血塗られし姉弟の絆
巣鴨にある錦衣衛が管轄する特別犯収容所――通称「巣鴨プリズン」の地下牢に投獄された薫子は収容所の獄吏たちから連日のように激しい拷問を受けていた。
――どうかお許しください。我々も何も好きこのんで皇女殿下をこんな目に遭わせているわけじゃあないんです。上からの命令で仕方なしにやってるんですよ。
獄吏たちは口ではそう言いつつも、その実、通常であれば絶対に手の届かない高貴な姫君をいたぶる嗜虐的な喜びに眼を光らせながら、薫子の身体を電気鞭で何度も何度も鞭打った。
そうした肉体的な痛みだけでなく、あの日、皇帝の<支配の魔眼>の力によって見せつけられたおぞましい幻覚が、今もなお薫子の脳裏に深く刻み込まれており、まるで地獄の業火の残り火のように彼女の精神を責め苛み続けていた。
――何がちょっとした幻覚よ。そんな生易しいもんか……。
肉体と精神の両方をなぶられ続け、思わず嗚咽の声を上げそうになるのを必死で堪えながら、薫子はぐっと唇を噛んだ。
「皇女殿下……」
突然自分を呼ぶ声が聞こえ、薫子はかすかに面を上げた。見ると、鉄格子の向こうに侍従長の金城が立っていた。
全身に走る痛みを堪えながら上半身を起こすと、薫子は涙のにじんだ眼で金城を睨みつけた。
「何よ……。皇帝の命令で私の無様の姿でも偵察しにきたの? だったらあいつに伝えなさい。こんな蛇の生殺しみたいな陰険な真似なんかせずに、私を殺すんだったら早く殺しなさいってね……」
金城はしばし無言のまま、沈痛な面持ちで何かに耐えるようにじっとうつむいていたが、不意に両膝をがくっと折り、崩れ落ちるようにコンクリートの床に手をついて跪いた。
「……何のつもり……」
「申し訳ございません!」
鉄格子の前で跪いたまま、金城はおのれの額を地に叩きつけた。
「僭越ながら、皇帝陛下に成り代わって殿下をかくのごとき憂き目に遭わせたもうた罪をお詫び申し上げますので、どうか……どうか……陛下をお恨みにならないでくださいませ」
「恨むなって、人をこんな目に遭わせておいて何を……」
「皇女殿下の御気持ちはこの金城、痛いほどよく承知いたしております! ですがそれでも……重ねて申し上げます。全ては陛下御自身のせいではございません。あの……あの<支配の魔眼>のせいなのです!」
「<支配の魔眼>って皇帝のあの『能力(ちから)』のことね……」
そうつぶやいた次の瞬間、突然薫子の感情が激した。
「あの力は一体何なの! まさかあの子があんな恐ろしい力を持っていたとは思ってもいなかったわ! 以前近衛からこの国は超能力とかそういった怪しげな力を持つ人間を軍事目的とかに利用するためにひそかに研究しているって話を聞いたことがあるけど、まさかあんたたち……」
「御明察の通りでございます。この大日本帝国は長年に渡って人智を超えた超能力を研究し続けて得た知識と科学技術をもって、皇帝陛下を人工の超能力者に改造したてまつったのでございます」
「何ですって……」
薫子の声が震えた。
「超能力者といえば聞こえはいいけど要は人外の化け物じゃない! しかもあの子はこの国の皇帝なのよ。よりにもよって自分たちを支配している皇帝を自分たちの手であんな恐ろしい化け物に改造してしまうなんて……。狂ってる。この帝国は完全に狂ってるわ……」
「確かに殿下のおっしゃる通りなのかもしれません。しかしそれも皆、ある目的のために行われたことなのでございます」
「何よ、その目的って……」
「それは……世界征服のためです……」
薫子は思わず笑い出した。
「何よ世界征服って……。それこそお笑い草だわ。そんな馬鹿みたいな夢物語のためにこの帝国は戦争したり、何千、何百万人もの人間を殺したりしてきたっていうの……」
「そう思われるのも無理はございません。しかしそれこそが明智維新以来、富国強兵の道をひたすら歩み続けてきた大日本帝国の歴代皇帝陛下と元老、重臣の方々の悲願だったのです」
「ふざけるな!」
再び薫子の感情が爆発した。
「何が世界征服だ! 何が富国強兵だ! そんな目的のためにこの国の重臣たちはあの子を赤ん坊の頃からあの『御文庫』に閉じ込めてあんな化け物に改造したっていうのか! あれでもあの子は私の弟よ! 私と同じお父様とお母様から産まれた、この国の皇子なのよ! その皇子をよくも……」
「お怒りは御最もでございます。しかしながらこれは今は亡き先帝陛下のお許しを得た上でなされたことなのです」
「そんな……」
薫子の眼が信じられないと言わんばかりに大きく見開かれた。
「そんな……嘘よ……あの優しかったお父様がまさかそんなことを……」
「そうです! その先帝陛下の御優しさこそがこの計画の全ての根源だったのです!」
金城が振り絞るような声を上げた。
「先帝陛下はドイツと並ぶ世界の二大超大国の一つであり、いずれはそのドイツをも征服して全世界を統一すべき定めにある大日本帝国の最高君主としてはあまりにも御人柄が温厚で御優しすぎたのです。先帝陛下の御優しさを単なる柔弱としか見なすことができなかった先の帝国宰相岩倉義道公爵をはじめとする元老、重臣の方々は、極秘にある計画を立てたのです。やがて産まれてくるであろう皇子を、自分たちの手でこの帝国、いや、全世界を支配するにふさわしい文字通りの『現人神』にするという計画を……。そして日頃から自分は皇帝の器にふさわしくないと悩んでおられた先帝陛下の弱味に付け込むような方法でこの計画を実現させたのです」
「なっ……!」
「それだけではありません。今から二年前、アメリカで強硬な反日政策を掲げる共和党のロックフォード上院議員が大統領に就任しました。日米間の緊張が高まる中、アメリカとの再戦は避けられぬと判断した岩倉公は先帝陛下に対し大幅な軍備増強を進めるよう先帝陛下に強硬に迫りましたが、当時財務大臣だった神男爵が推進していた財政改革を支持しておられた先帝は岩倉公の主張する軍備増強に消極的な姿勢をお示しあそばさいました。それに業を煮やした岩倉公らは計画の最終段階を実行することを決意したのです」
「今から二年前……最終段階って……ひょっとしてまさか……」
「そうです。ドイツを親善訪問なさった先帝および皇后両陛下をその帰国途上、飛行機事故に見せかけて弑逆したてまつり、そしてあの『御文庫』の中で度重なる人体改造を受け、ついに<支配の魔眼>の能力を身につけられた皇太子殿下を新たな皇帝として擁立したのです」
「嘘だっ!」
薫子はたまらず絶叫した。
「そんなの嘘よ! 嘘に決まってるわ! 確かにそなたの言っていることは一見辻褄が合っているようだけど、でも肝腎の証拠も何もないじゃない!」
「……証拠ならばございます」
そう言って金城は胸ポケットからメモリーカードを取り出すと、鉄格子越しに薫子に差し出した。
「この中に当時、岩倉公らと当時の皇太子殿下、すなわち今の皇帝陛下との間で交わされたやり取りや機密文書などが全て納められています。これが何よりの証拠でございます」
薫子は黒い小さなメモリーカードに視線を落してつぶやいた。
「仮にそなたの申すことが真実だったとして、侍従長であるそなたがそこまで知っているのならば皇帝も当然全て知っていることになるわね。岩倉たちが御父様と御母様をひそかに暗殺したということも……」
「はい、陛下も全て御存じでいらっしゃいます。全て御承知の上で岩倉公らの先帝暗殺計画を容認なされたのです。ただ一つだけ条件をつけて……」
「条件?」
「それは皇女殿下――貴女様には絶対に累を及ぼさないという条件でございます。岩倉公らから計画の密奏を受けられた陛下はこう仰せになられました。『そなたらが余に世界征服の望みを託すというのならば余はそれを受けよう。そのためならば実の父も母もあえて切り捨てよう。ただし余の姉上にだけは手出しすることは許さん。姉上は余の身にもしものことがあった場合、皇室直系の血筋を残すための唯一の『予備(スペア)』となる人間だ。故に姉上に指一本たりとも手出しすることはまかりならぬし、またこの計画について一切を知られてはならぬようにせよ。もし知られたとしたら、余は今度は自分の姉までこの手にかけねばならなくなるだろうからな』と……」
「まさかあの子がそんなことを……」
「それだけではありません。皇帝陛下は貴女様に万が一にも真相を知られるのを危惧されたのでしょう。御自分が皇帝に即位するや否や、錦衣衛に命じて、岩倉公を始め先帝暗殺に関わった重臣たち及び関係者を全員、事故や自殺、あるいは病死に見せかけてことどことく粛清なさったのです」
「じゃあ何? 私は自分が皇帝になるためならば実の両親まで暗殺し、さらに自分を皇帝に擁立した連中さえ平気で皆殺しにするような悪魔に今まで守られていたっていうわけ?」
不意に薫子は声を上げて笑い始めた。
「やっと納得がいったわ! この帝国で誰もあの子に逆らえない理由が! 何せ相手はちょっと睨みつけただけでどんな人間も思うがままに支配してしまうような正真正銘、本物の現人神様――いえ、魔神なんだもの。そんな魔神にこの国の重臣たちや軍の幹部たちが束になってかかっていったって勝てるわけないじゃない。それなのに私ったら、あの子のこと何も知らずに、また何も知ろうともせずに一丁前に姉ぶってあの子に素手で殴りかかっていったんだから。そりゃこんな目に遭わされても当然よね。私ったら本当馬鹿……」
薫子の笑いはいつしか泣き笑いへと変わっていた。
ひとしきり泣き、ようやく精神の落ち着きを取り戻すと、薫子は再び金城に向き直った。
「で、私はいつ処刑されるの?」
「まだ死刑と決まったわけでは……。皇帝陛下も殿下の御処分を未だ決めかねておられるようでございます。ですのでどうか御心を強く……」
「そう……。あの子が珍しく迷っているなんて、私のこと、一応は『お姉さん』と思ってくれているのかもしれないわね……。それとも私が皇室の血統を残すためのスペアだからかしら……」
「それは……」
「あと金城、そなたにお礼を言わなくちゃね。何も知らない私にあの子のこと、何もかも教えてくれてありがとう。でも何故……。今までずっと秘密にされていたことを私に全部ばらしたりなんかしたらそなたもただでは済まないでしょうに……」
「それは……何故かというと殿下に全てを知っていただきたかったからです。皇帝陛下が背負われているこの帝国の歴史の闇の大きさ、深さ、そして重さを知っていただきたいために……」
「歴史の闇……」
「そして同時に知っていただきたかったのです。皇帝陛下が陰ながらひそかに皇女殿下のお命を守ろうとなさったことも……」
かすかに声を震わせながら答える金城に、薫子は静かな声で告げた。
「……そなたのその言葉が聞けただけでも充分だわ。たとえこのままあの子に処刑されたとしても、おかげで何一つ思い残すことなく、一片の曇りもないような心境で死んでいけそうです……」
「…………」
金城はしばし無言のまま平伏していたが、やがておもむろに立ち上がると、深々と一礼し、そのまま立ち去っていった。
金城の足音が次第に遠ざかり、そして重たい金属の扉を閉める音と共に消えた。
その途端、張りつめていた神経の糸が切れたように薫子の身体ががっくりとくずおれた。
暗く冷たい牢獄の中、薫子は床に突っ伏したまま、全身を震わせ声を上げて号泣した。
「返して……。私の御父様も御母様も……。そして弟も……。みんな返して……」
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