第11話

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 体内時計が狂ったようだ。朝いつもと同じ七時に目を醒ましたつもりが、枕もとの目覚し時計を見ると、八時半を指してさしていた。目覚しをかけたつもりだが、もし鳴っていたとしたら、まったく気づかないでいたことになる。躰のほうはきのうより幾分よくなっている。

 部屋の中が薄暗い。躰を起こして煤けたカーテンを引くと、外は蕭々と冷たい雨が降っている。いまから急いで支度をしたとしても、会社には完全に遅刻だ。遅れて会社に入ったところを見られたら、また上司に何を言われるか知れたもんじゃない。

 きょうは金曜日だ、一日我慢すれば土日の二日間気兼ねすることなく休める。蒲団の生暖かい感触に気持が揺らいだ。しかし、萎えた気力には自分を奮い立たせるちからはなかった。机の上に置いておいた携帯電話を手にして、佐々木の電話番号を押し、欠勤することを伝えて欲しいと頼んだ。佐々木は心配してくれたが、月曜はちゃんと出社するからと、断った。

 トイレに行こうとして部屋を出たとき、自然とダイニングテーブルに目が行った。

 そうだ、きのうの夜、寝る前にここでシーマという風船男と話をした。あれが夢なのか現なのかいまだに判然としない。

 ふと椅子に目をやると、椅子が人が坐る分だけずれている。――ということは、やはり風船男はここに坐って、私と話をしたことになる。それでもまだ納得がいかなかった。

 仕事を気にしつつ私は、もう一度蒲団の中に身を投じる。

 しかし、休むのはいいのだが、ただひとつ気になることが頭を離れない――。

 数ヶ月前から知り合った女性がいる。スラリとした躰つきに肩まで伸びたストレートの軽く茶色に染めた髪。アーモンド形の瞳からは、優しさがそこはかとなくにじみ出ている。

 彼女の名前は、杉元亜香音といい、はっきりとした年齢はわからないが、おそらく、落ち着いた素振りからすると、三十代後半ではないだろうか。分別のある女性のように見える。

 毎朝決まって同じ電車で、同じ場所で乗り込む。それだけなら切っ掛けは掴めなかったのだが、偶然にも勤め先が近くだったこともあって、たまたま昼休みに会社近くのコンビニのレジで見かけたとき、どちらともなく会釈を交わした。それが切っ掛けとなり、次の日から駅で見かけると挨拶代わりに簡単な話をするようになった。

 本音と社交辞令が七対三の割合で「おいしい焼き鳥屋があるので、一度お誘いします」と私が言うと、彼女からは、「ぜひ」とまんざらでのない答えが返ってきた。私は、このチャンスを逃がしたら、このことについてもう二度と話ができない気がして、思い切って連絡先を訪ねたところ、意外にもすんなりと教えてくれた。

 残念なことに、きのうときょうの二日間は彼女のあの癒されるような爽やかな笑顔を見ることができない。それを考えると、いまからでも急いで駅に向かおうかという気になりかけた。

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