最後の謁見
横須賀海軍工廠にある大型ドック。そこでは来るべき『神龍』討伐戦に向けて、戦艦『大和』の大幅な改装工事が行われていた。
そのドックに隣接する工場の応接室で、近衛は帝国大学の教授、犬神博士と会談していた。
「あれが『大和』か……。いやあ、実に壮観な眺めじゃ。TVなどで何度も見たことはあるが、こうして実物を間近で見ると、あまりの巨大さに圧倒されるような気分じゃな」
まるで童心に帰ったように窓の外の『大和』を興味深そうに眺める犬神博士の様子に、近衛は苦笑寸前の表情を見せた。
「そんなに『大和』がお気に召したのならば、今度の横須賀海軍祭の時に一日艦長にして差し上げましょうか」
「本当かね」
振り返った博士の眼に半分以上本気の色が宿っているのを見て、近衛は慌てて発言を取り消した。
「冗談ですよ。本気にしないでください」
「何だ、冗談なのか」
「そりゃそうですよ。今年の海軍祭では、颯爽と『大和』の指揮を執られる皇女殿下がメインの花形とすでに決まっているんですから」
「それなら仕方がないのう。うら若き皇女元帥様を差し置いてわしのような九十近いよぼよぼの爺さんが一日艦長になどなったりしたら、それこそ怒り狂った見学者の手で簀巻きにされて東京湾に投げ込まれかねんわい」
博士はふぉっふぉっふぉっと独特の笑い声を上げたが、やがて真顔に戻って近衛に尋ねた。
「ところでその肝腎の皇女殿下の御様子はどうなのじゃ」
「医師団の懸命の治療の甲斐もあって、一週間前と比べるとかなり御元気になられたご様子ですが……」
「そうか……。しかしそれでも心身に負われた傷はまだ完治とは程遠い状況じゃろう。そのような御身体で連合艦隊を指揮してあの『神龍』と戦わねばならんとは……。実に御労(いたわ)しい限りじゃ」
「その『神龍』に対する対策なのですが……」
「わかっておる。そのためにわしが呼ばれてここまでやって来たのじゃからな。君に頼まれた物はすでに開発して、この横須賀基地まで運んできた。後は今改装中の『大和』に搭載すれば一丁上がりじゃ。しかし君も考えたものじゃのう。あの<セイレーン・システム>に対抗する術を思いつくとは……」
「まだ対抗できるかどうかはわかりませんよ。あくまで私が立てた単なる仮説に基づいて造っていただいた、いわばまだ実験段階にも達していないような試作品に過ぎませんし、そもそも仮説自体が間違っていれば、全く役に立たない代物となってしまいますから。本来ならば、とても実戦で使用できるようなものではないでしょう」
「単なる仮説というが、その仮説を思いつくところが、君がただ者ではない証拠じゃよ。現にわしも含めて、今まであのようなアイデアを思いついた人間は誰もおらなんだ。一体君はどうやってあの仮説にたどり着いたのかね」
「いや、まあ、そんな大したものじゃありませんよ。ただ、<セイレーン・システム>が出す特殊な波動、それが人間の耳には<歌>として聞こえる――つまり<きわめて音に近い波動>ではないかという、それこそ単なる思いつきから出たものに過ぎませんから……」
近衛がそう言った時、ドアをノックする音と共に若い士官の声が聞こえた。
「失礼します。先程、宮内省からお迎えの車が到着いたしました」
「そうか。いよいよ来たか」
かすかな緊張の色を見せて立ち上がった近衛に、博士が心配そうな顔で声をかけた。
「大丈夫なのかね。皇女殿下の体調はまだ万全とはいえまい。そんな状態で皇帝との謁見の場に出たりすれば、過去の忌まわしい記憶を思い出してフラッシュバックを起こすかもしれんぞ」
「大丈夫です。殿下はそんなにやわな御方ではありません。少なくとも私はそう信じています」
そう言い残すと、近衛は博士に別れの挨拶を述べ、足早に部屋を退出した。
「あら素敵、やっぱり皇女様は海軍元帥の正装がよく似合っておいでですわ」
着付けを手伝っていた見栄子の歓声に対し、薫子は鏡の前で首を傾げて見せた。
「そうかしら。でも女なのに軍服が似合うって少し変じゃない」
「そんなことありませんわ。だって殿下って日頃から剣道を嗜んでおられるせいか、いつも背筋がぴんと伸びて姿勢がよろしゅうございますし、それに何といっても身長が百七十cmもおありですから……」
「何よそれ。要するに私は女だてらに剣道なんかやってて、おまけに体がでかいから軍服が似合うって言いたいわけ?」
「いえ、決してそういうわけでは……」
「もう、冗談よ! 私がちょっと怒ったふりすると、すぐそうやって脅えるんだから」
「申し訳ございません」
「だから! 別に謝らなくたっていいって!」
大日本帝国の皇女と九条公爵家の令嬢が、まるで市井の女子高生のようにきゃあきゃあ騒ぎながらじゃれ合っていると、突然病室のドアをノックする音が聞こえた。
「誰?」
「連合艦隊参謀総長近衛犬麿少将、司令長官閣下の許可も得ず入室……」
「もう、それいいって! いいからさっさと入りなさいよ!」
近衛が神妙な顔つきで部屋に入ってきた。軽口とは裏腹のその硬い表情を見て、薫子はいよいよ来るべき時が来たことを直感した。
「申し上げます。司令長官閣下」
「いいわよ。用件は言わなくてもわかっているわ。皇宮からの使者が来たのね」
「はい、宮内庁よりお迎えの車が参りました。本日午前十時までに皇宮に参内せよとのことです」
「そう、わかったわ。では今すぐ宮殿に向かいましょう」
「本当によろしいのですか。まだ体調が完全に回復したわけではないのですから、ここはやはり代理として私が……」
「その気持ちはありがたいけど、でも私は連合艦隊司令長官として、皇帝陛下の勅命を直々に承るために宮中に参内するのです。私自ら赴かねば、陛下に対して非礼に当たりましょう」
「でも皇女殿下……」
早くも心配顔で涙ぐみ始めた見栄子を見ると、薫子は小柄な彼女の頭に手を置いてぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回した。
「もう、そんな風にめそめそしないで。大丈夫、だって私はこれでも大日本帝国の第一皇女様、皇帝陛下の御姉様なんだから。単に姉が弟に会いに行くだけなんだから心配することなんか何もないわよ」
ことさらに明るく振舞う薫子の姿を見て、その場に居合わせた女性看護師の一人が見えないようにそっと涙をぬぐった。
「じゃあ、行ってくるわね」
そう言い残すと、薫子は病室を出て、医師団や看護師、それに連合艦隊司令部の将官、士官たちが見守る中、病院の玄関前の車止めに停められていたセンチュリーに乗車した。
薫子を乗せたセンチュリーの運転手がドアを閉めようとしたその瞬間、近衛が滑るような素早い動作で、ドアが閉まるより早く、薫子と同じセンチュリーに乗り込んだ。
助手席に座っていた皇宮警察の護衛官が抗議の声を上げるより早く、近衛はにこやかな笑顔を浮かべて言った。
「いや、実は今回の作戦の件で冷泉軍令部総長と打ち合わせるのを忘れていた点があってね。すまないが、私も一緒に皇宮まで乗せていってもらえないだろうか」
護衛官は困惑の表情を見せたが、相手は連合艦隊の参謀総長で、しかも近衛公爵家の当主である。しぶしぶながらも応じざるを得なかった。
「またそんな嘘ついて……」
「嘘じゃありませんよ。軍令部総長に用件があるのは本当ですから」
呆れ顔をする薫子と一緒に後部座席に肩を並べながら、近衛は平然とうそぶいた。
こうして、薫子と近衛を乗せたセンチュリーは、前後を皇宮警察の警備車両に護衛されつつ、横須賀基地を出発して、帝都の方角へと走り去っていった。
帝都の中心部――帝国の司法、立法、行政及び軍事を司る重要施設の数々に囲まれた、三百万㎢を越える広大な敷地の中に建つ、古来より帝王の象徴とされてきた鳳凰の形状を模した宮殿、それが大日本帝国皇帝の居城――通称<大皇宮>であった。
宮殿の正門から謁見の間へと続く長い廊下を歩いていた薫子と近衛は、十二枚目の扉をくぐったところで儀仗兵に呼び止められた。
「失礼ですが、近衛様はここまでで御遠慮ください。謁見の間に呼ばれていらっしゃるのはあくまで皇女殿下ただお一人ですので」
「いや、しかし私は軍令部総長にお話が……」
「軍令部総長閣下ならば『松の間』でお待ちでございます。そちらの方まで私どもが御案内いたしますので」
「しかし……」
「いいのよ、大人しく言われた通りにしなさい」
薫子の言葉に近衛は心配そうな表情を見せた。
「私は大丈夫、それより自分のことを心配しなさい。皇帝はたとえ私を殺せなくても、あなたのことは殺そうと思えばいつでも殺せるのよ」
「……承知いたしました」
近衛が恭しく一礼しようとしたその時前を向いていた薫子が突然真紅のマントを翻しながら後ろを振り返り、そして軽く背伸びをして、近衛の頬にそっと口づけをした。
「今まで本当にありがとう」
たった一言、そう言い残して足早に遠ざかっていく薫子の後ろ姿を、近衛は呆然と立ち尽くしたまま、ただ声もなく見つめていた。
「海軍元帥、連合艦隊司令長官、桜宮薫子内親王殿下」
式部官の声と共に、謁見の間の重厚な鉄の扉がゆっくりと開かれた。
薄暗い大広間の中、各省庁の大臣、長官たちが中央に敷かれた長い赤絨毯を挟んで立ち並んでいる。
そしてその奥、黄金と宝石で飾られた豪奢な玉座には、皇帝が鎮座し、陰険かつ冷ややかな眼つきでこちらを見すえていた。
その右手には王笏が握られ、左手は何か金属でできた細長い銀色のリング状の物体を弄んでいる。
そして、皇帝の傍らには侍従長の金城が影のごとく寄り添うように佇立していた。
薫子は重臣たちが無言で見つめる中、赤絨毯の上をまっすぐ進むと、皇帝の前で跪いた。
「連合艦隊司令長官、桜宮薫子、君命を受け、参上仕りました。皇帝陛下より拝謁の栄を賜り、恐悦至極に存じ奉ります」
「大儀である、と言いたいところだが、あれだけの目に遭って、よくぞ余の前に再び現れる気になったな。その勇気というか、神経の図太さだけは誉めてやろう」
皇帝の口元に冷笑が浮かび、その眼に、まるで無力な小動物をいたぶるような嗜虐的な光が宿った。
「すでに勅命の内容は存じていようが、改めて命を下す。連合艦隊の残存艦隊である第一、第四、第五艦隊を率いて『神龍』を討伐せよ。帝国海軍の総力でもって今度こそあの<怪物(クラーケン)>を太平洋の藻屑と変えてやるのだ、よいな」
「ははっ」
薫子は床に額をつけて深く拝礼した。
「では正式に勅書を下すが、その前に一つ確認しておきたいことがある」
「何でございましょうか」
「そなた、今でも余に忠誠を誓っておるか」
薫子は思わずはっと顔を上げて皇帝の顔をまっすぐに見つめた。
「今さら申し上げるまでもありません。私は陛下の忠実な臣下でございます」
「ほう、ならばその証を見せてもらおうか」
そう言うと、皇帝は左手で弄んでいたリング状の物体を無造作に薫子の眼の前に放り投げた。
「そのリングには特殊な装置が仕込まれてあってな。余の王笏から放たれる特殊な電波を感知すると、一万ボルト以上の高圧電流を発生させる仕掛けになっておる。余に対する忠誠の証として、それをそなたの首にはめよ。文字通り、そなたに対する余の<首輪>だ」
「…………」
薫子は自分の眼前に転がっている<首輪>をじっと無言で見つめていたが、やがてその眼から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……あなたは、まだこんな物で人を縛ろうとなさるのですか」
「何だと」
「あなたは大日本帝国の皇帝なのでしょう。世界一の超大国の絶対君主なのでしょう。この世で最も強大な権力と武力、さらには<支配の魔眼>という超能力まで持っておいでなのに、何故今さらこんな道具で、無力な<ただの女>に過ぎない私を縛ろうとなさるのです? あなたはそこまで私を、いえ、人を信じられない御方だったのですか」
「何が無力なただの女だ。この地上でただ一人、余を玉座から押し倒して殴りつけようとした女のくせに」
皇帝が憎々しげな口調で吐き捨てた。
「私があなたに暴力を振るったことがそこまで許せないのですか」
「それだけではないわ。第一艦隊がクーデターを起こし、一時帝都を占拠したのも元をただせばそなたが原因であろう。どうも余が見る限り、連合艦隊の将兵は皇帝たる余よりもそなたの方に忠誠を誓っておるようだな」
「いえ、そんなことは……」
「今にして思えば、そなたを連合艦隊の司令長官に任じたこと自体が失敗だったやもしれぬが、そんなことを今さら悔いたところで仕方がない。たとえ連合艦隊の将兵ども――そう、近衛あたりがまたよからぬことを企てようとも、そなたの生殺与奪の権さえ握っておけば手も足も出ようまい」
「つまり、これは連合艦隊の将兵たちに対して、私を改めて『人質』とするための道具というわけでございますか」
「嫌だというのならば別に構わんぞ。それならそれでまた別の手段を考えるまでのことだし、そもそもそなたを服従させる方法など他にいくらでもあるのだからな」
「私は……私はもうあなたに完全に服従しています!」
ついに堪えきれなくなって薫子はその場に泣き崩れてしまった。
「私はあなたによって身も心もこれ以上ないというぐらい傷つけ、辱められ、そして汚されてしまいました……。正直言って、あなたを憎むことができればどんなに楽になれることでしょう。でも私にはできない……。どうしてもあなたを憎むことができないのです。何故だか、あなたにはおわかりになられますか……」
「…………」
冷然たる皇帝の眼に一瞬、疑問と動揺の色が浮かんだ。
「何故なら、私はもう縛られてしまっているからです。あなたと……。そう、産まれた時から……。こんな<首輪>を用いずとも、<支配の魔眼>のような超能力を用いずとも、すでに私とあなたとは血の繋がった姉弟という絆で――」
「黙れ!」
突如皇帝が激昂して玉座から立ち上がった。
「この期に及んでもまだそうやって姉貴面をするつもりか! そういうところが鬱陶しいんだ!」
皇帝の両眼が燃え上がる炎のごとく真紅に光り輝く。次の瞬間、薫子は凄まじい悲鳴を上げて床の上をのたうち回った。
「何が姉弟の絆だ、笑わせるな。貴様だけは殺すまいと思っておったがもはや余の忍耐も限界だ。貴様の言う姉弟の絆など今この場で断ち切ってくれよう。全身を地獄の業火に焼かれ、生きたまま火炙りにされる苦痛を味わいながら死ね! 死んでゆけ!」
「おやめください!」
突然、謁見の間に居並んでいた重臣たちの列から一人の男が飛び出し、皇帝と薫子の間に両手を広げて立ちはだかった。
「そこをどけ! 西園寺! 貴様、邪魔立てをする気か!」
「いいえ、どきません! たとえ陛下の逆鱗に触れようとも、私めは一歩もここをどきませんぞ!」
西園寺海軍相は決死の表情を浮かべながら叫んだ。
「たとえ陛下が何とおっしゃろうとも、陛下と皇女殿下は血の繋がった御姉弟であることに変わりはございません。そもそもこの世において、血を分けた兄弟同士が互いに相争い、傷つけ合うことほど無残なものが他にございましょうか。今のこの光景を、亡き先帝陛下や皇太后陛下が御覧になられれば何と思し召しあそばすか、少しはそのことをお考えくだされませ。御自分の肉親さえ信じようとせず、ただいたずらに力と策をもって従わせようとなさるなど、およそ名君たる御方のなさることではありませんぞ!」
「おのれ、よくもこの余に対して説教がましい口を……! 肉親だの何だのとほざくが、貴様にも確か可愛い娘や孫が何人かいたはずだな」
皇帝の眼にひときわ激しい怒りの炎のような真紅の光が燃え上がった。
「私の娘や孫などどうなっても構いません。たとえ今、この場において私の一族全員が目の前で惨殺されようとも、私はここを一歩もどきませんぞ。私にとっては皇帝陛下も皇女殿下もどちらも大事な主君でございます。その主君を御守りすることこそ私にとっての大義。その大義のためならば、私や家族の命など喜んで投げ捨てましょう。ですので、どうか、どうか、この場は矛をお納めくださいませ。この西園寺、一世一代のお願いでございます」
「ほう、余とその女、『どちらも大事な主君』と申すか……」
皇帝の眼から真紅の光が消え、怒りを押し殺すような声がその口から洩れた。
「よかろう。貴様の顔に免じてその女の命だけは助けてやろう。ただし条件がある。西園寺、貴様の手でその女に<首輪>をはめよ」
「何と、まだそのようなことを……」
「どうした。また『どちらも大事な主君』だからできぬと申すつもりか。だが『どちらも大事』とはいっても当然そこには優先順位というものがあるはずだ。西園寺、貴様にとって余とその女、『どちらが大事な主君』だ?」
「それは……」
「どうした。答えてみろ。それとも答えられぬか。『どちらも大事な主君』といえば聞こえはいいが、要は貴様は余とその女、両方に対して二心を抱いているだけではないのか」
「な……そんな……滅相もない」
「ならば貴様自身の手でその女に<首輪>をはめろ。貴様にとって『どちらが大事な主君』かをはっきりさせるためにな」
皇帝の眼に再び煉獄の劫火のような光が宿り、爛々と輝き始める。西園寺はその眼光に圧倒されるように息を呑み、後ずさりした。
その時――
「もう……おやめください……」
弱々しい少女の声がその場にいた者たちの耳朶に響いた。
床に倒れ伏していた薫子がゆっくりと体を起こし、そしてかすかに震える声で西園寺に命じた。
「西園寺、皇帝陛下のおっしゃるようになさい。私にその<首輪>をはめるのです」
「しかし……」
「早くなさい! これは皇帝陛下の御命令ですよ」
西園寺は今にも泣き出しそうな顔で床に倒れている薫子の姿を凝視していたが、やがて「申し訳ございません」と蚊の鳴くような小声でつぶやくと、震える手で薫子の細い頸部に<首輪>をセットした。
恐ろしいまでの沈黙が支配する中、まさに首輪を繋がれた犬のように惨めな格好で床にうずくまっている薫子を見下ろして、皇帝は乾いた笑い声を上げた。
「いいぞいいぞ。やはり『自分の姉』でさえもこうして犬のごとく扱う。これこそまさに真の帝王にだけ許された悦楽というものであろう。さて、余も久しぶりに存分に楽しませてもらったことだし、このへんで解放してやろう。ほら、これが勅書だ。持っていけ」
皇帝がまるで犬に餌でもやるような手つきで勅命を記した巻物を放り投げた。
薫子は目の前に投げ出された勅書を無言で見つめていたが、やがて何かを決意したかのように決然と面を上げると、玉座の上から傲然と自分を見下ろしている皇帝の顔を直視した。
「出陣の前に一つだけ陛下にお願いしたき儀がございます」
皇帝が顔をしかめた。
「何だ今さら。余に対する恨み言でもほざくつもりか」
「いいえ、出陣の前に、どうか陛下の……陛下の御手を少しだけでもよいので握らせていただけませぬでしょうか。どうか、私の最後の願いと思ってお聞き届けくださいませ」
「余の……手をだと……」
皇帝は怪訝そうな表情で傍らの金城の方を見やったが、金城が無言でうなずくと仕方がないといった風に小さくため息をついた。
「一体何を考えているのやら知らぬが、そなたも一応これから死地に赴く将帥だ。一つぐらい願い事を叶えてやろう。ほれ」
まるで犬にお手をするような動作で皇帝が右手を差し出した。
薫子は跪いたまま、玉座の近くまでにじり寄ると、皇帝の手を取り、その掌を、まるで幼子の手を慈しむかのように涙を流しながら自分の頬にそっと押し当てた。
「ああ……なんて冷たい手……でもとても柔らかな手……。こうやって直に手を触れてみて、あなたがどんな人間か、そして今までどんな思いで、どんな人生を歩んでこられたのか、少しはわかったような気がいたします……。あなたのこの冷たくも柔らかい手を、誰か一人でもいいから温めてくれるような人がいたら……。いえ、本来ならば、私があなたに対しそうするべきだったのでしょう。私がお父様やお母様からいただいた愛情や温もりを、少しはあなたにも分けて差し上げれば……。今さら、今さらこんなことを言ってももう遅すぎるのでしょうけれど……」
やがて、薫子は皇帝の手を離すと、涙を流すのをやめ、それまでとは打って変わった毅然とした表情で再び玉座の前に跪いた。
「私の僭越な願いを聞き入れていただきまことにかたじけなく存じ奉ります。皇帝陛下の御恩に報いるため、不肖の身ではございますが、栄えある連合艦隊司令長官として、この一命に代えてでも必ずや帝国に仇なす朝敵『神龍』を討ち果たして参りましょう」
そう言い残すと、薫子は勅書を手に取り、強張った表情で無言のまま自分を睨みつけている皇帝に背を向け、傷ついた身体を引きずるような足取りで粛然と謁見の間を去っていった。
謁見の間から出ると、薫子は急に全身から力が抜け出るような気がした。思わずその場に倒れ込みかけた彼女の身体を誰かが受け止めた。
「大丈夫ですか、司令長官閣下」
耳元でささやく近衛の声が聞こえ、その意外な腕の力強さと体の温もりを感じた瞬間、薫子の眼から再び涙が溢れ出そうになった。
「よく頑張りましたね。でももう御安心ください。私がそばについていますから。さあ、一緒に医務室に参りましょう」
薫子は辛うじて感情を自制しながら答えた。
「いいえ、大丈夫よ。ちょっと立ち眩みがしただけ。そんな、医者に診てもらうほど大したことじゃないわ」
「しかし……」
「大丈夫ったら大丈夫。それよりいつまで私をこうして抱き締めておくつもりなの。これでも私はこの帝国の皇女様なのよ」
「あ……こっ……これは失礼いたしました」
近衛が慌てて薫子から身体を離した。薫子はそんな近衛の様子を見てかすかに微笑んだが、すぐに両足に力を入れ、背筋を伸ばし、真剣な表情で近衛をまっすぐ見つめた。
「近衛参謀総長、皇帝陛下から正式に勅命が下りました。これより私は『神龍』討伐のため、第一艦隊を率いて出撃します。作戦の立案・実行は全てあなたに任せますが、よろしいですね」
「はっ、お任せください。以前お約束した通り、必ずや閣下に勝利をもたらして御覧に入れましょう」
近衛もまた真剣な表情で応じると、姿勢を正して薫子に向かって敬礼した。
一方、薫子が去り、大臣たちも去った謁見の間では、皇帝が玉座に座ったまま、陰険な眼つきで自分の右手の掌を見つめていた。
「金城」
皇帝が傍らに控えていた金城に不機嫌そうな声で呼びかけた。
「はっ」
「そなた、ハンカチを持っておるか」
「はい、どうぞ、お使いくださいませ」
金城が黄色いハンカチを差し出すと、皇帝はまるで汚い物でも拭うかのように顔をしかめながら、ハンカチで自分の右手を入念に拭った。
「あの女、一体何を考えておるのだ。いきなり余に手を出せと言ったかと思うと自分の涙をべたべたとなすりつけおって……。見ろ、おかげで手が汚れてしまったではないか」
「それは、陛下に対する皇女殿下のせめてもの愛情表現でございましょう」
「愛情表現だと」
皇帝の声が険しさを増した。
「何が愛情表現だ。事もあろうに余の手にこんな汚い体液を塗りつけおって。正直言ってあの女があんな気色悪い性癖を持った痴女だったとは思わなんだぞ。やはりさっさと殺しておくべきだったわ!」
「それは、いささかお言葉が過ぎるのでは……」
金城が諫めると、皇帝は不快そうにフンっと鼻を鳴らした。
「それより、第一艦隊の予定航路はすでに判明しておるか」
「はっ、艦隊に潜入させた錦衣衛の諜報員の内偵によりますと、第一艦隊は横須賀を出港後、小笠原諸島及びマリアナ諸島を経て、トラック島にて第四、第五艦隊と合流する予定です」
「左様か。ではその情報を世界各国の諜報機関及び帝国各地で抗日活動を行なっているテロ組織や武装集団にわざと流してやれ。あと、第一艦隊は連合艦隊司令長官が自ら指揮を執っているという情報も併せてな」
「しかしそれでは第一艦隊がトラック島に到着する前に奇襲を受ける可能性が……」
「わからんのか。それが目的だ」
皇帝が陰険な眼で金城を見やる。
「『神龍』とて何も単独で我が帝国と戦っておるわけではあるまい。アメリカという後ろ盾を失っても、奴らに情報提供や補給面で協力している組織は他にあるはずだ。そうした組織に情報を流せば、必然的に『神龍』にも伝わるはずだ。ましてや連合艦隊司令長官自ら出馬してきたとあれば、奴らは必ず喰らいついてこよう」
「まさか、皇女殿下の身を囮になさるおつもりでございますか」
「ふん、あんな女が今さらどうなろうが知ったことか。それよりほら、これを見ろ。先程の謁見式の直前に『七三一機関』から送られてきた密奏だ」
そう言って皇帝は一枚の文書を金城に見せた。
「かねてから命じていた<クローン人間>の開発にとうとう成功したらしい」
金城の目が驚きで見開かれた。
「では、いよいよ……」
「そうだ。余は幼少の頃より数々の人体改造や遺伝子工作を受け、常人を超越した<ホモ・デウス>となったが、その代償として生殖能力を失った。それ故に、皇統を継ぐ子孫を残すための、言わば『産む機械』としてあの女を今まで生かしておいたが、クローンの開発に成功した以上、その必要もなくなった。たとえ余が死んでも余のクローンが皇位を継ぎ、そのクローンが死んだ後も、また別のクローンが後を継ぐ」
「いわゆる真の<万世一系>の実現というわけですか」
「そうだ。全世界を制覇した後の大日本帝国の皇帝及びその皇族は、人類よりもさらに優れた、より高次元の存在でなければならぬ。そういう意味でも<ただの人間>に過ぎないあの女の存在価値はもうなくなった。ならばせめてよき死に場所を与えてやるのが慈悲というものであろう。それに『神龍』を倒せば太平洋の覇権は完全に我が手に落ちる。そうなった時、一千隻もの連合艦隊は無用の長物と化す。来るべきドイツとの最終決戦の主戦場となるのは北はシベリアから南は中東に至るユーラシア大陸中央線――つまり、海ではなく陸だ。強大な陸軍を持つドイツに対抗するために、我が帝国も早急に陸軍力を増強させねばならぬ。そのためには、これまで海軍に優先的に振り分けていた軍事費を陸軍に回す必要がある。だが、そうなると必ずや海軍は頑強に抵抗するだろうし、下手をすればクーデターや内戦になりかねん」
「つまり、『神龍』を利用してあえて連合艦隊を壊滅させるおつもりでいらっしゃるのですか」
「まさか、さすがにそこまでは期待しておらぬ。いくら『神龍』が<セイレーン・システム>を搭載した超兵器とはいえ、所詮はたかが潜水艦一隻。戦えば戦うほど消耗し、いずれは力尽きる時が来よう。ただ、それまでに一隻でも多くの船を沈めてくれればそれだけ後の仕事が楽になる。何せ海軍というのは陸軍以上に縮小するのに手間がかかるし、例えば原子力機関を搭載した戦艦や空母を廃船・解体するだけでも膨大な費用と労力がかかるからな。いずれにせよ、どちらが勝とうが負けようが、余にとって損にはならぬわ」
そう言い終えると、皇帝は手に持っていたハンカチを金城の足元に放り投げた。
「そのハンカチは処分しろ。あの女の体液が染みついたハンカチなど、たとえ洗ったところで二度と使う気にもならぬわ。そんな不潔なもの、燃えるごみと一緒に捨ててしまえ」
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