第43話 きっとそれは最初から


 離れていた時間はほんの少しだけだったのに、しばらくぶりに魔界に帰ってきたかのような感覚だった。今では懐かしささえ感じる。


「いつから気づいていた」


 前を向いたまま魔王さまはいきなりそう問いかけてきた。表情は見えない。けれど声が震えている気がした。


「前からなんとなくそう思っていました。あの人にああ言われて、はっきり答えになりましたけれど」

「そうか」


 私はもうヒトではない。そう思ってしまえば今までのおかしなこともすべて納得がいく。魔界の空気への順応も、治癒力の高さも感情の変化も。そして私はおそらくただの魔物ではなく……


「ここへ来て貴方の血を飲んだ時からですね。私の身体が人間でないものになったのは」


 魔王さまは黙ったまま何も答えない。けれどそれが肯定であることの何よりの答えだった。私は怯まずに言葉を続けた。


「私はもう魔物の仲間入り……それだけではなくて、貴方の、魔王さまの眷属けんぞくになってしまっていたのだわ」

「眷属とは違う。お前はすでに私の身体の一部だ」

「一部?」

「つまり、その」

「魔王の血は魔王の命そのものだからな。徐々に姫サマの身体は作り替えられ、今や人ではなく魔王サマの身体の一部として存在している」

「あら?」

「よお。お前らが急に人間界に行くからびっくりして様子見に来たんだよ」


 いつの間にか堕天使が私のすぐ隣にいて言葉に詰まっている魔王さまの言葉を続けたのだった。相変わらず飄々としているけれど今日はどこか表情が硬い。堕天使でも緊張なんてするのね。


「今では魔王サマの感情に反応するだけじゃなくその居場所も分かるんだろ。姫サマは文字通り身体の一部なんだからな」

「そっか、そういうことだったのね」


 どんなに無表情でも、姿は見えなくても。魔王さまのことがなんとなく分かるのは長い期間一緒に居るからだと思っていた。でも、そんな曖昧で不確かなことではなかったのね。

 私は彼を理解していたのではなく、理解させられていたのだ。このお城で暮らしていく内に私は彼に好意のようなものまで抱いていた。もしその感情もそうさせられていたのだとしたら? 考え出したら止まらない。

 その事実はあまり知りたくなかったしなんだかとても寂しい。私はだんだん視界が地面へと下がっていって堕天使から目を反らした。思わずつないでいた魔王さまの手をさらに強く握る。


「魔王さまに捕らえられたその時から、私の運命は決まっていたのですね」


 魔王さまの身体の一部ということは否応なく彼と共に生きるということ。魔王族の寿命は約千年。人間の寿命と比べたら途方もない時間の長さだわ。


「きっと私はこの先老いもせず死にもせず永遠に近い時を生きるのでしょうね。魔王さまが息絶えるその時まで、ずっと」


 そんな私が例え人間界に帰ったところで今やもう受け入れてはくれないでしょうよ。


「どうして最初に言ってくださらなかったのですか」

「……それは」

「何も知らない娘がそんなことを急に言われたら間違いなく拒否しますものね。だから私の意志はなかったのですか。私が気づいたときには手遅れになるようにしたのですか」


 まくし立てるように全部を一息でなじった。魔王さまは一瞬だけ私の方を見たけれどすぐに反らされてしまった。どうして貴方がそんなに動揺しているのよ。


「人間界の姫など世界中にはいくらでもいるでしょうに、どうして貴方はそこまでして私に」

「……な、なあ。姫サマ」

「なに? 私は魔王さまに聞いているのだけど」


 どうして堕天使も焦っているの。彼も同じように冷や汗をかいている。そのまま揺れる瞳で私の顔を覗き込んだ。


「あんた、本当に何も憶えていないのか?」

「……え?」


 彼のこんな顔初めて見た。引きつった笑顔で、まるでとても恐ろしい物を見るかのような目で私を見つめていた。


「本当に? なんにも? 嘘だろ?」

「えっ、どういう……」

「もういい。そこまでだ」


 見上げた魔王さまの目は伏せられていて見えなかった。けれど、胸を刺すような痛い気持ちになる。もしかして、これは魔王さまの感情?


「ただの口約束だったのだ。現に、お前は私と会ったことすら忘れている。お前はただの戯れだったのだ。私だけが……私、だけが」


 どうしてそんなことを言うの。私たち、どこかで会ったことがあるというの?

 胸の痛みは増すばかりで耐えきれずに痛む場所を両手で押さえる。こうして苦しい感情は否応なく押しつけてくるというのに、肝心なところは一つだって教えてはもらえない。


「教えて、ください……どうか。私、まちが」

「もういいんだ。すまなかった」


 どうしてそうやって自分で完結して終わらせてしまうの? もしかしたら私がものすごく薄情な人間で、大切なことを忘れてしまっていたのかもしれない。もしそうだとしたら、ちゃんと教えてくれれば謝ることもできるのに。私に何もさせてはくれない。


「今日はもう休め。部屋まで送ろう」

「ちょっと……!」


 返事をする前に魔王さまは転移魔法を発動した。私の身体がふわりと風を感じて、瞬時に寝室へと運ばれてしまった。


「私まだ疲れていません。なので教えてくださ」

「私は順番を間違えてしまったようだな。信頼を得ることはできなかった」


 もうこの人は私の話に耳を傾ける気は金輪際ないのだろう。ただそれは身勝手さから来るものではない。きっと私の拒絶の言葉を聞きたくないからなのだと思う。だから、何度でも私の話を遮るのだわ。


 それでもあきらめることなく言葉を続けようとしたけれどそれは叶わなかった。強い力で抱きすくめられて、唇に唇を押しつけられた。


「んんっ……!?」


 こんな状況で、こんな気持ちでしたくなかったのに。それは大切なものだと思っていたのに。抵抗しようにも身動きができないほど強い力で押さえ付けられているので黙ってこの状況を受け入れるしかなかった。

 目を開けると目の前の赫い瞳がほんの少し潤んでいる気がする。あまりの近さに驚いてそのまましばらく見つめてしまった。


 ――身体が、だるい。

 まるで生気を吸い取られているかのように急激に身体が重く感じて、解放された瞬間に私は力無くベッドの縁に座り込んだ。もう指一本も動かない。


「少し時間が欲しい。修正するための時間を」

「しゅ、せい?」

「私はただ、お前の自由を願っていたのだ。しかし私自身がその枷になってしまっていたようだ。もう憶えてもいない約束を律儀に守る必要もなかろう。お前はただ、望むことを言えば良い。それを叶える時間が欲しい」


 魔王さまがそっと私の頭を撫でた。その手の力で転がるように私の身体はベッドに沈んでいく。ずっと撫でて欲しいと思ってしまうほどの優しい手つきで、私の両目から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。


「自分の生きたいように生きるべきだからな」


 この言葉、どこかで。ああ、手のひらが離れてしまう。

 けれど考えることもできないほどの睡魔が襲ってきて、私は目を閉じることしかできなかった。魔王さまが、この部屋から、いなく、な……


 ぼやけた視界の中で一つのことが頭を巡る。

 どうして、どうして。私は忘れてしまったのだろう……――


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