第16話
思わぬところで時間を費やしてしまった。慌ててドアに鍵をかける。中にいるシーマのことなどかまってはいられない。結局ベージュのカッターに紺ブレというスタイルに決めた。しかしネクタイをするのだけはやめた。
彼女に対するこの先への期待と、年甲斐もない自分への蔑みに揺れながら駅への道を急ぐ。駅までは十分みておけば何とか間に合う。
街が醜い部分を隠すのに化粧をしはじめている。混沌から脱け出そうとする者を、優しく慰めるために、恥じらいもなくけばい色の化粧をほどこす。
人とすれ違うたびに、後ろめたさみたいなものが顔を覗かせる。仮病で会社を休んでしまったことがそうさせているに違いない。
腕時計を見ると、約束の時間の七分前だった。会社が引ける時間と重なっているせいで人の行き来が目立つ。
スタバの前で躊躇する――このまま中に入ってコーヒーを飲みながら待つか、それとも彼女が来るのを店の外で待つほうがいいのか。
そんなことを考えながら店のほうに目を向けると、店の中から手を振る彼女の姿が目に入った。気づいたことを報せるのに、軽く右手を上げながら店に向かった。
「すいません、長く待ちましたか?」
時間に遅れたわけではないが、話の切っ掛けとしてそう切り出した。
「いえ、そんなことはありません。どうぞ……」
彼女は隣りの椅子を勧める。
「そういえば、ここはセルフなんですよね」
飲みたい物があればカウンターで先にオーダーしなければならない。振り返ると、女性が四、五人が並んで待っていた。私は面倒臭くなってそのまま彼女の前に腰を降ろした。
「早速ですが、このあとどうします?」
胸ポケットに手を持って行ったが、禁煙席と気がつき、テーブルの上で指を組んだ。
「お薦めの焼き鳥さんじゃないんですか?」
カフェラッテの入ったカップを手にしながら笑顔を小さく傾げて訊く。可愛らしい仕草だった。
「そう思ったんですけど、はじめてなのに、焼き鳥屋といのも能がないかなと……」
「じゃあ、他にどこかいいところがあります?」
「何か食べたいものがありますか?」
私はつい訊き返してしまった。彼女は視線を天井近くで泳がせたあと、
「いえ、これと言っては……」
と、澱んだ言い方をした。
「イタリア料理なんか、どうです?」
私は思い切って言ってみた。
「えッ?」
私の口からそんな洒落た言葉が出ると想像しなかったのか、ふいを突かれたという表情で私を見る。
「嫌ですか?」
「そんなことないんですけど、この近くにおいしいイタリア料理店なんてありましたっけ」
彼女は興味を示したのか、わずかに身を乗り出している。
「僕もそっち系はあまり縁がないので、よく知りませんが、ネットで検索したところ駅から少し離れたところに一軒見つけたんです」
「ふふっ、岩間さんって、正直なかたなんですね」
「どうして?」
「だって、普通男の人は、ネットでしゃかりきになって調べたとしても、そんなことおくびにも出さず、まるで何度も通っているように見せかけるじゃないですか。そうじゃない岩間さんは、きっと隠し事ができない性格なんでしょうね」
彼女はまるで占い師のように言いながら微笑む。
「まあ、どちらかというと隠し事が好きなほうじゃないですけど、時と場合によります」
「ほらね、やっぱり間違いない」
彼女は、残り少なくなったカフェラッテを飲み干すと、カップの縁についた口紅を拭って席を立った。
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