第23話 意識しちゃって
魔王城で暮らす日々は相変わらずだった。どんよりした靄に包まれたお城の中を、魔王さまの監視の下散策する。
……なのだけれど。
「ううん、うう……」
「こんにちは姫さま!」
「きゃ!」
危ない。ぼーっと前を歩いていたものだからスライムが目の前にいることにも気がつかなかった。もう少しで彼を踏んでしまって私の右足が無くなるところだった。気をつけないと。
「そんなに唸ってどうしたんですか?」
「ええと、ちょっと考え事をね」
「お悩みですか! 僕で良ければ!」
「おおっと……」
ぐいぐいと前のめりに詰め寄ってくるスライムからさりげなく距離を取る。ごめんね、でも貴方は興奮すると体がぷるぷる震えて粘液が跳ねてしまうから。案の定彼の周囲が音を立てて蒸発する。
「気持ちは嬉しいけれど大丈夫よ」
「本当ですかあ?」
「誰かに言うことでもないの。ちょっと色々思い出していて」
あいまいな返事をして目を反らす。スライムは「そうなんですかあ」と特に気にする様子もなく頷いた。
「でも姫さまの元気がないのは心配ですよ!」
「ふふ、ありがとう。お仕事頑張ってね」
名残惜しそうなスライムに手を振って半ば無理矢理に別れてから、私は近くの窓の縁にそっと手を置いて外を眺めた。景色は相変わらず面白みのない靄で覆われていて見えない。
「行く当てがないなら戻れば良いだろう」
不服そうな魔王さまの声がどこからともなく聞こえる。何か反論しようとしたけれど何も思いつかなかった。
「無視か」
「ち、違いますけど」
「なんだ」
「少し、放っておいてはいただけないでしょうか……?」
「……は」
ああしまった。明らかに機嫌を悪くした声だ。どうしよう、どうしようもないか。
だって私が悩んでいるのは……
にゅ。
いきなり私の隣に空間の穴が発生したかと思えばそこから恐ろしい速さで腕が伸びてきた。これ、昨日見た魔王さまの空間魔法だわ。
「きゃああああ!」
その腕にあっという間に掴まれたかと思えばものすごい勢いで引っ張られた。ひ、引きずり込まれる! 穴に!
視界が暗転して、もう駄目だと思いながら目を閉じる。怒らせてしまった。魔王さまが私に怒った事なんてなかったのに。もうおしまいだ。
なんだか既視感がしておそるおそる目を開けると、いつの間にかいつもの位置である魔王さまの膝の上に座らされていた。ただ、頭上にある顔は想像以上に機嫌を損ねていてすさまじい眉間のしわが見える。いつも無表情のくせに、こういう表情ははっきり表すのね。
「お前に拒否権はない」
「うっ」
頬を掴まれ強引に上を向かされて、嫌でも至近距離で目が合ってしまう。なんて恐ろしい殺気なのだろう。ただでさえ細い瞳孔がさらに細く小さく見開いている。眼力だけで命を刈り取られそうだった。
「なぜ避ける? 何が気に入らない? 答えろ」
「待って、待ってくださ……」
「何を待てと言っている」
「顔、が近い……」
「む」
私が怯えていることを察したのか、魔王さまはゆっくりと私から顔を離してくれた。ついでに怒りも少し収まったようだ。今は無表情に戻ってまじまじと私の顔色を観察している。ああ……良かった。思わず安堵のため息が漏れた。
「今朝からだな。昨日のことか」
「ぎくっ」
動揺のあまり擬音が口から出るという挙動不審ぶりを見せてしまった。そしてそれを見て「なるほど」と感情の分からない声で頷かれる。恥ずかしいことこの上ない。
じろじろと私を上から下まで舐めるように観察されてとても居心地が悪いけれど、どうやら私がおかしい原因を考えているみたい。真剣なのは意外だけど、私はこの間どうすれば良いのだろう。無意識にもじもじと足を揺すると魔王さまの膝がぴくりと小さく跳ねた。
「くすぐるな」
「あっ! ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
「ふむ、分からんな。昨日の煎じた薬草か? 人間の味覚は理解しがたい、茶のことはあとで堕天使にでも聞いておこう」
「あれ薬草だったのですか」
確かに昨日のお茶はひどい味がした。見た目も香りもカモミールだったので騙された絶望感は大きい。そして人の暮らしを知る堕天使なら多分なにかのアドバイスはしてくれると思う。けれど。
「それもそうなのですが、それとはまた違って」
「いい加減白状しろ。言うまで外出許可はしない」
「えええ」
なんて横暴なのかしら。本当はそっとしておいてほしい。時間と共に忘れたいのが本音なのだ。けれどこれは言わない限り許してくれない気がする。
困ったわ。私は深呼吸をして、声が震えないようにゆっくりと口に出した。
「……と、…………って」
「声が小さい」
「昨日のことを、何度も思い出してしまって」
まだ足りないのか。魔王さまは首を傾げて「理解できない」のポーズをする。そうこうしているうちにまた思い出してしまい今度は顔が熱くなっていく。恥ずかしい恥ずかしい。もう堪忍してください。
「その、魔王さまが、私のくっくちび……るを」
「……ああ。なるほど」
当の本人は何でも無いことのように頷いたのでまたさらに顔が熱くなるのを感じた。私の顔は一体どうなってしまったの。
いえ、顔だけじゃない。頭もおかしくなってしまった。その時はびっくりしただけで終わったのに。夕べ寝るときになってからなぜか繰り返し思い出してしまって全然眠れなかった。
昨日、垂れかけた唾液を私の唇ごと舐め取ったあの舌の感触が。したり顔で心底
「ククク……そうか。それは悪いことをした」
言葉とは裏腹に今まで見た中で一番愉しそうに笑っている。歪んだ口元からぬらりと鋭い牙が光る。
違う。私は何も分かっていなかったのだ。この目は私を嗜虐するものではなく、ましてや蔑むものでもない。私はたった今気がついただけで、この目は最初から私に向けられていたのだ。
――これには魔族も人間も違いは無い。一人の男の人が、女である私を見る目……だったんだわ。
「そう構えなくとも良い。お前が望まぬ事はしない」
私の心が一体どうなってしまっているのか私自身にも分からない。ただ心臓がうるさく暴れ狂っていて、顔が熱くて仕方ない。魔王さまの顔を直視できない。お願いだから、そんな目で私を見ないで。
そんな私の思考を知ってか知らずか魔王さまはゆっくりと私の背中や腰に腕を伸ばして優しく、けれど抵抗できないほど強く抱きしめた。
なにがどうなってしまっているのだろう。混乱してよく分からない。私は自分でも知らぬ間に魔王さまの背中に腕を伸ばして抱きしめ返していた。
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