第19話 能ある天使は輪を砕く


「何を言い出すかと思えば……」


 いかにも面倒そうな声を出して堕天使は戻ってきた。言葉遣いは悪いけれど、こういう所は意外にも律儀に従うのよね。まあ、魔王さまの目があるからなのだろうけれど。


「だって、よくよく考えたら貴方が普段何をしてるのか知らなかったから」

「そうだっけか?」

「いつも忙しそうにしているし、興味あるわ。無理にとは言わないけれど」

「……まあ、いいぜ。今ヒマだし」

「あら、断られるかと思った」

「断って良かったのか?」

「もう変更は受け付けないわ!」


 ふん! と鼻を鳴らして意気込む私に「しくじった」とため息をつきながら堕天使は頭を抱えた。毎度会うたびに忙しいと文句を言いながら涼しい顔をしているからこの機会に確かめてやるわ。それが本当なのか誇張なのか、場合によっては弱味になるかもしれないし。今度また意地悪してきたら仕返してやるんだから!

 しばらく堕天使は目を閉じて頭を抱えながら唸っていたけれど、ついにあきらめたのかやっと頭から手を放した。だるそうな目が私を見下ろしている。


「言っとくが面白くはねえからな。勝手に期待してがっかりすんなよ」

「私そんなひどい人間じゃないわ」

「分かった。じゃあ暴れんなよ」

「ん?」


 どういう意味? と尋ねる前に堕天使の腕が伸びてきて私の両脇に突っ込んできた。意味不明な行動に声を上げる暇なくそのまま持ち上げられて足が宙に浮く。

 ……よく野良猫を抱え上げるときこんな感じね。なぜこんなことをされているのだろう。堕天使の背にある大きな六つの翼がふわりと揺れて、また私は何事もなく地面に降ろされた。

 なんだったのかしら?


「暴れるなとは言ったが無反応も怖えな」

「何がしたかったの?」

「移動」

「移動? あっ!」


 言われるまで気がつかなかった。辺りを見渡せば先ほどの邪神像はどこにも見当たらない。どこかの廊下で、きれいな装飾が施された扉が目の前にあった。そこらにあるような魔王城らしい扉のデザインではなく、金糸や宝石が嫌味なくちりばめられた白い扉だった。堕天使の部屋なのかしら。


「気づかなかったわ。魔王さまの転移魔法と違うのね」

「俺のは魔法じゃねえからな。翼の羽根で、空間を裂いて飛んだだけだ」

「へえ、すごいことしてたのね。ちょっと頭が追いつかなかった」

「あっそ」


 なるほど。だからさっき私の体を持ち上げたのね。知らない間に飛んでいたとは思わなかった。

 私がふむふむと感心している間に堕天使は背中を向けて扉の錠前を外していた。なんだか口や態度とは正反対なのよね、器用というか手際が良いというか。


「ほら、入れよ」

「ありがとう」


 カチャリと軽そうな音と共に扉が開いて、堕天使に先に行くように促される。一歩踏み入れたその部屋は、私が想像していたモノとは全く違う世界だった。

 魔王城では久しく見ていなかった白を基調とした明るい部屋に、かつて私が暮らしていたお城の面影が重なる。豪華絢爛とまではいかないけれど、とある王族の寝室という雰囲気だ。

 ただひとつ異なる点は、辺りで白い羽根と羊皮紙が飛び回っていることだった。いくつもの羽根がひとりでに筆記をしている。それぞれが意志を持っているかのように羽根先にインクを浸し、忙しなく文字をしたため、羊皮紙を巻き取って棚にしまったり新しい羊皮紙を取り出したりしている。その光景はいつぞやに夢見た想像の世界そのものだった。


「私がおとぎ話で想像していた魔法使いの部屋だわ」

「だから魔法じゃねえんだけどなあ」

「どういう原理?」

「羽根だって、手足と同じで体の一部だからな。体を動かしたってなんの不思議もねえよ」

「こんなにいくつもの羽根を動かしているの? 同時に?」

「忙しい時は倍は動くぜ」


 もうすでに部屋一面で羽根が飛び回っているのに、まだこれは序の口らしい。堕天使の処理能力は一体どうなっているのかしら。魔王さまも魔界すべてを監視しているというし、末恐ろしい能力ね。

 好奇心で羽根の一つに近づいてみる。けれど何を書いているかは良く分からなかった。魔界の文字も勉強した方がいいかも。


「何を書いているの?」

「魔界の情勢と不穏分子の調査記録だ。魔王サマが強いっつっても皆が皆崇拝しているわけじゃねえしな。種族の勢力とか、怪しい企みしてねえかとか、あとは街の景気とか。魔王サマが視たものを要約して記録してる。記録しねえと忘れちまうだろ」

「そしてそれをお城の魔物たちに情報共有してるのかしら」

「そういうこと。あとこの城の管理記録とかな」

「ものすごく真面目に働いていたのね………」

「だから忙しいっつったろ」


 堕天使は私に丁寧に説明しながら棚から何かを取り出してきた。手のひらサイズの機械仕掛けの目玉みたいな物体を彼がつつくと、目玉部分から映像が立体で飛び出してきた。どこかの森の中で、緑色の魔物がうごうごしている映像だった。手を伸ばしてみても半透明のそれはもちろん触ることは出来なかった。


「ジオラマみたい」

「こんな感じで魔王サマから念写が送られてくんだよ。まとめるのも苦労するぜ」

「面白い」


 小さい頃に手先の器用な乳母がお人形用の小さな家具を作ってくれたのを思い出すわ。まあ、私はそれよりも外に遊びに行くような子供だったのだけど。映像を眺めていると、まもなく緑の魔物がはじけ飛んだ。

 もう、ああ……この世界はこんなのばっかりね。もっと平和なものが見たい。

 とりあえず映像が終了したので堕天使の手のひらから目線を上げると、奴とばっちり目が合ってしまった。ずっと私を見ていたらしい。


「な、なにかしら」

「いやあ、姫サマは何にでも興味津々なんだなあ。つまんない顔されると思ったんだが」

「そう? 面白いと思うけれど」

「へえ」

「それに、瞬間移動や羽根の速記とか……天使の能力はすごいのね」

「それは違う」

「えっ」


 急に堕天使の話す声色が低くなったので驚いて一歩後ずさる。いつの間にかいつものふざけたにやけ顔は消えて、冷めた目で見下ろされている。


「天界は古来の教えを教わったとおり忠実にこなす、不変が大好きな世界だからな。空の飛び方も、祈り方も歌い方も文字の書き方、話す言葉全部を寸分違わずに数千年続けてる連中さ。俺がいくら瞬間移動できて自動筆記したところでそれは規律違反の出来損ないなんだよ」

「そんな……」

「だから嫌気が差したんだよなあ」


 堕天使はどこか遠くを見つめてため息を漏らした。しまった。そんな気はなかったのに、過去の傷に触れることを言ってしまったらしい。


「訂正するわ。天使の能力ではなくて、貴方の能力がすごかったのね」

「気遣いすんなよ」

「別に生まれ育った場所だけが世界のすべてではないし、それでいいと思うわ。魔界ここでは重宝されてるし、私もすごいと思うし」

「……まあ、ここじゃいいようにこき使われてるだけだけどな」


 やれやれといった顔で苦笑する彼を見て、今まで感じていた苦手意識がほんの少しだけ和らいだ気がする。ほんの少しだけね。


「ま、ここは確かに居心地良いぜ。姫サマもそう思ってんだろ」

「……う」

「姫サマも姫君らしくねえからなあ。俺と似たニオイがすんのは気のせいかな」

「きょ、境遇は似てるかも」


 まあ、私もお城のお父様や大臣や姉様たちに「おしとやかに」「レディの心得」うんぬんを耳がたこができるくらい言われてきた。もちろん堕天使みたいに疎まれはしなかったけれど、私もはみ出し者なのは違いないわね。

 ……なんてぼんやり考えていたので油断した。そっと堕天使の顔が近づいてきて、その端正ながら意地の悪い笑い顔にはっとする。心底楽しそうな声でささやかれた。


「で、まだここから逃げ出したいって思ってんの?」


 いきなり言われたその言葉に、私の背中が凍り付いたのだった。



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