第二次珊瑚海海戦
「やあ犬麿君、君がこうやってわしの研究室を訪ねてくるとは久方だな。まあ座って紅茶でも飲みたまえ」
「はあ、では遠慮なく……」
近衛は勧められるまま、応接セットの椅子に腰を下ろし、秘書が運んできた紅茶に口を付けた。
狭い研究室には本棚から溢れ返った数千冊もの分厚い研究書が机の上や床にまで山積みにされている。近衛は本の山に左右を挟まれるような形で、白衣を着た老人と向かい合った。
「お久しぶりです犬神博士。じゃじゃ馬お姫様のお守り、いえ、参謀本部の仕事が忙しくて最近はすっかりご無沙汰いたしておりまして……」
「いやいや、そんなことは別に気にせんでいい。何せわしは君の御父君の近衛公爵がまだ帝大の学生だった頃から親しくさせていただいておるし、それに君が生まれた時には名づけ親を依頼されたぐらいの間柄じゃからな」
「おかげ様で犬麿なんていう名前を付けられてしまい、子供の頃はよくからかわれたものです」
「何じゃ。そのことをまだ根に持っておるのかね」
博士はフォッフォッフォッと奇妙な笑い声を立てたが、やがてその笑いを収めるとまるで悪戯っ子のような笑みを浮かべながら言った。
「ところで、君がわしを訪ねてきた理由は『神龍』』について訊きたいからじゃろう」
いきなり先手を打たれ、近衛は思わず飲みかけていた紅茶を吹き出しそうになった。
「どうやら図星のようじゃな」
「ええ、まあ、しかしどうしてそれを……」
「君もすでに知っておると思うが、わしは『神龍』の開発プロジェクトの一員じゃったからな。真珠湾で連合艦隊が謎の潜水艦から奇襲攻撃を受けたと聞いた時から、いつか君が『神龍』について訊きにくるんじゃないかと思っておったのじゃよ。軍の機密情報じゃが、連合艦隊参謀長である君にならば、別に話してもお咎めは受けまい」
「では博士もあの潜水艦は――」
「ああ、あれは『神龍』じゃ。間違いない。現に君も聴いたはずじゃ。<セイレーン>の歌声を……」
「セイレーンの歌声……。あの駆逐艦『雪風』に録音されていた歌声のことですか」
「そうじゃ。あの歌声こそ世界で唯一、『神龍』のみに搭載された<セイレーン・システム>から発せられたものじゃ」
「<セイレーン・システム>……。一体何なのですかそれは」
「まあ、一言で言うならば、レーダーやソナーのように相手の位置を探知すると同時に、相手が出すレーダーやソナーを打ち消してしまうという二重の性質を持った特殊な波動を発生させる装置というものかな……その波動が人間の耳には歌として聞こえるのじゃよ」
「失礼ですが、その説明ではあまりに抽象すぎます。そもそもそんな特殊な波動をどうやって発生させているのですか」
「それはわしにもわからん」
「わからんって、博士は『神龍』の開発に携われたのでしょう」
「確かに携わった。じゃがわしはあくまで科学者であって、科学を超越したことまでは理解もできんし説明もできんのじゃよ。何せ<セイレーン・システム>は『技術』ではなく『能力』、それも完全に『超能力』とでも呼ぶべき代物じゃからな」
研究室の曇った窓から長い夕日の影が差し込む。長い沈黙の後、近衛が口を開いた。
「……それはつまり、<セイレーン・システム>は人間の超能力をベースにしているということですか」
「正解と言いたいところじゃが少し違うな。あれは人間の超能力をベースにしているのではなく、超能力者そのものを利用しているのじゃよ」
「何ですって……」
「驚いたかね。じゃが君も知っておるはずじゃ。この帝国が長年、人間やその他の生物が持つ特異な能力を軍事目的に利用するための研究を続けてきたこと、そしてこのわしも長年そうした研究の片棒を担がされてきたことぐらいは……」
そう言うと博士は椅子から立ち上がって、窓の外を眺めた。
「確かに博士がいわゆる超能力とかオカルトとかいったものを研究されていることは存じ上げていましたが……。しかしそんな特殊な能力を持つ超能力者をどうやって探し出したのですか」
「探し出したのではない。人工的に作り出したのじゃ」
「超能力者を人工的に……。そんな、まさか!」
「まさかと思うじゃろう。わしも初めて聞いた時はそりゃあ驚いたもんじゃ。まさかこの大日本帝国が百年以上も前からある民族に目をつけ、その民族の中から超能力者になるべき人間をひそかに培養していたという事実を知らされた時はな」
「誰なんですか、その民族というのは?」
窓の外に視線を向けたまま、博士は急に話題を変えた。
「ところで君は杉原千畝という人物を知っているかね」
「第二次世界大戦の時にナチス・ドイツの迫害から逃れようとした六千人ものユダヤ人を大日本帝国に亡命させた外交官ですね」
「さすがは海軍きっての秀才。よく知っておるな。杉原千畝はおのれの独断で何千人ものユダヤ人に対し亡命のためのビザを発給したとして、戦後、外務省から追放された。しかし杉原の行為は独断ではなく、実は帝国政府からの密命によるものじゃったのじゃ。大勢のユダヤ人をあえて帝国に亡命させるためにな」
「何故そんなことを……ってひょっとして!」
「そう、君が想像した通り、人体実験の材料に使うためじゃ」
博士はまるで歴史の闇を覗き込んでいるかのような陰鬱な視線を近衛に向けた。
「杉原が発給したビザで日本にやって来た六千人のユダヤ人たちは、難民保護という名目の下、帝国政府の管理下に置かれ、横浜や神戸の外国人居留地に隔離された。そこで彼らは心理学や精神医学、それに生命科学や遺伝子工学などを専門とする帝国の科学者たちの実験台に使われた。百年もの間、何世代にも渡ってな。そうして生み出されたのじゃよ。人工的な超能力者というのがな……」
「……一つ疑問があるのですが」
吐き気を堪えるような表情で近衛が言った。
「何じゃね」
「何故、帝国はユダヤ人に目をつけたのでしょうか。そもそも日本人にとってユダヤ人は何の縁もゆかりもない民族なのに……」
「そう、まさにその何の縁もゆかりもないからこそ帝国はユダヤ人に目をつけたのじゃ。中国人や朝鮮人を人体実験の道具などに使えば、いずれ帝国が彼らを支配するのに支障が出る。しかしユダヤ人ならば道具や材料に使っても帝国にとっては何の支障もない。彼らはもともと自分の国を持たぬ流亡の民であり、またナチス・ドイツによるホロコーストが猖獗を極めていたあの当時にあっては、ユダヤ人は文字通り世界から見棄てられた民族じゃったからな。だがそれ以上にもっと大きな理由がある」
「何ですか、その理由とは?」
「ユダヤ人が世界で最も優秀な民族の一つだからじゃ」
近衛は思わず博士の後ろ姿をまじまじと見つめた。
「世界で最も優秀な民族は我々大和民族であるとされていますが」
「この帝国ではな。そしてドイツではゲルマン民族こそ世界で最も優秀な民族とされておる。じゃが、ユダヤ人が古来より多くの優れた学者や芸術家、それに実業家などを輩出してきたのは君も知っておるじゃろう。スピノザやマルクス、フロイトやアインシュタイン、メンデルスゾーンやマーラー、それにロスチャイルド家など……。一説では世界で最も知能指数の平均値が高い民族はユダヤ人であるともいわれている。それだけではない。ユダヤ教から派出したキリスト教や、あるいはその影響を受けて誕生したとされているイスラム教はどちらも今では信者数が十億人以上を数えておる。いわば世界の三大宗教のうちの二つがユダヤ教をその源として生まれたのじゃ。二千年以上にも渡って自らの国を持たぬ弱小民族でありながら、政治や経済や文化、さらには宗教に至るまでこれほどまでに全世界に大きな影響を与えた民族など他におるまい。だからこそ帝国はユダヤ人に目をつけて、そして百年もの歳月をかけて彼らの中から生み出したのだ。人智を超えた能力を持つ超能力者と、そしてそれを利用した超兵器をな……。なかなかどうして、我々の先人たちは卓越した先見の明を持っていたと思わんかね」
老博士の顔に皮肉な笑みが浮かぶのを近衛は複雑な心境で見つめた。
「……ところで博士はその<セイレーン・システム>の生体ユニットともいうべき超能力者がどんな人物であるか御存じなのですか」
「無論知っておる。じゃがそれを君に話すことはできん。ただでさえわしはあまりに多くのことを君に話しすぎてしまった。これ以上事の真相を話すと、恐らく君を通じて皇女殿下にも伝わるであろう。殿下はこの国の連合艦隊司令長官。いずれ近い将来、帝国の命運を賭けて『神龍』と決戦を交える時が必ず来る。その時、いささかでも皇女殿下の戦意が鈍るようなことがあっては、殿下は間違いなく戦火にお斃れあそばすこととなろう。わしはそうなってほしくはない。それは君にも言えることじゃ、もし君が連合艦隊の参謀長として戦場で『神龍』とまみえる時が来れば、その時はどうか容赦することなく『神龍』を沈めてほしい。自分自身開発に携わっておきながらこんなことを言うのは何じゃが、あれは本来この世に存在してはならぬものなのじゃ」
「……わかりました」
犬神博士の元を辞去した後、帝国大学の構内を歩きながら、近衛はたった今博士から聞かされた話の数々を心の中で反芻していた。
――もし君が連合艦隊の参謀長として戦場で『神龍』とまみえる時が来れば、その時はどうか容赦することなく『神龍』を沈めてほしい。
「相変わらず博士は私に難しい宿題を押しつけてくれるものだ。人智を超えた超能力を駆使して戦うような潜水艦を沈めろとは……」
近衛にとってそれは連合艦隊の総力をもってしても実現できるかどうかわからないほどの難題だった。
だが、差し当たり彼にはもう一つの難題が待っていた。犬神博士から聞いた情報をどう取捨選択して彼が仕えている主君に話すかという難題が。
「また爆撃か……今日で一体何日目だ」
大日本帝国海軍第三艦隊司令官鮫島剛造中将は、高級士官専用の食室で昼食のカレーライスを口一杯にほおばりながら、戦艦『金剛』の上空をかすめるように飛んでいく重爆撃機の編隊が出す爆音に思わず顔をしかめた。
「一昨日はポートダーウィン、昨日はブリスベーン、そして今日はいよいよシドニーを爆撃するそうです」
テーブルの反対側に座ってタラコスパゲッティをぼそぼそと口に入れていた参謀長の加治木少将が言った。
「ふん、連日御苦労なことだ。しかしシドニーまで火の海にされてはオーストラリアもそう長くはもつまい。どうやらオセアニアの土人どもが帝国に泣きを入れてくるのも時間の問題だな」
「しかし司令部の戦術支援AIによる暗号通信の解読によりますと、オセアニア政府は頻繁にアメリカに対して援軍を要請しておるようですが」
加治木の言葉を鮫島は鼻で笑い飛ばした。
「はっ! オセアニアがどれだけ泣きつこうが、今のアメリカに援軍など出せるわけがなかろう。現にアメリカ太平洋艦隊はすでに潰滅し、ロサンジェルス、サンフランシスコ、それにシアトルといった西海岸一帯の主要都市はことごとく空軍の絨毯爆撃と第二艦隊による艦砲射撃によって焼け野原と化してしまったそうではないか。全く、敵ながら情けない奴らだ。これでは帝国海軍でも『南海の人喰い鮫』の異名を取るわしが何のためにトラック島からこのポートモレスビーまで出張ってきたのかわからぬわ」
「しかし軍令部や連合艦隊司令部からの情報によりますと、敵は何やら強力な秘密兵器を持っているそうですな」
「ああ、あの真珠湾で味方がしてやられた謎の潜水艦という奴か。ふん、あのお飾りの皇女元帥ならともかく、帝国海軍一の対潜戦闘のエキスパートであるわしの手にかかればわけもないわ。何せ鮫が敵の血の臭いを嗅ぎつける能力は下手なソナーよりも強力だからな」
そう言って鮫島が豪快な笑い声を上げた時、副官が士官室に入室してきて彼に話しかけた。
「大本営からの入電です。本日一三〇〇にポートモレスビーを出立し、アメリカとオーストラリア大陸を結ぶ要衝であるニューカレドニア島を攻略せよとの命令です」
副官の言葉に鮫島は両目を吊り上げた。
「一三〇〇だと? あと一時間もないではないか。こんな南海のド辺境で一週間以上も待ちぼうけを喰らわせておきながらふざけおって。百五十隻以上もの艦隊がそんな急に出撃できるわけがなかろう。相変わらず大本営の奴らは現場の苦労がわかっとらん。給油や補給などいろいろせにゃならん作業があるからもうあと三時間待てと返事しておけ」
「しょ、承知いたしました」
鮫島に追い払われるように副官がすごすごと士官室を後にした後、加治木が心配そうな表情で尋ねた。
「よいのですか、あんなことを言って」
「なあに、構うもんか。だいたい皇帝だか連合艦隊司令長官だか知らんが、所詮は十四歳の小僧と十七歳の小娘ではないか。あの陰気臭い帝都から何千kmも離れた場所まで来て、あんなお子様どもに偉そうに命令される筋合いなどないわ」
鮫島がそう言い放った次の瞬間、テーブルの上に置かれていたスマートフォンから着信音が聴こえた。
「着信不明……一体誰からだ?」
不審に思いながら受信ボタンを押した鮫島の耳に、聞き覚えのある陰気で陰険な声がいきなり飛び込んできた。
「いろいろ作業があるというわりには随分とくつろいでおるようではないか。戦艦の窓から美しい珊瑚海の風景を眺めつつ食べる海軍名物のカレーライスの味はさぞ格別であろうな」
「こっ、これは皇帝陛下……!? どっ、どうして私の携帯から……!? それに何故そんなことまで知って……!?」
「そなたのような横着者に余が監視の眼をつけておらぬとでも思っておったのか。それより大本営からの命令を鼻であしらった挙句、余や姉上のことまで小僧だの小娘だのと呼ばわるとは……そなた、一体いつからそんなに偉くなった。帝都から何千kmも離れた場所で南の島の大王でも気取っておるつもりか。そんなに日本が陰気臭くて嫌ならもう二度と帰ってこなくてもよいぞ」
「あ……いえ……けっ、決してそんなことは……!」
「そなたが心の中で何を思おうが自由だが、あまり口に出して言わぬ方が賢明だぞ。錦衣衛の情報網を見くびるとそなたの妻と三人の娘も……」
「ひぃ! そっ、それだけは御勘弁を! 小官は八つ裂きにされても構いませんからどうか家族だけは……!」
「ならば今すぐ出撃準備をいたせ。だいたい一週間以上もポートモレスビーに駐留しておきながら補給作業も済ませておらぬとは怠慢にも程がある。すでにポートモレスビーには百万tを越える物資を輸送済みのはずだぞ」
「はあ……ですからその物資の積み込みに手間取っておりまして……何分物資はあってもあまりにも膨大な量なので、それを運ぶ人手が不足しておるものですから……」
鮫島がそう答えた瞬間、スマートフォンの向こうの皇帝の声が一段と陰険さを増した。
「二十万もの兵員を抱えておきながら下手な言い訳をするな! 人手が足りないというのならば、現地の奴隷や苦力だけに頼らず艦隊の全将兵を動員してでもさっさと作業を完了させろ。何が現場の苦労だ。偉そうな口を叩く暇があったら、そなたもそんなところで呑気にカレーなど食っておらずに米袋の一つでも担いだらどうだ。艦隊司令官だからといって部下に命令を下すだけでなくたまには自分の手足も動かせ」
「しょっ……承知いたしました……」
「いずれにせよ、命令通り一時間以内に出撃しなければどうなるかわかっておるだろうな。あと、ニューカレドニアまでの道中、不審な潜水艦に出くわすかもしれんからゆめゆめ対潜準備は怠るでないぞ。よいな」
そう言い残して、皇帝からのホットラインは一方的に切られた。
鮫島はスマートフォンを片手に握り締めたまま呆然と突っ立っていたが、やがて幽霊にでも出くわしたような蒼ざめた顔で加治木に命じた。
「かっ、艦隊各員に伝えろ! 補給作業を一時間以内に完了させて全艦隊出撃だ! 早くしろ! 急げ!」
それからきっちり一時間後、帝国第三艦隊の全艦艇は、旗艦『金剛』を先頭にまるで狼に追われる兎のごとき勢いで次々とポートモレスビーから出港していった。
「アメリカ南太平洋方面軍情報部から入電です。本日一三〇〇、帝国第三艦隊全軍がポートモレスビーを出港、ニューカレドニア島方面に向かって侵攻を開始したとのことです」
「やっとねぐらから出てきたか。待ちかねたぞ」
李(リー)副長の報告に神征士郎はにやりと笑みを浮かべた。
「ここ珊瑚海は、貴官らも知っての通り、百年前の大戦で帝国海軍の機動部隊が初めてアメリカ軍の機動部隊を撃破した場所。真珠湾に続いて、今度はこの海を我々の復讐劇の舞台としてやろう。<セイレーン>、第三艦隊の位置を探知して発令所のメインモニターに投射しろ」
――わかった。
神がヘッドフォンに付属している小型マイクを用いて呼びかけると、少女のものらしきか細い声が答えた。それに続いて、CIC(戦闘指揮所)の三次元モニターに百隻以上もの艦艇の立体映像が次々と浮かび上がる。
「戦艦二隻、空母二隻を含む総数百五十隻以上。方角は十時、距離二四〇です」
李がサブモニターに映し出されたエータを読み上げた。
「思った通り、ポートモレスビーからニューカレドニアを結ぶ最短距離を直進してきたか。わかりやすい奴らだ。よし、このままソナーの届かないLD(変温深度)以下の深度を保ちつつ、敵艦隊に接近する」
――待って。
ヘッドフォンから再び少女の声が聞こえた。
「どうした」
――艦隊の前に何かがいる。
「何、海上か?」
――違う、海の中。数は一、二、三……全部で八つ。
「海中……そうか。敵もこちらの奇襲を警戒して伏兵を仕掛けていたか。<セイレーン>、敵の伏兵の位置はわかるか」
――うん。
声と共に八隻の潜水艦の姿が三次元モニターに映し出された。
「なるほど、八隻の潜水艦を海底すれすれの深度で潜航させ、艦隊に接近する敵を上下から挟み撃ちにする作戦か。さすがは鮫島中将、帝国海軍一の対潜水艦戦闘の達人と呼ばれるだけはある。だが、貴様の戦術などこの『ユリシーズ』には通用しないことを今から教えてやろう。水雷長、魚雷発射管一番から八番装填準備」
水雷長のグエンが復唱する。
「魚雷発射管一番から八番装填準備! 装填完了!」
「よし、全弾発射!」
神の叫び声と共に第二次珊瑚海海戦の火蓋は切って落とされた。
「駆逐艦『島風』より入電、艦隊の前方五十カイリを潜航していた潜水艦からの通信が途絶。同時に爆発音もキャッチしたとのことです!」
通信士の報告に鮫島はその名の通り鮫のような細い目を吊り上げた。
「やはり来たか、『深海の化け物(クラーケン)』め。で、味方の被害は? 何隻やられた?」
「それが……八隻とも全てロストしたとの報告です」
「何だと!? 八隻の潜水艦が一瞬でやられたというのか! そんな馬鹿な!」
思わず驚きの声を上げてしまった鮫島に加治木が不安そうな表情を見せた。・
「閣下、これは……」
「ええい、うろたえるな。作戦第二段階に突入だ! たとえ敵がどんな化け物だろうと所詮はたかが一隻。それに対してこっちは百五十隻以上の大軍だ! 圧倒的な力の差というものを見せつけてやれ!」
鮫島の号令一下、戦艦や巡洋艦が一斉に対潜ミサイルを発射し、駆逐艦や雷撃艇が大量の機雷を投下し始めた。
「伏兵の次は物量作戦で来たか。我々に小細工は通用しないということを理解したようだな」
メインモニターを見つめながら神は皮肉な笑みを浮かべた。
「艦長、四十発以上のミサイルがこちらに向かって接近してきます」
「あわてるな、李。敵はまだ我々の位置を探知していない。これは陽動だ」
「陽動?」
「我々を発見したように見せかけて大量のミサイルを撃ち込む。そうやって我々を機雷原へと追い込むつもりだ。恐らく機雷にはセンサーが付いていて、近づいただけで爆発するに違いない。迂闊に動くとかえってやられる」
「では、どうするおつもりで?」
「どうするって決まっているさ。このまま動かずミサイルをやり過ごす。潜水艦戦の基本は『先に動いた方が負け』だからな」
その時、大きな爆発音と衝撃が『ユリシーズ』の艦体を大きく揺り動かした。
「どうした!?」
「爆発です! ミサイルが本艦の周囲で立て続けに連続爆発を起こしました」
水測員のサントスの返答に神は小さく舌打ちした。
「さてはミサイルが一定の距離に到達したら自動的に爆破するように設定していたな。鮫島め、食えない奴だ……。<セイレーン>、大丈夫か?」
――大丈夫。突然大きな音が聴こえて艦が揺れたからびっくりしたけど……。
「よし、じゃあ今度はこっちがやり返してやる。<セイレーン>、敵が投下した機雷を全て爆破できるか?」
神の言葉に李が驚いた。
「そんな、無茶です! 敵が投下した機雷の数は全部で二百を越えます。いくら彼女が特殊な能力を持っているからといってあまり無理をさせると――」
「無理なのは承知の上で訊いている。どうだ<セイレーン>、やれそうか」
――今までやったことがないからわからないけど、でもジンがやれって言うならやってみる。
「ようし、いい子だ。お前の力の真の恐ろしさを帝国軍の奴らに見せてやれ」
やがて、神の付けているマイクから哀愁を帯びた「歌」が聴こえてきた。「歌」は波紋のように海中を伝って、はるか数十km彼方の第三艦隊まで届いていく。
次の瞬間、第三艦隊が投下した二百個以上の機雷が全て爆発した。
「なっ、何だ!? 一体何が起こった!」
突如艦隊の周囲で起こった大爆発に鮫島が絶叫した。
「きっ、機雷が! 機雷原が爆発しました!」
「何だと! 原因は何だ!」
「わかりません! ただ今調査――」
そう答えようとした通信士官の声が途切れ、次いでその顔が見る見るうちに蒼ざめていった。
「歌だ……」
「何?」
「歌が……歌が聴こえます……あの真珠湾攻撃の時と同じ歌声が……」
「何だと!」
その時、戦艦『金剛』の艦内放送用のスピーカーからも暗い哀愁を帯びた歌が流れてきた。天使のように無邪気で、そして悪魔のように残酷な「死の妖精(セイレーン)」の歌声が……。
士官の一人が声を上ずらせる。
「おい……一体誰だよ……こんな時に変なBGMなんか流しやがってよ……今は戦闘中だぞ……やめろ……やめろよ……やめろっつってんだよ!」
たちまち艦橋だけでなく艦内にいた全ての乗員が恐慌状態に陥った。そしてその恐怖と動揺は次第に他の艦へと伝染していった。
「ええい、うろたえるな! これは敵の罠だ! 落ち着け! 落ち着けと言っとろうが!」
顔を真っ赤にして大声で喚き散らす鮫島の耳に再び雷鳴のような爆発音と通信士の悲鳴に近い叫び声が飛び込んできた。
「敵の雷撃です! 駆逐艦十二隻が通信途絶……!」
「なっ……!? 十二隻の駆逐艦がたった一回の雷撃で全て沈没しただと!? そんな馬鹿な! 帝国の最新鋭潜水艦の伊四〇〇型でも一度に撃てる魚雷の数は最大八発だぞ! それを一度に十二発の魚雷を撃ち、しかも全弾命中とは……敵の潜水艦は化け物か!」
鮫島の叫び声が終わらぬうちに今度は別の通信士が悲鳴のような叫び声を上げた。
「駆逐艦『浜風』より入電! 敵魚雷、第二波襲来! 空母『信濃』、『紀伊』に接近!」
「しまった! 空母が! 回避だ! 回避!」
「駄目です! 間に合いません!」
通信士の絶叫とほぼ同時に、『金剛』の前方を航行していた『信濃』、『紀伊』の二隻の空母の周囲にそれぞれ六本の水柱が天をも揺るがすような轟音と共に立ち上った。
呆然となすすべもなく立ち尽くす鮫島の目の前で、帝国海軍が誇る十万t級の空母二隻が業火に包まれながらゆっくりと海中に沈んでいった。
それからわずか一時間後、帝国海軍第三艦隊は駆逐艦三十六隻、軽巡洋艦二十四隻、重巡十八隻、空母二隻の艦艇を失い、その数を半数にまで減らしていた。
天国に一番近い島といわれるニューカレドニア島を目指していた艦隊が一隻、また一隻と爆音と炎と黒煙を噴き上げながら暗い冥海の奥底へと沈んでいく。
その地獄のような光景を鮫島中将以下、第三艦隊司令部の幕僚たちはまるで死者の葬列を見送るように声もなく見つめていた。
「艦隊が……わしの艦隊が……」
鮫島が全身を震わせながらひび割れた声を絞り出す。
と、突然『金剛』のメインスクリーンの映像が切り替わり、陰険な目つきをした少年の姿が映し出された。
「こっ、皇帝陛下……!」
「鮫島よ。そなた一体何をしておるのだ」
画面の向こうから聞こえてくる皇帝の声は陰険を通り越して険悪の域にまで達していた。
「ひっ! もっ……申し訳ございません!」
「申し訳ない? たかが一隻の潜水艦相手に一個艦隊をむざむざと壊滅させておきながら謝罪一つで済むと思うてか!」
「そっ、それは……」
皇帝の突き刺すような険しい視線に見すえられ、鮫島の額から冷や汗と脂汗が滲み出た。
「陛下のさらなる御不興をこうむるのは承知の上で申し奉ります! もはや敗勢は如何ともしがたく、かくなる上はいったん撤退し……」
「ほう、『南海の人食い鮫』の異名を取るそなたが撤退などという言葉を口にするか……。そなた、一体どこまで余を失望させれば気が済むのだ」
「はっ、しっ、しかし……」
「ともかく、撤退など認めぬ。そもそもこの大日本帝国にそなたのような敗軍の将の逃げ場所などあると思うな」
「そっ、そんな……。陛下は小官だけでなく第三艦隊二十万の将兵までお見捨てあそばすおつもりでございますか」
「誰が見捨てるなどと言った。人聞きの悪いことをほざくな。余に策がある。三十分だ。あと三十分だけ持ちこたえろ。さすれば余がそなたの尻拭いをしてやろう。あと三十分、どんな犠牲を払ってでも『神龍』を現在の海域に釘づけにしておけ、よいな」
三十分という時間をやたらと強調して、皇帝からのホットラインはまたも一方的に切られた。
「最初から勝てるなどとは思っておらなんたが、敵にかすり傷一つ負わすことすらできず、ここまで一方的にやられるとは……。全く、何という不甲斐ない奴だ……」
第三艦隊との通信を打ち切ると、皇帝は大きな舌打ちをして大本営の会議に座を連ねる軍の最高幹部の一人に陰険な視線を向けた。
「空軍幕僚長、<竜殺し(ドラゴンスレイヤー)>の準備はできておるか」
「はっ、すでに……」
飛鳥井雅世幕僚長がためらいがちに答える。
「ではラバウルの空軍基地に命令を下せ。第三艦隊が敵と交戦している海域に向けて、ただちに『轟雷』を発射せよ」
「お待ちください!」
休養という名目で謹慎している連合艦隊司令長官代理として御前会議に出席していた近衛が椅子を蹴って立ち上がった。
「第三艦隊は連合艦隊に所属している艦隊です。せめて司令長官の御承諾を得た上で――」
「黙れ!」
突然皇帝の怒声とテーブルを叩く音が鳴り響き、その場にいた全員が思わず首をすくめた。
「連合艦隊は姉上の私兵ではないぞ。それとも何か、連合艦隊は司令長官の裁可なくば、たとえ余の命であっても服さぬというのか」
「いえ、決してそういうわけでは……。しかしいくら何でもこのような方法は……」
「では他にどんな方法がある。第三艦隊が身を挺して『神龍』を釘づけにしておる今こそあの化け物を倒す絶好の機会ではないか。もしこの好機を逃せば、さらなる犠牲が増えるであろう。もし連合艦隊ことごとく壊滅し、姉上が『大和』もろとも『神龍』の餌食になるような事態に相成ればどうする? そなた、責任が取れるのか」
「……いえ」
「ならば黙っておれ。第三艦隊の将兵には、このまま敗者として犬死にするよりも、せめて帝国最強の敵を道連れに玉砕したという名誉を与えてやる。それにこの一撃をもってすればオセアニア連邦も我が帝国の軍門に下り、此度の戦争を早期終結へと導くであろう。そう思えば第三艦隊と数十万の将兵の命など安いものだ。さあ、空幕長。ラバウルに余の命を伝えよ。珊瑚海目がけて『轟雷』を撃て!」
その頃、第三艦隊はすでに『金剛』以下、五十隻以下にまで撃ち減らされており、もはや艦隊としての戦闘能力をほぼ完全に失っていた。
「参謀長、皇帝陛下が仰せになった時間まであと何分だ……?」
完全に血の気を失い、ほとんど亡者同然と化したような顔で鮫島は尋ねた。
「はい、あと五分です」
加治木もまた鮫島と同じく亡者同然のような落ちくぼんだ眼をして答えた。
「あと五分……あと五分持ちこたえろ……。そうすれば皇帝陛下が何とかしてくださる。あと五分……あと五分でこの戦闘は終わる。そうすれば生きて本土に帰れるぞ……。本土でわしの帰りを待ってくれている女房と娘たちに生きて会える……」
気が触れたようにそうつぶやき続ける鮫島の耳に突然無線士の叫び声が飛び込んできた。
「レーダーに反応あり! ラバウル空軍基地より急速に接近してきます!」
「空軍? 援軍か!? やった! 助かったぞ! 味方の爆撃機だ!」
「いえ、爆撃機ではありません! この速さは――ミサイルです!」
「へ? ミサイル?」
次の瞬間、『金剛』の上空約三千mにおいて、弾道ミサイル『轟雷』に搭載された水素爆弾が炸裂し、半径五十kmにも及ぶ巨大な白熱した火の玉となって、第三艦隊の残存艦艇と鮫島中将以下十万の将兵をことごとく呑み尽くし、そして焼き滅ぼした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます