第38話 口をきいてくれない件


 どのくらいそうしていたのか分からない。そこまで長い時間ではなかったような気もするけれど本当のところは分からない。

 しばらくの間、魔王さまに抱え込まれたままうずくまって泣いていた。時間が経って心も体も落ち着いてから私は今日会ったことをすべて話した。ごめんなさいラミア、黙っていましょうと約束していたのに。そう心の中で謝りながら、もう目は合わせたくなかったのでうずくまって顔を隠したまま話した。


 城下町で王宮騎士に偶然会ったこと。危険な目に遭っていると早とちりした騎士に抱えられて一時避難されたこと。私の現状や王家の現状をお互いに軽く話し合って和解して帰ってきたこと。

 ……もう私の居場所はあそこにはなかったこと。


 魔王さまはさっきまで怒り狂っていたのが嘘のように落ち着いていた。私の話の返事にも「そうか」とひとつだけ相槌を打ってそれだけだった。ただ私の背を撫でる手がとても優しくゆっくりな動きで、少しだけ震えていたので文句が何も出てこなかった。

 静寂が痛い。いつまで続くのだろうと不安になっていたらすぐ上から遠慮しがちに声が降ってきた。


「頭に血が上って力の加減を忘れてしまった。ほんの少し忘れただけで、壊れてしまう脆さと知っていたのにな」


 それならそんなに危険なほど力の差がある脆い生き物を自分の膝に年中乗せなくてもいいのに。あの恐ろしい顔が頭にこびりついて今日はもう目を合わせる気にはなれなかった。


「今日はもう休むといい。すまなかった」


 返事をしようとしたけれど喉の奥で言葉が詰まって何も言えなかった。脱力する体をなんとか奮い立たせて私はこの場を後にしたのだった。




 ***




 私の寝室には扉がない。魔王さまが造った特殊な転移魔法陣で移動しなければこの部屋には入れないのだ。もちろん魔法陣が私と彼以外を通すことは無いのでここは魔王城の中でも特別な場所だった。


 湯浴みを済ませて寝間着に着替えるとベッドの上で使い魔が寝そべっていた。この子は寝室の世話係にと魔王さまが呼び出した黒い蜘蛛で、初日からここに住んでいる。どうやら私が見ていない間にこの部屋の管理をしているらしく、こうして私が快適に過ごせるのはこの子のおかげだ。いつもは存在感が無く私の視界にも滅多に入らないのでこうしてのんびりしている姿を見るのは初めてだった。

 こっそり近寄って観察してみる。よく見ると毛がふさふさしてるのね。すると眠ってはいなかったようでぱっちりと目が合った。私の両手を広げたくらいの大きさの体から大きな四つ目が真っ直ぐに私を捕らえる。


「すみません」

「いいのよ。ゆっくりしてて」


 やだ、しゃべれたのね。こんなに長くここにいたのにこんなことすら気づかなかったなんて。幼い少女の声をした蜘蛛は、私の言葉とは反対に急いでベッドから飛び降りて棚の隙間に潜り込んでしまった。


「あら、もう行ってしまうの?」

「私の使命はこの部屋の管理です。どうかお気になさらず」


 けっこう大きな体だったけれどあんな狭い隙間に簡単に潜れるなんて。それからは幾度呼びかけても返事は来なかった。つれないわ。


「ねえ使い魔さん。少し、話し相手が欲しかったのだけれど……」

「私は使い魔ではなく魔法人形です。心がないので応答しかねます」


 最後に感情のない声でそう一言だけ添えて、使い魔もとい魔法人形は気配すら消してしまったのだった。辺りに再び静寂が戻る。

 このままでは眠れそうになかったからお話ししたかったのに。残念。魔法人形ということは生き物ではなかったのね。人間界の魔法人形はあんな生き物みたいな精巧な動きはしないので騙されてしまった。あっちのは踊りを踊るだけとか、決められた楽譜を演奏するだけとかの単純な動きしかできないものなのに。魔王さまの魔法って本当に何でもできるのね、その上あの腕力……

 勝手にまた思い出してしまった。せっかく別のことを考えていたのに。


 ――明日、どんな顔をして会えば良いのかしら。


 和解すればいい。そもそも魔王さまはすでに謝っていた。なのになんでこんなに心がモヤモヤするのだろう。呼吸をするように自然に流れてくる涙を拭うのも面倒になり、私はそのままベッドに横になったのだった。


 眠れるか心配したけれどよほど疲れていたのか案外すぐに眠ってしまったらしい。気がついたら時計の針が恐ろしい時間を指していた。お昼まで寝たのなんて生まれて初めてだった。


「め、目が開かないわ……」


 それもそのはず。思えばあの時からずっと涙が止まらなかったのだからまぶたも腫れ上がるに決まっている。よろよろと鏡の前まで移動して自分自身に起きた惨劇を確認する。さすがに今は涙が止まっているものの、凄まじい形相をしていた。蜂に刺されたらこんな感じかしら。あ、そういえばまだラミアに髪と瞳の色を戻してもらっていなかった。

 とりあえず魔法人形に用意されるまま身支度をする。けれど正直この顔では誰にも会いたくない。今日はこのまま引きこもってしまおうかしら。


「そうね、決めたわ。今日は誰にも会わずにこの部屋からも出ません。また明日お会いしましょう」


 たぶん聞いているであろう魔王さまに向かって私は話しかけた。泣きすぎたおかげでもう今は怒ってもいないし悲しくもないので、できる限りいつもの調子で声をかけた。


「……っ、分かった……」


 しばらく間が空いてから魔王さまが搾り出したような声でそう返事した。返事は来ないものと思っていたのでびっくりして手にしていた本を落としそうになってしまった。

 ちょっと悪いことしてしまったかしら? でもちょうど良い機会だわ。今日はゆっくりと心を落ち着ける日にしましょう。最近私自身も何がしたいのか、どうありたいのか分からなくなってしまっていたし。


 そんな風に前向きに捕らえることにして、私はソファーに腰掛けながら昨日城下町で買った本を開いたのだった。



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