第33話 お詫びに何でもしてくれるって


 ダークエルフの件から三日が過ぎた。あの時ケルベロスに咥えられて消えていった彼はどうなってしまったのかしら。もう今では姿はおろか話題にすら上らなくなっていた。まあ私もそこまで気にしていないのだけど。


「グルルルル……」

「振り出しに戻ってしまったわね」


 それよりケルベロスが以前の姿に戻ってしまったことの方がショックだった。檻の中で大人しくお座りしていても顔は獰猛な肉食魔獣そのものだ。性格まで元に戻らなかったことだけが救いだけど、これではお城の中を連れて歩けやしない。


「もう、変なモノ食べちゃダメじゃない」

「ガウガウ」

「小さくなるまで遊んであげないんだから」

「ガウ……」


 少しだけお説教をしてから私はケルベロスの檻を後にした。特に当てもなくふらふらと廊下を歩く。どこへ行こうかしら。

 スライムやウィルオウィスプに教えてもらったおかげで魔王城の住居区域はほぼ行き尽くしたらしい。「らしい」というのは転移魔法陣で移動してばかりなのであまり実感がないからで、このお城は階段がなかった。それどころか扉のない殺風景な部屋まであったのだから驚きだ。一体何に使う部屋だったのだろう。


「姫、話がある。戻ってこい」


 ため息をついていると魔王さまの声がして、私の隣に空間の穴ができた。ちょうど私が通れるくらいの穴だ。ここから戻れって事ね。

 大人しく穴をくぐると目の前で魔王さまが玉座にもたれかかっていた。肘掛けに肘をついてほお杖をつきながら私を無表情で見つめている。無表情とはいっても、これは何か悩んでいる無表情だわ。このくらいならなんとなく分かる。


「どうかされましたか」

「……ふむ」


 いつもは問答無用で膝の上に乗せられるので、こうして面と向かって会話するのは珍しい。彼は彼で前回の一件を気にしているらしい。たまにこうして私に遠慮するようなそぶりを見せるのだ。


「ずいぶんとつまらなさそうな顔をしている」

「え、えっと……」


 的を射たことを言われて言葉に詰まってしまった。思わず目を反らして返す言葉を考える。その間も魔王さまはじっと私の挙動を観察していた。


「その、目的を失ってしまって」


 肝心なところはぼかしながら、それでも精一杯正直に答えた。少し前までは魔王城脱出に燃えていたはずだったのに。どうしてなのか私にも分からない。

 あのダークエルフの件からどうにも色んな事が身に入らない。力が抜けてしまっみたい。


「城の中を行き尽くしたのもあるが、一番は先日の影響だろうな」

「そうなのでしょうか」

「慣れない経験をして心が疲れてしまったのでは、と堕天使が言っていた」

「なるほど」


 そういうこともあるかもしれない。私自身に自覚がなかったけれどこれもトラウマの一種なのかもしれない。ただ単に安心して気が抜けているだけ、という可能性もなくもないけれど。

 私が感心しながらあごに手を当てて唸っているのを魔王さまはじっと目を細めて見つめていた。さらりと黒髪が流れて赫い目にかかる。


「なあ、姫」

「はい」

「いま一度、人間界に戻ってみるか」


「……んん!?」


 予想だにしない問いに思わず聞き返してしまった。理解が追いつかなくて何も言えない。魔王さまは少しだけ笑ってもう一度口を開いた。


「帰すことはしないがな。一旦故郷の空気でも吸ってくるが良い」

「どうしちゃったのかしら。わ、罠ですか?」

「……元気の良い返事だな」

「あっ」


 私ったらなんて現金なのだろう。恥ずかしくなって顔が熱くなった。魔王さまは口元を緩めてため息をついた。その顔はどことなく寂しそうにも悲しそうにも見えてしまったけれど、それはただの自惚れかもしれない。


「魔王様、お呼びでしょうか」

「来たか」


 いつの間にか私の背後にラミアの女の子がひざまずいていた。全然物音も気配もしなかった。この子ってこの前会った兄妹きょうだいの妹よね。私が横に避けて道を空けるとニコリと笑ってお辞儀をしてくれた。


「明日の査察に姫も連れて行け」

「えっ査察って人間界のですか? よいのですか?」

「ただし姫の自由行動、身内との会話は禁止し日が落ちる前に帰還しろ。また姫と勘付かれないよう変装をだな」

「ギチギチっすね……御意です」


 なんだか彼女に同情の眼差しを向けられている気がする。彼女の大蛇の尾が力無く揺れていた。


「では姫、明日はよろしくお願いしますね」

「迷惑をかけないよう努力するわ。よろしくね」

「それは非常に助かります」


 私の身に何かあったら彼女は大変なことになってしまうだろう。これはうぬぼれではなく事実だと満場一致の見解である。ラミアは安心したように笑って会釈した。


「それでは失礼します」

「ああ」

「またね」


 ラミアの背中が見えなくなるまで見送る。彼女の下半身である蛇の尾は物音一つ立てずに床を這っていく。その動作はとても優雅に見えた。


 再び二人きりになって静かになってしまった。おそるおそる魔王さまを見上げると、ばっちりと目が合う。


「どうした。嬉しいのだろう」

「それは、そうなのですが」


 言いたいことはあるのだけれど何と言ったら良いのか分からない。魔王さまが何とも言えない複雑な表情をしている。そんな顔をされたら素直に喜ぶのはなんだか申し訳ない。実際に複雑な心境なのだろう。私が王国のことを考えるのをあんなに嫌がっていたのだから。


 ――それなのに、今は許してくれるのね。


 私は自分の気持ちをうまく言葉にできなくて、結局何も言えないまま魔王さまに歩み寄った。彼の開いた足の間に立って見上げると少しだけ驚いた顔をしていた。私の力ではよじ登ることができないので、抱き上げてくれるのを両手を伸ばして待ってみる。けれど魔王さまは微動だにせず私を見下ろしていた。


「あの、駄目ですか」

「いいや。感心していた」

「ん?」


 何に、と思ったけれど答えてはもらえないみたい。首を傾げていると魔王さまはククク、と笑いながら私を横抱きにして膝の上に乗せた。

なんとなく、その鎖骨にすり寄ってみる。すると予想以上に柔らかい声が降ってきた。


「なんだ、媚びているのか。それとも礼のつもりか」

「そういうわけではないのですが……」


 じゃあどういうことなのか。図星に他ならなかったけれど、そんな風に思われたくないと思ってしまった。


「何にせよ、私に拒む理由はないな」


 差し出された手を両手で包み込み、その手のひらに頬をすり寄せた。私の倍はありそうなほど大きな手が今は私になすがままにされている。頭上からふ、と笑う声が聞こえたけれど目を伏せていたのでその表情までは分からなかった。



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