第35話 これで良かったと思っていたのに


 目を開けるとそこはどこかの森の中だった。けれど魔界のようなおどろおどろしさはない。木々の隙間から降り注ぐ太陽の光が美しく、澄み切って少し冷たい空気が肺を満たす。耳を澄ますと鳥のさえずりや風が葉を揺らす音が聞こえる。ここは生命の力に満ちあふれた森だ。


「城の兵士に見つからないように山の中を遠回りするから」

「え、兵士がすぐ近くにいるの?」


 するとここは王宮の裏山だ。よく見ると城壁が遠くに見える。ついお城まで歩きそうになるのをぐっとこらえた。


「人間界側のゲートはお城の近くにあったなんて」

「あれ、魔界に来るとき通ったでしょ」

「その時はそれどころじゃなくて」

「そっかあ、そうだよね。正確には人間の城と山の間ってとこかな」


 お城の裏側にある小さなお庭に、山の麓。そこに目立たずに鎮座する魔法陣。なんだか見覚えがあるような無いような。ま、いっか。


「山道は歩きにくいから、疲れたら言ってよ。背負ってあげるから」

「ありがとう。大丈夫よ」




 ***




 城下町は私がいた頃と変わらない活気に溢れていた。多くの人が賑わい、様々な露天や呼び込みが互いに競うように声を張り上げている。久々の喧騒に頭がくらくらするほどだった。


「姫、絶対に手を離しちゃ駄目よ」

「ふふ。分かってるわ」


 私は行きたいお店をラミアに伝えたあとは大人しく彼女の後に付いていくだけにした。何人かに呼び止められたけれど手を振って笑顔で断る。


 ――大丈夫そうで安心したわ。この国は私がいなくなっても、いえ、いなくなったからこそ。変わらずに平和な日々を過ごせてるんだわ。


 かつては魔王の復活やら魔物の凶暴化やらで活気の中に少しの不穏さがあった。今はどうだろう。そんなこと誰一人も心配してはいないようだった。魔王さまはやっぱり最初の約束通り人間界の平和を保っている。


「寂しそうだね、大丈夫?」

「ええ、なんともないわ。平和そうで安心しただけ」

「そうだねえ。凶暴化した魔物やついさめたり、手に負えないのは魔界に持ち帰って人間に害を加えないようにしてるからね」

「そうだったのね」

「中にはこっちの世界を気に入ってる連中もいるから全部を魔界で引き取りはしないのさ」


 こうしてラミアたちが偵察しているのもそのためなのだろう。私は感心しながら話を聞いていた。あ、あの露天の果物美味しそう。


「とはいえある程度の悪さしてんのは放置してるんだ。冒険者って奴が魔物退治を生きがいにしてるようだから、楽しみを取るのは可哀想でしょ?」

「なかなか複雑なのね」

「いい塩梅って言ってちょうだい」


 楽しくおしゃべりをしながら街を歩いているとあっという間に時間が過ぎていった。今日の目的は勉強のための資料収集だそうで、先ほど本屋から大量の歴史や政治の本を購入していた。

 私たちは露天で勧められたサンドイッチを頬張りながら広場の噴水の縁に腰掛けてひと休みとした。ここも人が多く皆が楽しそうにおしゃべりをしている。


「こんなにたくさんの本……この国についてそんなに興味があるの?」

「まあね。そもそも魔界がまだまだ発展途上らしいよ、魔王様曰く。参考にしたいんだって」

「へえ、そういえば魔王さまの代から魔界を統治し始めたのだったわね」

「そういうこと」


 このあとは王立図書館でめぼしい資料を大量に暗記してくるらしく、ラミアが鞄の中に両手を突っ込んでこそこそしていた。覗き込んでみると見覚えのある目玉型子機が。


「それ、魔王さまの視界を映像化する機械」

「正しくは映像記録器ね。これで本を写し取るのよ」

「でもこの世界にはグロテスクすぎて目立つわね」

「だからコソコソやんなきゃダメなのーハラハラするー」

「キイキイ」

「この起動音も目立つからいやあ」

「ふふふ」


 ラミアはとても話しやすかった。女の子と二人でお出かけするのは初めてなので新鮮だった。実際の城下町の姉妹ってこんな感じかしらね。私の方は、ちょっと違ったけれど。


「ごちそうさま」

「じゃ行こうか」


 何気ないことだって楽しくなる。私、もっとラミアと仲良くなりたいわ。

 再び二人で手をつないで歩き出す。図書館に行ったらもう帰らなければならないのよね。分かっていたことだけど色んな意味で肩を落とした。その時だった。


「あの、すみません」

「ひゃっ」


 背後から肩を掴まれて思わず小さな悲鳴を上げてしまった。暴漢ではなかったようですぐに「ごめんなさい!」と声が飛んできた。振り返った先にいたのは青年だ。どこかで会ったような、そうでないような……なんてぼんやり考えていたらラミアに腕を引かれて背中に隠されてしまった。私と青年の間に割って入ったラミアは不機嫌そうに文句を言い放つ。


「どちらさま? あんまり触らないでね」

「すみません……あなたたちは旅人ですか? この国ではあまり見ない容姿をしているもので」

「そうかしら」

「ええ、特にそちらの女性。黒髪は……あ、あああ」

「どっどうしたの」

「ちょっと! もう行くよ!」


 私の顔を見つめていた青年の顔がみるみるうちに青ざめていく。危険を察知したラミアは私の手を引いて駆け出そうとする。けれどそれより速く私の体は青年に抱きとめられてラミアと引き離されてしまった。彼はそのまま私を横抱きにして街の喧騒の中ををものすごい勢いで走って行く。


「あああ! ちょっと待ちなさいよぎゃっ!」


 人間化したラミアは走ることになれていないのかすぐに転んで見えなくなってしまった。私も抵抗してみるけれどがっちりと抱えられてびくともしない。


「いや! 離して!」

「俺を信じてください! 一旦魔王の手先から距離を置きましょう」

「……え?」


 予想外の言葉に驚いてつい抵抗の手を止めてしまった。見上げると、彼は一瞬だけ目線を落として私にウインクしてみせた。どんどん噴水広場から遠くなり、人気の無い場所へと向かっているようだった。


「俺は生きていると信じていましたよ、姫様」


 その言葉を聞いた途端、私の心臓がドクンと大きく脈打ち始めた。


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