第46話 それはすべての始まりだったものⅡ


 どのくらいそうしていたのだろう。何度も何度も回復魔法を施す幼い私の顔がだんだんと引きつってきたのだ。


「もういい。慣れない魔法は身体の負担が大きいからな」

「まだっ、ぜんぜん治ってないわ……はあっ」

「いや、微量な効果だが治りが良い」

「うそよお。まだ血がっ……」

「貴様に倒れられる方が迷惑だ、ならば」


 人間ならばとうに失血死しているであろう量が地面に流れてしまっているけれど、魔王さまは特に苦しんでいる様子もなく余裕の笑みを浮かべている。ケガを負った瞬間は眉をひそめていたのに。

 彼が丈夫なのか、はたまた幼い子供の前で強がっているのかは分からない。今の私には目の前の魔王さまの感情を読み取るチカラが無いから。それでも、今にも息絶えそうなほどつらそうではないのは確かだった。

 魔王さまは小さな私の口元に人差し指を当てた。鋭い爪が当たらないように指を折り曲げて。


「明日もここに来い。時間は問わぬが、明日も必ず魔法を施せ」

「え、ええ。いいわよ」

「それとここで私と会ったことは他言無用だ。貴様以外の人間を連れてくることも禁止する」

「ええ……? ふほーしんにゅうの方ですか?」

「詮索も無用だ。破ったら貴様の命はない」

「命がなさそうなのはあなたの方よ」

「ククク……面白うことを言う」


「姫様! どこにいらっしゃるのですか姫様!」


 二人きりの奇妙な空気を引き裂くかのように遠くから怒号が聞こえてきた。きっとこれは若かりし頃のじいやね。小さな私は分かりやすく身を震わせて肩をすくめた。


「行かなくちゃ。明日もきっとここに来るわ」

「ああ」


 そう言って手を振りながら笑顔で去って行く私に魔王さまは小さく舌なめずりをしたのだった。


「人間の姫か。手始めににえにしてやろう」


 ――どうか、どうか逃げ切って小さな私!!

 思わず現在の自分自身の姿を思い出す。目立った古傷なんてモノはなかったはずだし大丈夫だとは思う。でも、どうか、どうか無事でいて!


 そうパニックになる頭の裏で、どこか冷静にこの状況を分析している自分がいることに気づく。これは本当に私自身の記憶なのかしら? こんなに強烈な思い出なら

 ぼんやりとでも憶えているような気はするのに。

 私は首をひねる。けれど何も思い出せるモノはなかった。


 それから血だらけ大男と怖い物なし幼女の治療ごっこは何日かに渡って繰り返された。どこから来ているのやら、小さな私は毎回異なる場所から姿を現したのだった。建物の狭い隙間から這ってきたり、城壁に絡む太いツタを滑り落ちてきたり、魔王さまの背後の草むらから飛び出して脅かした日もあった。おてんばすぎやしないか。

 そして本当に私の回復魔法で治っているのか、それとも魔王さまの驚異的な自己治癒力なのか分からない。そのくらい私の魔法は微弱なものだった。

 それでも飽きることなく私は幾度も魔法を懸命に繰り返していた。やがて息も上がりくたくたになって座り込む私を魔王さまはなぜか満足そうな眼で見つめている。


 ――なんだか不思議な関係ね。始めは利用目的だったであろう魔王さまの眼差しが少しずつ穏やかなものに変わってきてる。


「はあっ……は、嘘みたい。本当に、治ってきてる」

「ククク……」

「何かおかしい?」

「いや、本当に毎日来るとは思わなかったのでな」

「失礼ね! 私は約束を守る人間よ!」

「そうか」


 魔王さまの右腕がおもむろに伸ばされる。視線の先の小さな私の頭に、大きな手のひらが覆い被さった。そのまま頭を撫でているのは良いけれど、その動きに合せて私の頭がぐわんぐわんと振り子のように振り回されてしまっている。

 だ、大丈夫かしら、脳震盪を起こしそうで怖いわ。


「ぐっ、うう……おえ」

「む、力加減が難しいな。想像以上に柔い身体だ」

「うえ、世界が揺れたわ……」

「すまない。こうか」


 今度はもっとゆっくりと私の髪を撫でつけている。これは大丈夫そうだった。


「こんな柔い身体の一族が先代を討ち取ったとはとても……」

「なにか言ったかしら? 申し訳ないけれど、あなたの手が耳を塞いでて聞こえないの」

「なに、聞く必要の無いことだ」


 ……あっ。

 初めて魔王さまが笑った。それは今の私ではなく過去の私に向けられたものだというのに、なぜか私の心臓が高鳴ってしまった。あの人の嬉しそうな笑顔を見ただけでこんなになってしまうなんて。

 嬉しくて苦しくて、思わず手を伸ばそうとする。もちろん現在の私には届くはずもないのに。魔王さまは小さな私を見つめて微笑んでいる。


「あと一日もすれば動けるだろう。明日の昼に出て行くことにする」

「ええ!」

「何を驚いている。治ればここにとどまる必要も無い」

「それは……それもそうよね」


 当然のことでも何でもないように言われてしまうと悲しいものだ。小さな私は分かりやすく肩を落として落ち込んでいる。それでも突然の別れの宣告をわがままも言わずに受け入れている私が意外だった。そういう所は案外大人びているのよね。


「ねえ、明日も必ずここに来るわ。だから、私が来るまでは待っていてね」

「面白いことを言うな。良いだろう、あまり待たせるなよ」

「もちろんよ!」


 そんな可愛らしい約束を取り付けて、小さな私は元気よく手を振りながら帰っていく。魔王さまも満足げに口元を緩めてその背中を見つめている。


 こんな非日常で、それでも大事なものだったであろう記憶を忘れるはずがない。忘れたくなかった。私は静かに祈る。

 お願い。どうか最後までこの優しい夢を見させて欲しいの。私が最後の一瞬まで思い出せるように、どうかこの夢が続いて欲しいと瞬きもできずに願った。




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