第9話
硬く目を瞑り、眠りに集中しようとしたが、どういうわけか一向にあの暗く深淵なまどろみの中に引き込まれることがなかった。蒲団の中で何度も寝返りを打っているうちに、枕の中から、あの身震いをするような「ふふふっ」という笑い声が聞こえてきた。
まさか――そう思ったとき、玄関のドアが開いたような音がした。そんなはずがない、いくら酔っていたとしても、これまで鍵をかけ忘れたことなど一度もない。でも、ひょっとしたら、ひょっとするかもしれないと思い、蒲団から出て確かめに行くことにした。そうでもしないと、気になってますます眠れなくなってしまう。
暗闇の中で引き戸に手をかけてそっと滑らせ、部屋を出ようとしたとき、心臓が止まりそうになった。我が目を疑った。ダイニングテーブルの椅子に誰かが坐っているのだ。
これはきっと夢だ、夢に違いない――そうとしか思えなかった。
何かを打ち払うように何度も首を振り、何度も瞬きをする。しかし椅子に坐ってこちらを見ている男はこちらに顔を向けたままじっとしている。
段々わかってきた。そうだ、地下鉄の中で笑いかけてきた、窓ガラスに映ったあの風船男だ――。ずんぐりとした躰を丸めるようにして椅子に坐っている。全身があの地下鉄の窓ガラスに映ったのと同じ白みがかった灰色をしていた。
いまだに夢なのか現実なのかがわからない。どうしてこうなったのかさえもわからない。
途方にくれた顔で呆然と立ち尽くしていたとき、風船男が薄笑いを浮かべなから手で自分の前に坐るよう示した。
わけのわからないまま、言われた通りにダイニングの椅子を引いて腰掛けた。
「あんたは、誰なんだ? どうやってこの部屋に?」
「わしはシーマというんじゃ。ちゃんと玄関から入らしてもらった。わしには鍵などまったく効き目がないということは、しっかり覚えておいて欲しい」
「シーマ?」私は顔を顰めながら訊いた。
「そう。シーマのシは生死の『死』で、シーマのマは悪魔の『魔』だ」
頭の中で言われた漢字を組み合わせる。
『死魔』――。
そう言われても、私には何のことかさっぱり理解できなかった。
「仏教の中に、『四魔』という生きる物を悩ます四種の魔があるのじゃ。その中で、人の寿命を奪う死を『死魔』と言って、他に『煩悩魔』、『陰魔』、『他化自在天魔』がある。わしはその『死魔』じゃ」
その話し方には、僧侶の説教に近い重々しさがあったが、仏教にうとい私にはもうひとつよく理解できなかった。ただ、『魔』というのは、修行や善事を妨げるものとか、不思議な力を意味するということだけは知っていた。
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