第3話 最初からとんでもない事態


「さて、もうすぐ魔界に到着する。その前に……」


 魔王が何か言っている。頭がぼーっとしてあまり聞き取ることは出来なかった。

 けれど……


「ふぐうっ!」


 まだ意識が朦朧としたままの私の口に突然何かが押し込まれた。その衝撃で私の意識は完全に覚醒する。


ひょっふぉ、ふぁひふんおお(ちょっと、なにするのおお)

「いいから飲み込め。いきなり死にたくはないだろう」

「んんんん!?」


 何を突っ込まれているのかと視線を落とすと魔王の素手だった。魔王の人差し指と中指が私の口にねじ込まれている。

 く、苦しい。喉の奥までねじ込まないで。


 とりあえず死にたくはないので吐き出さずに飲み込んだ。

 ……何も飲み込んだ感覚がないけれど。嫌だわ、何かの薬だったのかしら……


「よくやった」

「……?」


 これ以上ないほど上機嫌な声が聞こえて、私は不安になりながら顔を上げた。私の頭の真上に魔王の顔があり、目が合った。


 いつの間にか兜は脱いでいたようで、その顔が露わになっていた。先ほどまで私たち人間を震え上がらせていた憎き魔王は、想像以上にヒトに近い見た目をしていた。

 体温のなさそうな真っ白な肌に、漆黒の長髪が風になびいている。鋭く吊り上がった双眼は今にも私を喰い殺しそうなほど強く射貫くように見つめている。その瞳はまるで鮮血のようにあかい。

 目を反らすことができない。呼吸の仕方も忘れてしまったかのように上手く息を吸うこともできない。

 私はどうなってしまうの……?


 そこで何を思ったのか魔王はおもむろに先ほどの指二本を舐め始めた。まるで私自身が喰われているような感覚になって、血の気が氷点下まで下がる。


「これでお前は逃げられない」

「わあ……」

「ククク……そうこうしているうちに、ほら」

「えっきゃあ!」


 最後にぐにゃりと感覚が歪んで、徐々に視界や平衡感覚が正常に戻ってきた。


 ……目の前には禍々しい雰囲気の城が建っていた。

 ここは城の中庭なのか、見たこともない植物や何か冒涜的な見た目をした虫がのそのそと歩いていた。気持ち悪い。

 空は赤黒く濁っていて、どことなく空気も悪い。私は耐えきれず口を手で押さえた。


「私の城だが……なんだ、具合が悪いのか」

「う、空気が合わないのと……私、虫が苦手なのです」

「そうか。では早急に事を進めるとしよう」


 え、何を?

 そう私が言葉にするより早く魔王は転移魔法を放った。瞬時にどこか別の場所に転移したようだ。魔法が放たれた時の閃光で目がチカチカする。


「ここなら誰の目にも触れずに時間をかけられるな」


 先ほど見た魔王城の中だろうか、広い建物に私たちは立っていた。何かの祭壇なのか妙な台座が奥に見えたり、様々な種類の冒涜的な見た目をしたオブジェがそこかしこで仁王立ちしている。


 心なしかそれらが皆私を睨んでいるように見えるのだけれど……今にも動き出しそうで不安でしかたない。


 空気も依然悪いままで、薄暗く広い部屋に魔王と二人きり。見張るようにいくつものオブジェに睨まれて、心が落ち着かない。


 ――怖い。助けて、誰か。

 救ってくれる勇者などいない。いるはずがない。そんなことは分かりきっているのに。

 歯が噛み合わずガチガチと音が鳴り始めたところで、ふわりと視界が真っ黒になった。

 魔王に抱きしめられていると理解するのに数秒かかってしまった。

 本来ならば軽く握りつぶせるであろう私の体を傷つけないように、細心の注意を払って抱きしめていた。


「私はお前を傷つけるようなことはしない」

「ふ、ううっ……」

「落ち着け。まあ、無理な話か」


 まるで子供にするかのように私の頭をそっと撫でた。その仕草は「人間界を焼き払う」と脅してきた人物とは思えない。あまりの違いに困惑した。


「お前の具合が悪いのは人間だからだ」

「に、んげん」

「魔界の瘴気は人間には猛毒だ。吸えばたちまちに絶命する……が、先ほどここへ来る前に少しお前に処置をした。死にはしないが苦しいのだろう」

「……」

「もう少し手を打つとしよう」


 指を私の口に押し込んでいたのはどうやらその処置とやらだったらしい。理解はしたが納得しづらい。

 私が黙って魔王の話に耳を傾けていると突然魔王が自らの手に噛みついた。


「ええっ!」


 この魔王、行動が突拍子もなさすぎる。一瞬恐怖を忘れて素っ頓狂な声をあげてしまった。

 その声を特に気にする様子もなく魔王は血が滴るその手を私に差し出した。


 いやいや、どうして?

 どういうつもりなのか検討もつかない。とりあえず首をかしげてみる。


「魔族の血を取り込むと良い。我々にとって瘴気は毒ではないからな、応急処置という奴だ」

「それ本当に応急処置むぐっ」

「楽になりたかったら飲め。それしかないぞ」


 有無を言わさずまた手を口に突っ込まれた。勢いに負けて思わず嚥下えんげしてしまい、魔王の血を大量に飲み込んでしまった。


「ちょ、んん! んぐっ」

「一度飲んでしまったら二度も三度も変わりない。あきらめろ」

「んっ……」


 恐ろしいのか優しいのか手荒なのか紳士なのか。私は魔王の態度の変わりように頭がついていかなかったので、今日のところは理解するのはあきらめることにした。

 こうして一応手厚くのだから、すぐに命の危険に晒されることはない。と思いたい。


 そんな魔王はというと、私が最後の一滴を舐めとるまで手を離そうとしなかった。飲んだフリができないのがつらい。


「どうだ、楽になってきただろう」

「それは……あっ!」


 ドクン!!

 突然私の心臓が大きく跳ねて暴れ出した。体中の細胞が「異物だ」と警告している。だんだん脈は激しくなり、汗が私のこめかみを流れ落ちた。


「はあっ……ううっ……」

「そうか、まだ時間がかかるようだな。ククク……」


 ――騙された。嵌められたんだわ。楽になる方法でも応急処置なんかでもない、これは……


 また意識がもうろうとしてきて、体がふらつく。魔王に抱きかかえられて体が宙に浮くのを感じた。

 どんどん大きくなる鼓動と霞む視界の中、私は魔王の心底楽しそうな声を聞いたのだった。


「おやすみ、念願の……」


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