第8話

 その間に煙草に火を点ける。酒の追加を頼んだが、久々の日本酒に躰が反応したのか、いつもより回りが早いような気がした。二、三度目を瞬かせて大きく息を吐いた。

 残すのがもったいなくて、植木に水をやるような調子で咽喉の奥に流し込むと、ひんやりとした夜気が支配する露地を地下鉄の駅に向かって歩いた。

 酒に酔ったからか、眠たくてしかたがない。時折矇朧としてくる。このまま駅のベンチで眠ってしまうかもしれない、と思いながら電車を待った。

 耳障りな警笛と共にようやく電車がホームに入って来た。ドアのすぐ近くのあいている席に崩れるように坐り込んだ。

 あと三十分は絶対に眠ってはならない。そう自分に言い諾かせるものの、自信などあるわけがなかった。

 相変わらず矇朧としながらも、駅に着くたびに目を開けて駅名を確認する。まだ大丈夫だと聞かせる。地下鉄は景色がないために、駅名を見ないとどこか落ち着かない。長年の習慣がそうさせている。

 ある駅を過ぎたとき、右の耳元で「ふふふっ」と奇妙な笑い声が聞こえた。あのやぶ蚊の耳障りな羽音に近い感覚である。空耳だと思いながら目を瞑ったとき、またしても聞こえた。思わず右側に顔を向ける。しかし隣りの席はあいていて、誰も坐っていはいない。小首を傾げながら正面の窓ガラスを見たとき、右の肩口に人の顔らしき物が映り込んでいた。瞬間、心霊写真を見るような錯覚を覚えた。

 矇朧としたまま目を細めて窓ガラスを凝視すると、糸のような細い目して、鼻も口もはっきりとしない丸い顔が、背後霊のように映り込んでいた。まるで灰色の風船そのものだ。どう考えても人がいる位置ではない。だが、一応確かめる意味で首をゆっくり右に廻してみた。当然そこは車両の窓である。ガラス板一枚向こうは地下坑道だ。ホラー映画じゃあるまいし、そんなことあるはずがない――そんなことを考えているうちに、下車駅に電車が滑り込んだ。

 改札を抜けながら、あれは何だったのだろうか思い返そうとするが、考えれば考えるほど寒気をもよおした。

 

 何とか電車を乗り過ごすこともなくアパートまで辿り着くことができた。アパートは2DKの間取りだが、広いとは言えないが独身の身にはこれで充分である。

 鍵を差し込み、ドアを開けて部屋の中に足を踏み入れた瞬間、ほっとしたせいか虚脱感が全身を襲った。床に腰を降ろして靴を脱ぐ。そのまま這うようにしてリビングに向かう。あの絡みつく部屋の饐えた臭いさえ、いまは気にならない。廊下の電気を点けるのも億劫だった。

 やっとのことでリビングの照明の紐を引っ張ったとき、昼間のような眩しさに思わず目を閉じる。上着を椅子の背凭れにかけ、ネクタイを外すと、キッチンの蛇口に口をつけて、咽喉を鳴らしながら水道の水を飲んだ。少し落ち着く。だが、いまはあの好きな煙草をむ気にもならない。

 シャワーをパスし、トイレで用を足すと、パジャマも着ないまま蒲団にもぐり込んだ。これまでの経験からしたら、この状態は風邪の前兆に違いない。もし朝になってもかんばしくなければ、会社を休もうと決めて掛け蒲団を胸元に引き寄せた。普段は、何かあったら会社を休んでやろうと思うのだが、いざ本当に休まなければならなくと、気が引ける小心な自分が情けなかった。

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