第5話 無邪気だけど物騒な


 不安はないと言えば嘘になってしまう。けれど私は生け贄にされるわけでも食料になるわけでもないらしい。また魔王の機嫌によって気軽に命を奪われる立場ではないことは先ほどの会話で理解した。なので今は少し心が落ち着いている。


 とはいえ油断はならない。私が幼いときから伝承として教わってきた魔界はとても恐ろしい場所だった。あの伝承の通りなら肉体的にも精神的にもあまり衛生的な場所ではなさそうだ。


 とりあえず、身動きひとつ取れない魔王の膝からどうにかしておりて、城内を探索する手立てを探さないと……難しい問題ね。

 こうして悩んでいる今も魔王は私の顔を覗き込んでいる。どうしよう。気まずいわ。


 改めて現在私がいる場所を眺めてみる。どうやらここは魔王の謁見の間のようだった。

 この部屋の中でも私たちがいる玉座は少し段差がある高い位置にあり、部屋全体を見渡すことができる。


「部屋が気になるのか」

「ええまあ……私がいたお城とは少し違うので」

「ほう?」


 お父様の謁見の間はもっときらびやかで見張りの騎士も多かった。けれどここは部屋の装飾どころか壁も色味のない殺風景で、私たち以外には誰もいない。

 この魔王の強さでは護衛などいらないから、後者は当然とも言えるけれどね。


「気に入らぬのか」

「そんなことはありませんわ」


 今では空気の悪さも気にならなくなってきた。理由は……あまり考えたくないので忘れることにした。

 意外なことに部屋も殺風景だけど不衛生なわけではなく、床や柱がきれいに磨かれている。

 どうやら魔王城には相当きれい好きの魔物がいるらしい。すると、


「魔王さま」


 姿は見えないけれど、確かに声が聞こえた。


「魔王さま、その方が姫さまですか」

「ああそうだ」


 幼い男の子のような可愛らしい声がするのに、一向に姿は見えない。魔王は特に気にすることもなくどこかに向かって話しかけている。


 私にだけ見えないのかしら。

 あんなに可愛い声なのに姿が見えないなんて残念ね。辺りをキョロキョロ見回していると、魔王と目が合ってしまった。


「どこを見ている」

「あの、どこから声がするのかと……」

「ああ。そんなに上ではない、床を這いずっている」

「え、這いず……?」


 不穏な言葉が聞こえて不安になる。おそるおそる目をやると、確かに何かがそこにいた。


「わあ! 初めまして姫さま!」

「え、ああ……んん……?」


 私たちのすぐそばの床で、ドロドロに溶けたゼリーのような物体がいた。半透明で薄水色のキレイなそれには目も口も何もない。

 それなのに確かにその物体から声が聞こえてくる。摩訶不思議な現象に私は首をかしげることしかできなかった。


 ――どうやって喋っているのかしら。


「スライムなのかしら」

「そうです! そうなんです!」


 スライムは声を弾ませる度に、自身もぷるぷると楽しそうに揺れている。これはこれで可愛らしいのかもしれない。


 私は久しぶりに毒気のなさそうな姿と声に安心する。先ほどまで魔王に喰われるか否かで悩んで胃が苦しくなっていたのが嘘のようだった。


「やっぱり姫さまは噂通り美しい方ですね魔王さま! もっと近くで見ても良いですか?」

「ならん。それ以上近付いたら貴様を燃やす」

「ええ!?」

「そんなあ」


 スライムだけではなく私まで驚いて声を出してしまった。そんなに目くじらたてる程のことかしら。


「貴様の体液が少しでも跳ねてみろ。姫の体は骨ごと溶けて蒸発するぞ」

「……」


 想像以上にただ事ではない理由だったので私は何も言葉が出てこなかった。


「大袈裟ですね魔王さまぁ、ちょっと皮膚がチリチリするだけですよぉ」

「人間と魔族を一緒にするな」


 魔王はさらに私の体を強く抱え込む。まるで魔王に取り込まれているかのように私の体が沈んでいった。

 いえ、それはあまりにも物騒な例えね。本当に取り込まれてはいない、たぶん。


「ほ、本当に溶けてしまうのですか?」

「試してみるか?」

「ひぃっ」

「冗談だ」


 冗談とも本気ともとれる顔で魔王は笑う。


「私は再生魔法や蘇生魔法も心得ている。もしお前が溶けてしまっても完治は可能だ」


 もはやどこから突っ込めば良いのか分からない。

 スライムの体液に恐怖すればいいのかしら。それとも、魔王という立場の者が回復や蘇生魔法を扱えることに恐怖すればいいのかしら。


 そういった魔法は神の加護が必要だったはずなのに……完全回復魔法持ちの魔王なんてどう頑張っても倒せる気がしない。

 まあ、そもそも私には魔王を傷一つ付けることなどできないのでしょうけど。

 深く考えていたら変な汗が滲んできた。


「ごめんなさい姫さま」

「えっ」

「怖がらせてしまいましたので」


 スライムは先ほどの私と魔王のやり取りを見て不安そうにぷるぷると揺れている。

 私が「そんなことないわ」と首を振ると、安堵したのかため息が聞こえた。


「でもこんな僕でも役には立っているんですよ! ウィルオウィスプたちと一緒にこのお城のゴミやホコリは燃やして溶かし尽くしてるんです!」

「なるほど……だからキレイなのね」

「えへへ」


 掃除方法はさておき、そのウィルなんとかさんとこの子が頑張っているおかげで魔王城は清潔に保たれているらしい。


「嫌ってなんていないわ。またお話しましょうね」

「わーい!」


 この子の体液がまだ壁や床に残っていた時に、もし転んで手を付いてしまったら……

 そう考え出したら止まらないので、私はとりあえず笑ってすべてを忘れることにしたのだった。


 ――なるべくおしとやかにお城は探索するべきね。


 ご機嫌なスライムに笑顔で手を振ると、少しだけ魔王が眉をひそめたのだった。

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