第41話 先ほどはお楽しみでしたね
寝室の棚にお気に入りの茶葉を陳列している。その様を見ただけで私の心は楽しくなっていた。この前城下町の有名店で調達したもので、あのお店は王宮御用達でもあるのだ。懐かしくて愛おしい。
「楽しそうだな」
「ふふ、今日はついにこの缶を開けると決めていますので」
「そうか」
なぜか私の後ろに魔王さまが立っていたけれど特に疑問も持たずに会話を続ける。私は目の前の茶葉の缶たちに夢中だ。今日はどれを開けようかしら。
「最近よく笑うようになった」
「そうですか?」
「以前は私に怯えていたからな」
ふわりと風を感じて、私は後ろから抱きしめられた。魔王さまの手で目隠しをされて何も見えない。もう見るなということかもしれない。
「なあ、今晩はどうだろうか」
「なにがです?」
「……いや、そのだな」
なかなかどうして歯切れが悪い。魔王さまらしくなくて怪しい。何が言いたいのだろう。黙って待っていると、少しどもったような声が降ってきた。嫌な予感しかしない。
「私たちは夫婦なのだろう」
「うっ、はい」
「魔王族は婚儀などしない。なので人間の文化を調べたのだ」
「えっと」
「夫婦が夜にすることと言えば」
「えっ、ちょっと待っ」
「今晩が初夜ということで良いだろうか」
「ひいいいいいい!」
急に血圧が上がって頭の血管が切れそうなほど熱い。自分自身が制御できずに声にならない悲鳴を上げていた。
「問題ない。サキュバスとインキュバスに聞いてきた」
「行動力!!」
そうね、確かに人間の文化はそうよね! そうだけれども!!
予想だにしない提案に私の中から茶葉が消えた。わけが分からなくなって無我夢中で魔王さまの手を振りほどいて飛び出し、棚に背中をついて少しでも距離を取ってしまった。見上げた顔が困惑していた。
「……まあ、無理強いはしないが」
「ううっ」
困惑顔がみるみるうちに寂しそうになっていく。ち、違うのよ。いえ何も違ってはいないけれど!
「待ってください。私まだ心の準備が……」
「準備か」
「それに! ほら! そういうことは段階を経てと言いますし! もう少しほら! 軽い方で!」
混乱して変なテンションで妙なことまで口走っている気がする。魔王さまもよく分からずに「軽い方……?」と首をひねっている。あああ違うの! 言葉の綾!
ぐるぐると思考が回って視界まで回り始めたとき、魔王さまはいつものように私を引き寄せてローブの中にしまい込んだ。優しく背中を撫でられると不思議と呼吸も落ち着いてくる。
「軽い方とはこういうことか」
「忘れてください……」
「私は何でも良い。お前がここに居るならば」
何でそういうことを何でも無いように言うの。また顔が熱くなるのを感じながら、私はその背中に腕を回した。といっても私の腕の長さでは届かないので、彼の脇にしがみつくような形だけれど。
本当に大きな身体をしている。私も別に小柄なわけではないのに、これでは大人と子供くらいの体格差だわ。この差でそんな夜伽、なんて……
「ああああ! 心頭滅却!」
「すまない。そんなに心を壊すとは……」
「大丈夫ですわ! お気になさらず!」
私ったら本当にどうしたのかしら。恥ずかしさのあまり暴れ狂ってのたうち回りたいほどだった。けれど魔王さまにしっかり抱え込まれているので身動きができない。
こうしていると落ち着くのに、こうしているから落ち着かないなんておかしな話だわ。
「私がおかしいのは今に始まったことではありませんわ!」
「どうした」
「うっ近い……!」
この感情の意味を。この思考回路の謎を。どこにでもありそうな、それでも私には生まれて初めての気持ちの正体を暴く前に怪訝そうな顔が至近距離で迫ってきてそれどころではなくなってしまった。また再び制御できなくて発狂しそうになったその時。
「……姫、少し」
「むうっ」
あと少しで一国の姫がしてはならないような形相になってしまうところを寸前のところで魔王さまが人差し指を私の口に押し当てて止めた。よく見ると長い爪が私の肌に当たらないように指先が曲げられている。危なかった。けれど彼はそういうつもりではなかったらしく、目の前には真剣な顔があった。
「侵入者だ」
「んんっ!」
「ククク……姫にも見せてやろう。共に行こうか」
先ほどとは打って変わって邪悪な顔で笑った。久しく忘れていたけれど、この人は魔界の王さまなのよね。そんな顔もできるのかと感心した。
なんて悠長なことを考えているのだから、本当に私は慣れてしまったんだなあとぼんやり思う。
魔王さまに抱きしめられながら転移した先は魔王城の中庭だった。地面を踏みしめて鳴る乾いた草の音ですぐに理解した。まだ私の視界には魔王さまのローブしか見えない。
足下でうめき声が聞こえた。もうすでに手を下してしまったのだろうか。今度は一体どんな種族なのだろう。ダークエルフの危機が過ぎてすぐだというのに、王さまなのに案外敵は多いのね。
「ここの空気を吸ってまだ絶命しないとは」
「ぜえ……っあ、ふっ」
……嫌な声だ。そんなことはあり得ない。でも、確かに似ている。私の知っている人の声に似ているのだ。背中に嫌な汗が伝う。
「……存外息が長いな」
手が震える。さっきまでの空気が嘘のようだった。残酷な光景に、残酷な言葉に急激に気温が下がったみたいに寒気がする。それでも私は振り返らなくてはいけない。そう確信した。
私は震えて力が出ないまま魔王さまの胸を押し返して、開いた隙間で身体をひねらせた。おそるおそる見た足下の先には、あの日に再会した、私を慕ってくれたあの騎士が這いつくばっていた。
「どう、か……王の……言伝を」
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