第39話 乙女心は本人にも分からない


 次の日。

 一日が経ってまぶたの腫れも完全に治り、また買った本も読了したところで私は気持ちよく朝を迎えた。

 読んだ本は国の情勢をまとめた物や歴史書、あとは最近の経済事情が載った新聞や基礎から学べる物等々。案外思いのほか私がここへ来て日にちが経っていたようで最近の話は私の知らないことだらけだった。勉強なんて魔王城に来てから一切してなかったけれど、たまにするなら良いモノね。毎日はしたくないけれど。勉強と言えば家庭教師だったあの人たちは元気かしら、いえ多分元気ね。私が普段勉強していないことが知れたらきっと鬼のような形相で私を叱るのだろう、いつものあの顔で。


「痛っ」


 鬼を思い出しながら歩いていたらよろけてしまい、思わずそばにあった柱時計に手をついた。けれど手をついた場所が悪かったようで、私の手のひらに木の棘が深く刺さってしまった。とりあえず引き抜くとかすかに血が滲んできた。


「姫」

「大丈夫です。実は私、少しだけなら回復魔法が使え……あら」


 予想通り飛んできた声に返事をして回復魔法の準備をする。一応私だって小さい頃に魔法の勉強をしていたので使えることは使えるのだ。ただ、ちょっとした切り傷やかすり傷しか治らないけれど。


「そうか。そうだったな」


 そこで魔王さまは意味深な言葉を残す。けれど今はそれどころではなかった。

 私の傷がもう治っている。まだ魔法をかけていないのに、そんなに早く傷って塞がるものだったかしら。おかしいわ。そういえばダークエルフから救出されたときも私は体のど真ん中を串刺しにされていたような……

 死なない体。傷の治りが早い体。なんだかこれじゃ堕天使みたい。私の体のせいなのか、それとも魔界の魔法が段違いなのかはっきりとは分からない。けれど少なからず私の体も変化しているのだろう。そう感じる。ここの空気を長く吸っているからなのかもしれない。どんどん私自身が魔界の常識に馴染んできてしまっている気がする。


 とりあえず、これからどんな風に魔王さまと顔を合わせたらいいかしら。そんなことを考えながら私は転移魔法陣に足を踏み入れた。ほんの少しだけ視界が揺れて、私は魔王さまの謁見の間に到着する。この場所はちょうど玉座の真後ろにあって、肘掛けから飛び出す右腕だけが見えた。座っている。

 どうやら堕天使と取り込み中のようだった。思えばこの二人はよくこうして話をしている。右腕の名は嘘では無かったのね。どう声をかけたら良いのか分からずに、こっそりと玉座の後ろから顔を出してみると堕天使と目が合った。


「おはよ、姫サマ」

「お、おはよう……」


 魔王さまも振り返って私を見下ろしていたけれど、なんとなく目は合わせづらくて顔を背けてしまった。それを見た堕天使が心底おかしそうに吹き出す。


「ぶはっホントに嫌われてんのな!」

「嫌いってわけじゃな」

「嫌われていない」


 いやいや、どうしてそこで貴方がはっきりと答えるのかしら。私の言葉を遮って前のめりになりながら強く否定した魔王さまは私を抱き上げようとする。両脇に手を差し込まれる寸前でそれを避けて、私は堕天使の羽根の後ろに隠れた。


「なんだよ、俺に乗り換えてみるか?」

「それはすごく嫌だわ」


 あからさまな嫌悪の顔をしてみせると端正な顔がさらにおかしそうに歪んだ。にっこり笑えば天使そのものなのに邪悪極まりない顔だ。


「ふざけるなよ貴様。姫が気に食わないのではなかったのか」

「は? 俺そんなこと言ったっけ」

「始め私に隠れて騙し殺そうとしていただろう」

「最初だけな」

「ひええ……そんな真実聞きたくなかったわ」


 確かに初めて会ったとき、堕天使は感じが悪かったけれどまさか殺そうとしていたなんて。いえ、あり得る話だわ。何度も私が逃げだそうとしていないか聞いてみたり、協力するかのような素振りをしていたのもやっぱり私を油断させるつもりだったのね。

 そっと堕天使から後ずさって距離をとってはみたけれど、一瞬で詰められて頭を撫でられてしまった。うう、笑顔が怖い。


「だって魔王サマがだぜ? 魔界の王たる存在がたった一人の小娘に心酔するなんて気に食わねえだろ。いっちょ目を覚まさせてやろうと思ったんだが」

「触らないで……」

「んな寂しいこと言うなよ。今ではけっこう気に入ってんだ、面白くて飽きねえしお転婆だし」

「それひとつも褒めていないじゃない」

「もうあの時和解しただろ? 蒸し返すもんじゃねえよ」

「まあ、もう酷いことしないなら」

「ほら見ろ魔王サマ! 俺のことも巻き添えにして一緒に嫌われようとしたが失敗いいだだだ!」


 懲りない人ね。それともこれがいわゆる「様式美」って奴なのかしら。これでは仲が良いのか悪いのか分からない。先ほどまで私の頭を撫でていた右腕があさっての方向に折れ曲がったのを見ながら私はため息をついた。


 魔王さまはずっと私のことを見つめているらしく、私の肌が殺気でチリチリと焼かれているようだった。さすがにこれ以上は身の危険を感じるわ。私はこの妙な堕天使とは違って傷つきたくはない。

 私は魔王さまの元に歩み寄った。真ん前に来たところでゆっくりと顔を上げる。いつもの無表情が少しだけ呆けているようにも見えた。驚いているのかしら。


「おはようございます、魔王さま」

「……ああ」


 魔王さまはほんの少し口角を上げた。それはあまりにも微かな動きだったので、いつも彼を見ている人でないとこの違いは分からないのではないだろうか。私は分かってしまったけれど。

 そのまま抱き上げられた。私はされるがままに玉座に腰掛ける彼の膝の上に座る。近くで見た赫い目がどこか疲れているようにみえた。


「あまり怒らないでくださいね」

「制御が効かないほど怒らせなければ良い」

「うっ」


 それはごもっともなのだけれど。魔王さまは怒りやすいし難しいわ。そう不満を漏らすと喉を鳴らして笑っていた。


「兎にも角にもこれで仲直りです」

「分かった」


 無表情なのに魔王さまの感情が手に取るように分かってしまう。なんだか不思議な気分だった。

 私は首を精一杯伸ばして魔王さまの頬にキスをした。彼は数秒固まったあと、今までに見たこともないくらい優しい顔で笑ったのだった。






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