、思い当たらない。逆なら沢山思いつくのだが。


「謝りたいことって、なに?」

「それは、その……」


 口にするかどうかためらっている様子の美愛。


 純は、それを見守るように黙って聞いていた。


 そして、もどかしくなるくらい間を空けた後、彼女は思いも寄らない一言を口にした。


「事故に遭ったのは、私のせいなんだよ」


 そう言われた純は、あまりの衝撃にしばし言葉を失う。


「え、奏多さんのせいって……それ、ど、どういうこと……?」


 純はやっとの思いでたどたどしくそう口にすると、美愛はこう言った。


「私が、あんなこと言っちゃったから」

「あんなこと?」

「異世界があるとかなんとか、君に聞いたでしょ?」


 若干バツが悪そうに聞く美愛に、純は頷く。


 たしかに、森山との個人面談の帰りに美愛とばったり出くわしたとき、彼女は別れ際そんなことを口にした。


 忘れるはずがない。その問い掛けは、純が異世界へ誘われたきっかけでもあるのだから。


 でも、それと事故にどんな関係があるのだろうか。


「それで、もしかして君は本当に異世界を探そうとしたんじゃないかなって」


 美愛の言うことは的を得ていた。現に純は帰り道必死に異世界に行くにはどうすればいいか考えていたわけだから。


「でも、それと事故にどんなつながりが――」


 そこまで言いかけて、純はハッとなった。


 まさか?


 そのタイミングで、美愛はこう言い放った。


「だって、じゃない」


 そうだ。その考えは純も一番最初に考えたことだ。そしてそれは――ラノベ好きでもある美愛も同様に考えるべきことでもある。


 だが、そうだとするならば、それはあまりにも非現実的だということも考えられるはずだ。


「そ、そんなこと、するわけないじゃないですか」


 純はあまりにも妄想に似た想像を否定する。


 美愛は、こんな非現実的なことで悩んでいたのだろうか。


 けれど、そうではなかった。美愛は薄く笑って頷く。


「うん。そんな非現実的なこと君はしない。というか、誰もしないよね」


 美愛はあっさりとそれを肯定した。


 それによってますます美愛の意図がわからなくなる。


「でもね、私はどうしてもそれじゃ納得できなかった。だって、あんなこと言った後に君が事故に遭ったんだよ。なにか、なにか私に原因があるんじゃないかって、いっぱい考えた」


 美愛の声が、掠れていく。彼女の目には涙が溜まっていた。


「それでね、こう思ったの。んじゃないかって」

「――!」


 ここでようやく美愛の悩んでいる理由が理解できた。


 彼女は、自分が異世界あるのかどうか純に聞いたせいで、純が異世界を探そうとし、それが原因で交通事故に巻き込まれたと思っているのだろう。


 それは――


 それはなんて盛大な勘違いなのだろうか。


 その盛大な勘違いに、純は思わず笑いそうになる。


「な、なにが可笑しいの! 私は君のことを考えて!」


「い、いやすいません! そうじゃなくて! その……実は僕、交通事故には遭ってないんですよ」

「……え?」


 今度は美愛が予想外の言葉に唖然とする番だった。


「え、でも森山先生から君は交通事故に遭ったって……」

「それは嘘なんです。その、僕への配慮というか、なんというか……」

「ちゃんと説明して」


 美愛はなんだかちょっぴり不機嫌な様子になり、純はあわてふためきながらこうなった経緯を説明する。


「なら君は気づいたら道路で倒れてて、そこから病院で高熱のまま三日間眠ったままだったってこと?」

「まあ、はい……そうなりますね」


 そう曖昧に頷くと、美愛の顔が迫るように純を見つめて、


「まだなんか隠してるんじゃないの」


そう聞いてきたので、純はここで初めてあのことを口にすることを決めた。


 これを言えば、彼女は喜んでくれるんじゃないか、そう期待しながら。


「はい。その……実は僕、そのとき本当に異世界に行ったんです」

「…………なにそれ」


 長い沈黙のあと、美愛は疑うような目を向けて純にそう聞いた。


「で、でも行ったらすぐに死にかけて、気づいたらこっちの病院で三日も寝てたっていう感じで」


 純は苦笑い浮かべながらそう捲し立てるが、美愛の反応は思っていたよりも薄い。


「だから、その、事故には遭ってなくて。でも、異世界には本当に――」

「異世界なんて存在しないよ」


 美愛は、まるでなにかを払いのけるようにそう言った。その口調はどこか冷たくて。


「君は夢を見ていたんじゃないかな」

「そ、そんなこと! その、楓さんに聞けばわかりますから!」

「楓ね……なんかずっと楽しそうに喋ってたもんね。仲良いんだね」


 美愛の口調がきつくなっていく。どことなく拗ねているようにも見えるが、そんな小さな機微に純が気づくはずもなく。


「いや、仲良いってほどじゃ! まあ確かに話しやすかったですけど」

「ふうん……そうなんだ。へぇ」


 どんどんむすっとした表情になっていく美愛に、もうどうしようもないくらい動揺しまくりの純。


「えっと、なら、どうしたら信じてくれますか?」

「じゃあ、今すぐ連れて行ってよ、その異世界に」

「それは――」


 純は「できる」と言いたい言葉をぐっとこらえた。


 異世界に行くこと自体は、臆人や楓に頼めばなんとかなるかもしれない。


 けれど、いま異世界に連れて行ったら原因不明の病で倒れることになる。そんな危ないところに、美愛を連れて行くことはできない。


「今はまだ……」

「そっか。できないんだ」


 美愛は残念がる様子もなく、ぽつりとそう呟いた。


「でもでも、いつか必ず――!」

「その頃にはもう、転校してるよ」

「それは……!」


 ないとは言い切れない状況に、純は何も言い返せなくなった。


「……ごめん、意地悪なこと言っちゃったね」

「いえ」


 すると突然、雨が降り始めた。


「雨、降って来たね」

「そうですね」


 戻りますか、と聞こうとしたけれど、もし聞いたらこのまま終わってしまう気がして、怖くて聞けなかった。


 雨は、段々と強くなり、雷が遠くのほうで音を立てはじめる。


「もし仮に異世界が本当に存在したとして」


 美愛が空を見上げながらそっとつぶやいた。


「そんな遠い所、私には無理だよ」

「え?」

「だって、ほんの少しここから離れた場所に行くだけなのに、こんな怖いんだもん。無理だよ、異世界なんて」


 美愛の身体が、震えていた。これは雨に濡れて冷えた身体のせいなのか、それとも――。


「大丈夫ですよ、奏多さん」

「え?」

「その、転校は一人かもしれないですけど、異世界に行くのは僕も付いてますから! だからその、安心してください!」


 僕が守りますから、なんてきざなことは言えないけれど、これが精一杯の純の気持ちだ。この言葉に、嘘はない。


 美愛は唖然としたように純を見つめた後、目を横に逸らした。なんだかほんのりと顔が赤くなっている気がする。


「あ、ありがとう」

「い、いえ……」


 ここで、純の頭にあることが過る。


 告白、できるんじゃないか。


 天気は最悪だが、ここには二人以外誰もいない。しかもほんの少しだが、良い雰囲気だ。


 今なら、いけるかもしれない。


「あ、あの、奏多さん!」

「な、なに……?」


 純は差し迫るような顔で美愛に一歩だけ近づいた。心臓が跳ねまわる。


 ドクン、ドクンと心臓の音が段々と早くなっていく。


「そ、その、奏多さんにつ、伝えたいことがありまして!」


 全身が熱くなる。心臓はもう張り裂けそうなほど高鳴る。


 高鳴る。高鳴る。


「ぼ、僕は、ずっと前からあなたのことが――」


 そして。


 全身にまるで火傷を負うかのような激痛が走った。


「あっつ――!」


 その抑えきれないほどの熱と激しい痛みに、純は地面に倒れこむように蹲る。


 なにかが――純の体内から飛び出そうとしている。それがなんなのかわからず、純は必死に身体に力を入れ、それを内に留めようと踏ん張る。


「え、立山くん……? 立山くん!」


 呆気に取られていた美愛が、蹲っている純に駆け寄ろうとする。


 その手が純に触れようとした瞬間、ぴしゃりと誰かにその手を跳ねのけられた。


「離れて! 死ぬわよ!」


 そう言って飛び込んできたのは――楓だった。軽やかに滑り込んできた楓は、純をすくいあげるように脇に抱え込んだ。


「え、なんで楓がここに――!」


 美愛は驚いたように目を見開きながら楓を見るが、彼女は美愛には目もくれず、高さ二メートルもある柵に目をやると、そのまま助走もなしに飛び跳ね、柵の上に乗った。


「うそ……」


 そして――そのまま屋上から飛び降りていった。


「え、ちょ――! 楓!」


 美愛は屋上から落ちて行った楓の様子を確認しようと柵に手をかけ隙間から下を覗く。


 だが、そこにはもう楓の姿も純の姿も見つからなかった。


「いったい、どうなって」


 そこで、純が言っていた楓に聞いてみればわかります、という言葉を思い出した。


「まさか……」


 ふと脳裏に過った可能性をすぐさま消して、美愛はがっくりと肩を落とした。


 あの続きは、彼女が待ち望んでいた言葉だった。


 けれど、それは同時に、一番聞きたくない言葉でもあった。


 あの問いに、なんて答えれば正解なのだろう。


 美愛は、雨が降りしきる中、そう考えていた。

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