自壊する帝国 悲愴なる世界

 目を覚ますと、そこは薄暗い陰惨な錦衣衛の牢獄ではなく、暖かい柔らかな光と清潔感に満ちた部屋だった。

「あら、お目覚めになりましたのね」

 声が聞こえた方を見ると、看護師の制服を着た若い女性が立っていて、朗らかな笑みを浮かべた。

「ここは……」

 上半身を起こそうとした瞬間、全身に激痛が走り、薫子は思わず呻き声を上げてしまった。

「御無理をなさってはいけませんわ。お医者様の話では、まだしばらく安静になさる必要がおありとのことでしたから……。それより近衛様を呼んでまいりますね。殿下が目をお覚ましになったらすぐにお知らせするように仰せつかっておりますので」

 看護師が病室を急ぎ足で出て行き、そして近衛を伴って戻ってきた。

「連合艦隊参謀総長近衛犬麿少将、司令長官閣下の許可も得ず入室させていただきます。どうか御無礼をお許しください」

 そう言って敬礼する近衛の姿を見た途端、眼から涙が溢れ出そうになり、薫子は慌てて白いシーツを頭からすっぽりかぶって、壁の方を向いた。

 空気を察したように女性看護師がそっと病室から出て行く。近衛はベッドの傍らに置かれた小さな丸椅子に座ると、壁の方を向いたままの薫子の背中に優しく声をかけた。

「さぞ、御辛い目に遭われたことでしょう。よくぞ御辛抱なされました……。そして、よくぞ我々の元に帰ってきてくださいました。もう何年も、何十年も、殿下と再びお会いできる日をお待ちしていたような気がいたします……」

「…………」

「でも、もう御安心ください。ここは横須賀の基地内にある海軍病院です。基地の周囲は一万隻以上の軍艦と五万の海兵隊が警護しております。もうあの悪逆非道な皇帝には指一本たりとも殿下に触れさせません。皆、貴女のためならば喜んで死ぬ覚悟でおります」

「……言わないで……」

「え?」

「お願いだから皇帝陛下のことを悪く言わないで……。あれでも……あの子は私の弟なの……」

「殿下……」

近衛は絶句した。と同時に、言い知れぬほど深い悲しみを感じた。

――あれほど酷い目に遭わされたにもかかわらず、まだこの御方はあの皇帝を「弟」とお呼びなさるのか……。

 大日本帝国の皇帝と皇姉――本来ならばこの世で最も華麗で幸福な姉弟であるべきはずなのに、この世にこれほどまでに残酷な絆で結ばれた姉弟が他にあるだろうか……。

 さすがの近衛もどう言葉をかけていいかわからず、ただ無言のうちにシーツをかぶったまま声を殺して忍び泣く薫子の震える背中をじっと見つめるしかなかった。

 その時、ドアをノックして先程の看護婦が入室してきた。

「お話し中にすみません。近衛様に基地司令部からの連絡がございました。宮内省から近衛様宛ての通信が届いているそうでございます」

「宮内省から? 相手は誰だ」

「金城侍従長様からでございます」

「侍従長殿から……。わかった、出よう。皇女殿下、申し訳ございませんが、しばらく席を外させていただきます」

 近衛は薫子に向かって一礼すると、静かな足取りで病室を出た。


「皇女殿下に今すぐ宮中に参内しろですと!? 冗談を言うにも程々にしていただきたい」

 司令室に近衛の怒りに満ちた声が響き渡り、その場にいた幕僚や士官たちが一斉にはっと振り向いた。

「お怒りは御最もです。私も皇帝陛下をお諫め申し上げたのですが、今は一刻も早く『神龍』を討伐することこそ、最優先の課題であると頑と主張なさってお譲りになられず……」

「皇女殿下は心身ともに深い傷を負われて、ただ今絶対安静の状態です。完治するまでには少なくとも一ヶ月はかかるでしょう。であるにもかわらず、今すぐ連合艦隊を率いて『神龍』討伐に向かえとでもいうのですか。そもそも殿下にあんな傷を負わせたのは一体どこの誰だと思っているんですか!」

 普段滅多に感情を露わにしない近衛が激情を発する光景を、通信画面の向こうの金城は苦渋に満ちた表情で見つめていた。

「ともかく、あと二週間、いや、せめて一週間だけでもお待ちいただけるよう皇帝陛下にお伝えください。今の皇女殿下は立って歩けるような状態ですらないのです。それでも皇帝陛下がどうしてもと仰せならば、私が殿下の代わりに艦隊を率いて出撃します。ですからどうか一週間だけでも……」

 必死の形相で訴える近衛の言葉を金城は苦渋の表情のまま黙って聞いていたが、やがて、静かに口を開いた。

「わかりました。あなたがそこまでおっしゃるならば、私も自らの職権をかけてでも、皇帝陛下を説得いたしましょう。聞き入れていただけるかどうかは残念ながら確約いたしかねますが……」

「お願いいたします」

 近衛は床に頭をつけんばかりに深々と頭を下げた。

 金城からの通信が切れた途端、司令室にいた一人の若い士官が、すぐそばにあった椅子を大きな音と共に蹴り上げ、壁やロッカーを片っ端から拳で殴り始めた。

「何が今すぐ出撃しろだ! ふざけるな! 皇女殿下を――自分の姉君をあんな目に遭わせておきながら、まだそんなことを抜かすか! 一体どこまで殿下を苦しめれば気が済むんだ、あのクソ皇帝め!」

「やめろ、落ち着け!」

 周囲の士官たちが慌てて止めに入る。

「放せ! もう我慢がならん! 今すぐ皇宮に行ってあの性悪小僧を一発ぶん殴ってやる! そうでもせんと気が収まらん!」

「やめろ! 正気か! 相手はあれでも皇帝だぞ!」

「皇帝だからどうした! 俺はこう見えて柔道五段だぞ!」

「五段だろうが六段だろうが柔道で倒せるような相手か! そもそも錦衣衛や近衛師団が周りを固めているのにどうやって皇帝の元までたどり着く気だ!」

「そんなことはどうでもいい! もうこんな国であんな皇帝に唯々諾々と従い続けるぐらいならば、死んだ方がましだ!」

「黙れ!」

 鋭い叱責と共に誰かが暴れ回る士官の頬を殴りつけた。

「近衛参謀総長……」

 若い士官は暴れるのをやめ、呆然として自分を殴った相手を見つめた。

「猪熊中尉、今の発言を取り消せ」

「…………」

「どうした、何故黙っている。これは参謀総長としての命令だ。今の発言を取り消せ。さまなくば不敬罪で貴官を今この場でもって銃殺刑に処す。それでもよいのか?」

 猪熊中尉が開き直ったようにきっと眼をむいた。

「そうですか。では銃殺刑にしてください。自分は何も間違ったことは……」

「馬鹿者!」

 近衛が再び中尉を殴りつけた。

「……私が先程、皇女殿下の御見舞いに参ったことは貴官も知っているだろう。私もその時、殿下の前でうっかり皇帝陛下に対する不敬な発言を口にしてしまった。その時、皇女殿下が何とおっしゃったと思う」

 近衛の声がかすかに震えた。

「お願いだから皇帝陛下のことを悪く言わないで……。あれでも……あの子は私の弟なの……。そう殿下はおっしゃられたのだ……」

「…………」

「わかるか……。皇帝から死ぬよりも辛い辱めや虐待を受けたにもかかわらず、それでもなお皇女殿下は……あの御方は皇帝のことを『弟』とお呼びなさるのだ……。御自分の弟君として……必死で愛そうと努めておられるのだ……。その殿下の御心が貴官にわかるか!」

「…………!」

 近衛の叱責を受けた猪熊中尉が突然声にならない声を上げてその場に泣き崩れた。他の士官たちも皆一様に、抑えきれぬ涙で頬を濡らしていた。

 横須賀海軍基地の司令室に、世界最強と恐れられる帝国海軍の男たちが男泣きに泣く声が静かに響き渡った。


「そう、皇帝陛下が私に『神龍』を討伐せよと……」

 ベッドの背もたれに上半身をもたれさせかけた状態で薫子は小さな声でつぶやいた。

「申し訳ございません。我々の力不足のために、殿下に再びあまりにも重すぎる使命を背負わせるようなことになってしまい、まことに面目もございません」

 そう言って近衛はベッドの傍らに跪き、目を伏せた。

「確かに今の私には重すぎる使命ね。でもいいの。陛下がそれをお望みならば、私は『神龍』と戦いましょう」

「殿下……」

「わかっているわ。相手は第三艦隊だけでなく第二艦隊さえも破った強敵。私なんかじゃ万に一つも勝ち目がないってことぐらい……。でも、陛下のために少しでもお役に立てるのならば、この命、喜んで投げ出しましょう。そのぐらいの覚悟はもうできているわ」

「何をおっしゃいますか! お戯れを申されまするな!」

 近衛が血相を変えて叫んだ。

「戯れなんかじゃないわ。私は本気よ」

「失礼ながら、それがお戯れだというのです。そもそも貴女がもし戦場でお斃れになったりすれば、貴女を命懸けで皇帝の手からお救い申し上げた兵士たちの立場はどうなるのです。彼らの思いを、流した血を無駄になさるおつもりなのですか」

「それは……」

「それに殿下はもう一つ大きな思い違いをなされておいでです。『神龍』に対して万に一つも勝ち目がないという思い違いを……」

「だって事実じゃない。この私に勝算なんて……」

「あります。勝算はあります。それはこの私です。私が殿下のお側についている限り、相手が『神龍』であろうが誰であろうが、決して殿下を敗北の憂き目になど遭わせません。必ずや勝たせて御覧に入れます」

 薫子は思わず近衛の眼をまっすぐ見つめた。

「それ、本気で言ってるの?」

「もちろんです。こう見えて私は今まで嘘や冗談など一度も申したことがない人間ですから……」

 大真面目にそう答える近衛の顔を薫子はまじまじと凝視していたが、やがてぷっと吹き出すと、堪えきれなくなったようにお腹を抱えて笑い出した。

「何が今まで嘘や冗談など一度も申したことがないよ。クソ真面目な顔してよくそんなことが言えるわね。それこそ私が今まで聞いた中で最大のジョークだわ!」

 それは、近衛が久しぶりに聞く、薫子の笑いだった。


 眼が覚めると、そこは白い壁や天井で囲まれた、小さな病室のような部屋だった。

「気がついたか……」

 声が聞こえた方を振り向くと、ベッドの傍らに神が座っていた。

「ここは……」

「『安全な場所』とだけ答えておこう。大日本帝国の皇帝がどんなに強大な力を手にしていようとも、この世界にはまだまだ奴の眼が届かぬ場所はいくらでもあるからな」

「皇帝」という単語が出た瞬間、<セイレーン>の眼にかすかな恐怖と脅えの色が浮かんだのを神は見逃さなかった。

「コウタイシサマ……」

 神が小声でつぶやくと、<セイレーン>はびくっと肩を震わせ、明らかに動揺の様子を見せた。

「今のお前にこんなことを訊くのは酷かもしれんが、それでもあえて訊く。<コウタイシサマ>というのは今の大日本帝国の皇帝のことだな」

「…………」

 長い沈黙の後、<セイレーン>はかすかにうなずいた。

「俺が知る限り、皇太子時代の皇帝は産まれてから即位するまで一歩も皇宮の外を出たことがないし、一般の日本人にもその存在だけが認知され、それ以外の情報はほとんど知らされていなかった。ましてやお前はその当時、ユダヤ人のゲットーや研究所に隔離されていたはず。そのお前が何故皇帝の存在を感知しただけであそこまでパニック状態になり、そして奴のことを<皇太子様>などと呼ぶ。ひょっとして、お前は即位する以前の皇帝に会ったことがあるのか」

「眼……」

「何?」

「……眼を……見せられたの……。一度だけ……立派な宮殿のような建物の地下にある、大きな暗い部屋に連れて行かれて……そこで……<コウタイシサマ>の眼を……。とても……とても怖い眼……真っ赤に燃える火の玉のような眼……」

「真っ赤な火の玉のような眼……。何だそれは?」

「わからない……。でも<コウタイシサマ>や周りの大人たちは<シハイノマガン>って呼んでいた……」

「シハイノマガン? ひょっとして、シハイというのは人を支配するという意味で、マガンというのは悪魔の魔に眼という字を書くのか?」

「多分……そうだと思う」

 <支配の魔眼>――日本人のネーミングセンスの悪さはほとんど病気のレベルに達しているといってもいいぐらいだが、こいつはまた字面だけでも強烈な邪気を感じさせるワードだ。神は内心そう思った。

「で、何なのだ、その<支配の魔眼>というのは? 何故、お前はそんなものを見せられたんだ?」

 <セイレーン>の声が震えた。

「わからない……。でも<コウタイシサマ>や周りの大人たちがこう言っていたのは覚えている……。『さあ、この眼をよく見ろ。そうすればお前は今以上に強大な力を手に入れることができる。この<シハイノマガン>が、お前が持っている秘められた力を最大限に目覚めさせてくれるだろう』って……。それ以来、私は……私は……ただの人間じゃない<魔女>になってしまった……」

 そう言うと、<セイレーン>は白いシーツを両手で握り締め、ポロポロと涙を流し始め

た。

――どうやらこの辺で潮時のようだな……。

 神がそう思った時、ドアをノックする音が聞こえ、一人の若いメイドが部屋の中に入ってきた。

「お話し中にすみません、神様。御主人様がお呼びでございます」

「黄(ホアン)大人が? わかった。今すぐ行こう」

 神はそう言って立ち上がると、泣いている<セイレーン>に背を向けて、足早に部屋を出た。


「どうじゃった。あの娘の様子は……」

 万暦赤絵の陶磁器や山水画など、中国風の調度品で飾られた一室に入ると、黒檀のテーブルセットに腰かけていた老人が神に話しかけてきた。

「身体的な面はともかく、精神的なショックがまだ尾を引いているようです。特に皇帝の話題になると……」

 神が<セイレーン>の様子や彼女との間で交わした会話の内容を伝えると、老人はやや考え込むような様子を見せた。

「そうか……。やはり作戦とはいえ、ミッドウェーで彼女と皇帝を鉢合わせさせるような状況を作ってしまったのはまずかったかもしれんのう」

「知っていたのですか。<セイレーン>と皇帝との関係を」

「<セイレーン>が皇帝のことを知っていることは知らなかった。じゃが、彼女と皇帝との間に、ある共通項があることは知っておった」

「共通項?」

「『ホモ・デウス計画』という奴じゃ」

 黄大人はメイドが運んできた紅茶に口をつけながら言った。

「何なのですか、その『ホモ・デウス計画』というのは……」

「その名の通り、<神の人>――つまり我々ホモ・サピエンスを超越した、より神に近い存在、いや、神にも等しい全知全能の超人、言わば<新世界の現人神>を人間の力で創造しようという計画じゃ」

「<神>を人間の手で……正気なのですか」

 呆れたような神の言葉に老人は乾いた笑い声を上げた。

「お前が信じられんのも無理はない。わしも最初聞いた時は耳を疑ったもんじゃ。じゃが大日本帝国の政府や軍の首脳部たちは本気でその<現人神>を創り出そうとした。その成果の一部はお前もよく知っておろう」

「もしや、<セイレーン>と、そして皇帝の<支配の魔眼>ですか……」

「そうじゃ。言うなれば皇帝と<セイレーン>は『ホモ・デウス計画』によって産み出された双子の兄妹のようなものじゃよ」

「双子の兄妹……」

「この世界を征服し、六十億を越える人類を恒久的に支配するためには、常人をはるかに超越した能力を持つ神のごとき『超人』でなければならぬ。そこで帝国は『ホモ・デウス計画』を発案し、その研究から得られた、人間の心理や精神を支配し自在に操る『支配の力』を皇帝に付与した上で、物理現象に干渉する『破壊の力』を<セイレーン>に授け、究極の人間兵器として利用しようと考えたのじゃろう。ましてや<セイレーン>はユダヤ人じゃ。二千年に渡って自分たちを迫害し続けた白人たちや、ホロコーストで数百万人のユダヤ人を虐殺したナチス・ドイツを滅ぼすためならば、喜んで帝国の尖兵となるはずだ。当時の帝国の首脳部はそう考えたのじゃろうな」

 黄大人の話を聞きながら、神は腹の底から怒りが湧き上がってくるのを感じた。

「何ということを……。奴らはそこまでしてこの世界が欲しいのか……」

「そう怒るな。帝国の非道さや冷酷さなど、今さら言わんでもお前が一番よく知っておるじゃろうに……。それよりも今のお前にはもっと重大な問題があるはずじゃ」

「<セイレーン>を今後どうするか、ですか」

「それもじゃが、もっと深刻な問題じゃ。皇帝の持つ力は<セイレーン>よりはるかに強大じゃということじゃよ」

「何ですって……」

「考えてもみよ。ミッドウェーでは、皇帝の気配を察知しただけで、恐慌状態になったのじゃろう。いくら超能力者とはいえ、そんな状態ではまともな勝負にすらなるまい。それにお前の話では、<セイレーン>の持つ能力自体、皇帝の<支配の魔眼>によって引き出されたものなのじゃろう。それは逆に考えれば、その魔眼の力をもってすれば、<セイレーン>の能力を封じ込めることも可能じゃということになりはせんかね」

「……確かに……」

「それに、皇帝の持つ能力が<支配の魔眼>だけとは限らぬ。ひょっとしたら、テレパシーや透視能力なども兼ね備えているやもしれぬ。現にミッドウェーでは、皇帝の座乗していた『武蔵』から何十kmも離れた海中の潜水艦の中にいたにもかかわらず『皇帝の眼が見える』といってパニックになったのじゃろう?」

「…………」

「仮にそうだとしたら、ますます<セイレーン>に勝ち目はない。もし今度また、<セイレーン>が皇帝と対峙するような状況になったり、あるいは<セイレーン>のいる場所や位置が皇帝によって探知・捕捉されたりすれば、恐らく彼女の能力は<支配の魔眼>によっていともたやすく封じられ、さらに精神まで支配されるか、あるいは精神そのものを破壊されてしまうじゃろう。そうなった時、お前はどうする。<セイレーン>なしでどうやってあの皇帝と戦うつもりじゃ」

 神は返答に詰まった。確かに黄大人の言う通りだ。彼が描いていた基本戦略は、戦術的勝利を積み重ねることによって、痺れを切らした皇帝が自ら親征に打って出てくるか、あるいはそこまで行かなくとも、将兵の督戦や前線視察など何らかの理由で自分の手の届くような場所に出てきたところを一気に討ち取るというものだった。

 しかし、皇帝が<セイレーン>をはるかに上回るような人外の超能力を持っているとなれば、話は別だ。

 下手に皇帝に近づけば、逆にこちらが返り討ちになるだけだ。実際ミッドウェーでは危うくそうなりかけたではないか。

 神は改めておのれの迂闊さ、思慮の浅さを呪いたいような気分になった。

 深刻な表情で考え込む神を見て、黄大人が言った。

「まあ、そう思い詰めるな。人間あまり思い詰めるとかえって判断を誤るものじゃ。それより、久しぶりにここでこうして顔を合わせたのじゃから、少し外を歩かんかね。わしももう老い先長くはないじゃろうし、お互いに会ってじっくり話すのもこれが最後の機会になるかもしれんからのう」

「はい……」

 神はうなずくと、黄大人に従って屋敷の外に出た。

 黄大人の屋敷は小高い丘の上に立っており、はるか水平線の彼方まで広がる海と、その海を鮮やかな黄金色に染めながら沈みゆく夕日を眺めることができた。

 右手の方角には小さな入り江と、造船所のような建物、それに屋根付きのドックがあるのが見えた。

 今、そのドックの中では、いつでも出撃できるよう急ピッチで『神龍』の補給と点検作業が行われているはずだ。

「どうじゃここは。いつ来てもよい場所だろう。何せここは、わしが自分の祖国を売った見返りとして、先代の大日本帝国皇帝から賜った島じゃからな。故にここは東南アジアでも数少ない、帝国の官憲の手が及ばぬ島じゃ。じゃからこそ、お前たちのような帝国に仇なす朝敵でも受け入れて匿うことができるのじゃよ」

 黄大人は自慢するような、あるいは自嘲とも取れるような複雑な笑みを見せた。

「そんな顔をするな。お前の言いたいことはわかっておる。お前がわしの生き方に内心ひそかに蔑みの念を抱いていることもな……」

「いえ、決してそんなことは……」

「実際、わしはお前のような人間から蔑まれても仕方がない。わしもできればお前のような生き方をしたかった。じゃが、わしにはできなかった。若い頃、抗日パルチザンに参加し、そこで大日本帝国の強さ、恐ろしさを嫌と言うほど見せつけられたわしにはな……」

「…………」

「実際、帝国は強い。たとえどれだけ帝国を憎んでいる人間であっても、それだけは認めざるを得んじゃろう。帝国を外部から打倒するのはほとんど不可能に等しい。じゃが、内側から切り崩すのならばあるいは可能かもしれん」

「だから、あなたは祖国を裏切ったのですか……」

「そうじゃ。大日本帝国を内部から切り崩すため、わしはあえて自分の生まれ育った国を帝国に売り、人から国賊、売国奴と罵られながらも、侵略者の手先となって、数え切れないほどの汚れ仕事に手を染めてきた。そしてその見返りとして、帝国からインドネシアにおける石油の採掘権などいくつかの利権を与えられ、黄財閥と呼ばれるほどの富を築き上げた。そうして得た富の一部を、さらに帝国政府や軍部の中枢に深く食い込み、人脈や情報網を広げるために使った。『神龍』の開発や『ホモ・デウス計画』にもわしは莫大な資金を提供した。帝国の世界征服のために造られた兵器や超能力者が、逆に帝国に災いをもたらす諸刃の剣となるかもしれん。そう思ったからじゃ。そしてわしの読みは当たった。今や、『神龍』は大日本帝国にとって侮りがたい強敵となって、連合艦隊の二つの艦隊を撃破し、さらに帝国内部においては強大な<支配の魔眼>の能力を持って生まれた皇帝が、制御不能な<魔人>と化して暴走し始め、それに対するクーデターまで起こっておる。今や大日本帝国は徐々に自壊の道をたどりつつあるといってよいじゃろう。もっとも、じゃからといって、わしが今まで積み重ねてきた罪が決して償われるわけではないがの……」

 そう言い終えると、黄大人は口を固く閉ざし、何かに向かって祈りを捧げるように黙り込んだ。

 長い沈黙が二人の間を通り過ぎた後、黄大人が再び口を開いた。

「征士郎、お前は初めてわしと会った時のことを今でも覚えているか」

「はい、もちろんです」

「今から十七年前、第七次上海事変によって瓦礫の山と化した、硝煙と血の臭い漂う地獄のような上海の街でわしとお前は出会った。日本人でありながら、医師として中国人相手の無料診療所を開くなどの慈善活動を行なっていた両親を帝国軍の憲兵によって殺されたお前の眼は、子供ながらにまるで手負いの獣のような眼をしていた。その眼が気に入ったからこそ、わしは孤児となったお前を引き取り、さらにつてを頼ってお前と神男爵との養子縁組の仲介をしたのじゃ。この少年ならば、あるいはわしができなかったことさえもやってのけるかもしれんと思ってな。そして、お前はわしが期待していた以上の男に成長した。お前には感謝しておる……」

「何をおっしゃいますか。感謝すべきなのは私の方です。あなたがいなければ今の私は存在しませんでした」

 黄大人の言葉に神は背筋を正した。

「わしはある意味お前を道具の一つとして利用した。それでもか……」

「たとえそうであったとしても、私はあなたに一片の恨みも抱いておりません。むしろ道具として選んでいただいたことを光栄に思いたいぐらいです」

「…………」

 二人の間に再び沈黙が訪れた。と、その時どこからともなく「あれを見ろ!」と叫ぶ男の声が聞こえた。

 神と黄大人が視線を向けると、先程まで夕日によって黄金色に染め上げられていた海が、百隻以上はあろうかと思われる黒い艦船の大群によって埋め尽くされていた。

「あれは……」

「数と艦影から見て、恐らく帝国第四艦隊じゃろう」

 黄大人はズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、中国語で短いやり取りを行なった後、神に向き直った。

「皇帝がシンガポールの第四艦隊とディエゴ・ガルシアの第五艦隊に対し、トラック島に急ぎ集結するよう勅命を下したらしい。さらに帝国本土においても第一艦隊が出撃準備を進めているそうだ。どうやらいよいよ本気を出してきたようじゃぞ」

「そうですか」

 短く答えると、神は屋敷の方角に向かって歩き出そうとした。

「待て。さっきも言ったが、今のお前たちでは帝国に、いや、あの皇帝に対して到底勝ち目はないぞ。それでも征くのか」

「はい、あなたのお話を伺っていて、私は改めて思い出したのです。我々は何も帝国を打倒して世界を救うとか、そんな大義のために戦っているのではない。あくまで復讐のために戦っているのだということを……。復讐に勝敗など関係はありません。たとえ戦場に命を散らすことになろうとも、ただ自分自身のため、そして死んでいった者たちのために戦い続けるのみです」

「あの子も……<セイレーン>も連れていくのか。その勝算のない戦いに……」

 神はその問いには答えず、黄大人に背を向けて再び歩き出した。


 神が部屋に戻ると、<セイレーン>はベッドの上に上半身を起こし、窓の外の景色を眺めていた。

「また、戦争が始まるの……」

「ああ」

「さっき海を見ていたら、数え切れないほどたくさんの黒い大きな船が海を渡っていくのが見えた。他にもたくさんの大きな力が動いているのを感じる。まるで一つのとても大きくて強い<悪意>の力によって、世界中が突き動かされているよう……」

「その<悪意>の正体が何か、言わなくてもお前にはわかっているはずだ」

 そう言って神はベッドのそばの椅子に腰かけた。

「戦いは嫌いか……」

「嫌い……」

 神の問いに<セイレーンは即答した。

「そうか……。だが俺たちは再び戦場に征く。帝国と戦うため、皇帝と戦うために。恐らくこれが最後の戦いとなるだろう。だが、お前がどうしても戦うのが嫌だというのならば仕方がない。お前はここに置いて、俺たちだけで帝国軍と戦おう」

 <セイレーン>は驚いたように神の顔を見つめた。

「私を置いていくの……」

「ああ、正直言ってお前の力がなければ、俺たちに万に一つも勝ち目はないだろう。だが、戦争が嫌だという人間――それもお前のような子供をこれ以上、戦場に連れていくわけにはいかない」

 その瞬間、<セイレーン>の眼から一粒の涙がこぼれ落ちた。

「戦争は嫌……。でもここに置いていかれるのも嫌……。それに、どうせここにいても私はいつか<コウタイシサマ>、いえ、皇帝に見つかって殺されてしまう……。私はもう逃げられないの。あの真っ赤に燃える火の玉のような恐ろしい眼から……。どうせ逃げられないのならば、私は戦う。そもそも、私は戦うために造られた<兵器>なんだもの……」

「お前は<兵器>なんかじゃない!」

 神は思わず大声を出した。

「お前は兵器なんかじゃない。れっきとした<人間>だ。そして、俺たちのかけがえのない<仲間>だ……」

「仲間……」

 <セイレーン>の眼から再び大きな涙がこぼれ落ちた。

「だったら私も連れて行って……。私を置いていかないで……。どうせ死ぬのなら、私のことを初めて人間だと……そして仲間だと呼んでくれた人と一緒に死にたい……」

「……わかった……。お前がそこまで言うのならば、一緒に行こう……」

 そう言うと、神は涙を流し続ける<セイレーン>をそっと抱きしめた。

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