第19話

             6


 アパートへの帰り道、歩きながら彼女を愛してしまったことを確信した。別れたあとの締めつけられるような胸の痛みがそれを教えてくれた。年甲斐もない、という言葉が何度も脳裡を過ぎるものの、他人にはどうすることもできない自分自身の人生を、誰に遠慮することなんかあるものかと思った。

 放心とも言える状態で部屋の鍵を開けて中に入ると、自分の部屋でないような臭いが鼻腔を突いた。小首を捻りながら電気を点けてダイニングに行くと、

「どうやら愉しんできたようだな」

 聞き覚えのあるシーマの声だった。それは、これまで大切にしてきた彼女との余韻を、瞬く間に飛散させるものであった。

「何だ、まだいたのか。もういい加減にしてくれ。いつまで俺につきまとうつもりで……」

 そこまでいいかけたとき、シーマの隣りにもうひとり誰かが坐っているのに気づいた。

 頭を包帯でグルグル巻きにしている。あのときはっきりと顔を見てないから何とも言えないが、身体つきと顔の輪郭からするとひょっとして――でもあの自殺男が何でここにいるのだ! 偶然とは思えない。この風船男が連れて来たに違いない。

「あんたは……」

「はい、その節はご親切にあちこちに連絡をしていただきまして、ありがとうございます」

 男は表情を変えないまま低い声で言った。

「そんなことを言いに、わざわざシーマと一緒に来たというわけか?」

 自殺男は、申し訳なさそうに照れ笑いを見せながら一揖する。

「そう目くじらを立てるな。この人は、ただあのときの礼を言いに来ただけだ」

 シーマは自殺男を庇いながら、腹が立つほど冷静な口調で話す。

 私は聞こえない振りをして、キッチンの冷蔵庫の扉を剥ぐように開けると、ミネラルウォーターのボトルを取り出して、一気に飲んだ。

「わかった。でも、頼むからふたりとも俺の目の前に姿を見せないでくれないか」

 私は、手を合わせて心の底から懇願した。

「まあ、そう言うな。ずっとここにいるつもりはない」

 私はその言葉を聞いて少しほっとしたのか、煙草がみたくなった。自分の部屋であるのに、なぜか知らぬ内に遠慮をしている。

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