帝国の黒い影

「姉上、そう畏まらずに面を上げられよ」

 低く下げた頭の上から老人のように生気の乏しい陰気な声が降ってきた。薫子はよりにもよって自分の弟に対して跪かねばならぬという屈辱の念を押し殺すように、さらに深く床に額がつくほどに面を伏せた。

 薫子が跪いている場所から十mほど先には彼女の弟が黄金と宝石で飾られた豪奢な玉座に座っていた。玉座の傍らには侍従長の金城が立っている。

 生来弱視であるという皇帝の「眼」を保護するためという理由で、謁見の間の照明は最小限に抑えられ、真昼でも分厚いカーテンで窓を覆っているため、年中薄暗く、薫子は自分がまるで冥界の魔宮にでもいるような不気味さを感じていた。

「此度の真珠湾での災難、余もすでに聞き及んでおりますが、姉上が御無事であったというだけでも何よりの果報というもの。まことに御苦労でございましたな」

「皇帝陛下より賜りし多くの兵士と艦艇を失い、大罪を謝する言葉もございません。かくなる上はいかなる処罰も覚悟いたしております」

 目の前にいるのが一天万乗の君とはいえ実の弟であるにもかかわらず、薫子は切り口上でそう答えた。

「勘違いされては困りますな姉上。余は何も貴女の罪を問うために帝都への御帰還と皇宮への参内を願うたわけではありません」

 聞き分けのない子供を相手にしているかのように少年皇帝はかすかに眉をひそめた。分厚い眼鏡の奥にある眼に苛立たしげな光が宿っている。

「真珠湾で土をつけられたといってもたかだか二十隻程度の損害ではありませんか。その程度のことで連合艦隊司令長官の首を飛ばしたとあっては余の鼎の軽重が問われることになりましょう。それに聞くところによれば、姉上は『陸奥』を盾にして被害を最小限に抑えられたというではありませんか。海軍大臣も軍令部総長も姉上の水際立った作戦指揮には感心しておりましたぞ」

「……左様でございますか」

 口ではそう言ったものの、海軍大臣と軍令部総長の二人が、常日頃から自分が連合艦隊司令長官の座にあることを心中快く思っていないことを知っている薫子は皇帝の言葉が偽りであることを見抜いていた。

「ところで、その『陸奥』のことでございますが――」

「ああ、それもすでに聞き及んでおります。『陸奥』の乗員に対しては全員三階級特進、遺族年金は二倍ではなく三倍増額、またそれぞれの階級に応じた勲章を授与の上、直江大佐改め直江中将には特別に正四位の位を追贈することといたしましょう」

「皇帝陛下の御厚情、ありがたく存じたてまつります」

「何の。我が大日本帝国の第一皇女である姉上をお守りするために死んでいった『陸奥』の乗員たちこそまさに愛国忠烈の勇士というべき存在。彼らの死に存分に報いることによって帝国二十億の臣民たちに対する鑑といたしましょう」

 殊勝な態度で礼を述べる薫子に対し薄明りの向こうの皇帝がかすかに笑みを浮かべたように見えた。

「……ところで陛下に一つお願いしたき儀がございます」

「何でしょう?」

 薫子はそれまで伏せていた顔を上げて、きっと正面の皇帝の姿を見すえた。

「御寛恕あってわたくしめを連合艦隊司令長官の職に留め置かれるのであらば、どうか真珠湾で討たれた部下の復仇の機会をお与えくださいませ」

「ほう、今時仇討ちなどとは姉上も随分と面白いことをおっしゃる。その心意気や良しと言いたきところですが、旧世紀の時代ならばいざ知らず、この現代においてはいささか時代錯誤な思想であると申し上げざるを得ませんな。報復や弔い合戦などは配下の将兵たちに任せて、姉上はしばらくこの帝都でごゆるりと休養なされよ」

「しかし――」

「姉上」

 抗議の声を上げようとした薫子を皇帝がさえぎった。その眼には蛇のように冷たい光が宿っていた

「姉上が帰国後に受けられた健康診断の結果が余の元にも届いておるが、普段より血圧が二十以上も上昇しておるし、軽いストレス反応も見られる。そもそも部下の敵討ちがしたいなどという言葉が出てくること自体、冷静さと平常心を失っておられる証拠ですぞ。いくら連合艦隊司令長官とはいえ、そのような者に艦隊の指揮を任せるわけにはいきませぬ。いずれ姉上には存分に活躍の機会を与えて差し上げますゆえ、今は心身共に充分落ち着くまでしばらく静養なされよ。これ以上何か余の言葉に異論でもおありか?」

「……いえ、承知いたしました」

健康診断の結果などを理由に出戦を禁じる弟の陰険さに改めて怒りを感じながらも、薫子は辛うじて自分を抑え、謁見の間から退出した。

薫子が自分の前から退出した後、皇帝は侍従の金城に命じて海軍大臣の西園寺公広と軍令部総長の冷泉隆景を呼び出させた。

 三十分近く経ってから、背が低くでっぷりと肥った海軍大臣と、それとは対照的に長身で痩せぎすの軍令部長の二人が現われ、皇帝の前に跪いた。

「余が命じてから参内するまでおよそ二十七分、随分と遅かったではないか。待ちくたびれたぞ」

いきなり皇帝から冷ややかな言葉を浴びせられ、海軍大臣の西園寺は思わず肥満した体を震わせて恐懼した。

「まっ、まことに面目ございません。此度の突然の開戦で省内の準備が整っておらずてんやわんやの状況でございまして、それで――」

「戦争がいつ始まるかなどということがカレンダーや予定表に載っているとでも思っておるのか。陸海空の三軍に対しては常に臨戦体制でいるように常々申し渡しているはずだ」

「もっ、申し訳ございません」

日頃の怠慢を責めるかのような皇帝の言葉に西園寺はさらに恐縮してみせた。

「それにしても、初戦でいきなり敵に先手を打たれ、空母三隻を失ったというのは痛いな。第一航戦には沈没した赤城、加賀に代わって第四艦隊の大鳳、祥鳳を、それに第二航戦には蒼龍に変わって第五艦隊の雲龍を転属させることにしたが、おかげで他の艦隊の航空戦力が手薄になってしまった」

軍令部総長の冷泉が厳しい視線を皇帝に向ける。

「まことに畏れ多き言葉ではございますが、やはり皇女殿下には連合艦隊司令長官の職はいささか荷が重すぎたのでは……」

「言うな冷泉。それを言うと姉上を司令長官に任命した余の任命責任ということになってしまう」

「はっ……」

「確かに姉上は連合艦隊を率いるにはまだまだ力量も経験も不足している。だが大日本帝国の第一皇女として、ゆくゆくは余の片腕になってもらわねば困る。それゆえにあえて司令長官に任命すると共に近衛のような優秀な参謀をつけさせて、いわば修行をさせておるのだ」

「それは重々に承知いたしております」

「それに姉上はああ見えて決して無能ではない。近衛の献策があったとはいえ、『陸奥』一隻をあえて犠牲にして他の艦を守るというような冷徹な作戦を決断し実行させたことは評価――というよりむしろ賞賛に値する。ただその決断と実行のタイミングがいささか遅すぎたのと、そして何より相手が悪すぎた。何せ敵があの『神龍』ではな……」

 皇帝の口から『神龍』という単語が出た途端、西園寺と冷泉の顔色が激変した。

「まさか! あの『神龍』が!?」

「余もまさかとは思うておった。これを聴くまではな」

 皇帝が手に持っていた王笏を一振りすると、いかなる仕掛けによるものか、広間のどこからか少女の歌声が聴こえてきた。

「これは……!」

「連合艦隊が真珠湾攻撃を受けた際に、駆逐艦の一隻が録音したものだ。他にも複数の艦艇の通信士が戦闘中にこれと全く同じ歌声を傍受したと証言しておる。これは紛れもない世界でも唯一、『神龍』だけに搭載されていた<セイレーン・システム>によるものだ。そう考えれば全て符牒が合う」

「しかしそんなはずは……! 『神龍』は確か二年前の事故で沈んだはずでございます!」

「沈んだのではなく沈めたのであろう。そなたら海軍の手によって」

 皇帝の冷たい目つきで真正面から見すえられ、西園寺と冷泉はむっつりと黙り込んでしまった。

「確かに公式記録では『神龍』は二年前の実験航海の時に、マリアナ海溝付近で原子力機関の事故によって沈没したとされている。だが、実際には『神龍』の艦長である神征士郎大佐が叛乱を起こすのを恐れた海軍の上層部が『神龍』もろとも神大佐を抹殺した――それが事実ではないのか」

 皇帝に詰問され、西園寺が降参したように口を開いた。

「……おっしゃる通りでございますが、皇帝陛下におかれましてはそのような海軍内部でも最高機密とされている情報をいかにしてお知りあそばされたのでございますか」

「いかにしても何も海軍省のコンピューターから直接入手したまでだ」

「まさか、コンピューターをハッキング――!?」

「して悪いか。余はこの国の皇帝だぞ。海軍の最高機密だろうが何だろうが知って何が悪い。それとも何か? 海軍は余に知られて都合の悪いことでも隠しておるのか」

「……いえ」

「それはともかく、この神征士郎という男、なかなか波瀾万丈の人生を送ってきたようだな」

 皇帝が手に持っていた王笏を、今度は宙に向けると、広間の中央に三次元スクリーンが現われ、三十前後とおぼしき若い精悍な顔つきをした海軍士官の映像とそのプロフィールが映し出された。

「神征士郎、皇紀二千六百七十一年上海生まれ。二千六百八十五年、十四歳の時に第七次上海事変に巻き込まれ両親が死亡。その後、遠縁の親戚であった神辰徳男爵夫妻の養子となり、翌年、海軍士官学校に入学、二千六百九十一年に士官学校を首席で卒業、海軍でも十年に一人の逸材といわれ、わずか二十八歳の若さで大佐にまで昇進し、厳重な審査を経て海軍の最新鋭原子力潜水艦『神龍』の艦長として特別に抜擢されるも、その直後、財務大臣として緊縮財政を行ない、大幅な軍縮を主張していた養父の神男爵が夫人もろとも海軍の若手士官が起こしたクーデター未遂、いわゆる五.三〇事件によって暗殺される……なるほど、表の経歴は確かに立派だが、しかし裏の経歴を見れば、実の両親も、そして養父母も両方とも軍が関係する事件で死亡している、いわば帝国軍に生みの親と育ての親の両方を殺された札付きの危険人物ではないか。よくもまあ、こんな男を『神龍』の艦長に選んだものだな」

「はあ、上海事変の件に関しては当時の正確な記録が隠蔽され、いえ、情報が残っておらず、それに神男爵の件に関しましては、まさか五.三〇事件のようなテロで男爵が暗殺されるとは思いも寄らず……」

 弁明する西園寺を皇帝が一喝した。

「嘘をつけ嘘を! 五.三〇事件もそなたらが後ろで糸を引いていたというのはすでに判明しておるのだぞ。海軍省のコンピューターにその方ら二名の他、海軍の複数の幹部が二年前の正月、新橋の料亭で新年会と称して神男爵の暗殺計画の謀議を練っていた、そんな記録まで残っておったわ」

「そっ、そっ、そっ、それは……!」

「安心しろ。口外はせぬ。今この時期に海軍の一大不祥事などが外部に漏れたら、戦争などやっている場合ではなくなるからな。問題は神大佐と『神龍』だ。そなたらは神男爵の暗殺に成功したものの、男爵の養子が『神龍』の艦長であることを失念していた。そこで報復を恐れたそなたらは、実験航海中の『神龍』を護衛していた艦隊に命じて、『神龍』を攻撃させ撃沈させた。そうではないのか」

 皇帝の厳しい追及の前に西園寺と冷泉は床に額を打ちつけるほどに平伏した。

「おっしゃる通りでございます! さすがは皇帝陛下、お見事な推理でございます!」

「余は別にシャーロック・ホームズの真似事をやっておるわけではない。ただ、事実を確認しておるだけだ。しかし撃沈したといっても実際に『神龍』を攻撃した艦隊からの報告を読めば、撃沈した後、『神龍』の破片の一つも、また乗組員の遺体の一つも発見できなかったそうではないか。よくそれで『神龍』が確かに沈んだなどと言えたものだな」

「場所が場所だけにてっきりマリアナ海溝に沈んだものだとばかり……」

「確かめたのか?」

「は?」

「は? ではない。マリアナ海溝の底まできちんと調べたのかと訊いておるのだ。余の手元にあるデータによれば『神龍』は水深七千mまで潜航可能な海の怪物なのだぞ。である以上そこまで徹底して調べねば調べたうちに入らぬであろう」

「……調べておりません」

「話にならんな」

 皇帝は小さくため息をついた。

「ともかく、真珠湾を攻撃した正体不明の謎の敵が『神龍』であると見て間違いはなかろう。何故ならアメリカやオセアニアなどに『神龍』のような兵器を開発する技術はないし、そもそもあれは単に科学技術のみならず、我が帝国のような国家体制であってこそ、初めて開発できるものだからな。だが、軍部によってひそかに葬り去られたはずの『神龍』が実は生き残っていて、アメリカやオセアニアの手に渡っていたとしたら、この大日本帝国にとって重大な脅威となると同時に、世界の軍事バランスが大きく崩れるようなことにもなりかねん」

「恐れながらそれほどの兵器なのですか。『神龍』というのは……」

 西園寺が首を傾げるのを皇帝は呆れたような眼で見やった。

「そなた、ひょっとして『神龍』のスペックを知らんのか?」

「いや、一度性能表とやらを見せられたような記憶はございますが何やら小難しい専門用語やら数字やらがいろいろ並んでいまして私にはさっぱり……」

「そなたそれでも海軍大臣か」

 皇帝から陰険な眼を向けられ西園寺は狼狽した。

「いやっ……あの……その……私の職務はあくまで軍政ですのて実際の兵器の性能とかそういうのはあまり……。不勉強だというお叱りを受ければまことに返す言葉もございませんが、もしよろしければ『神龍』の性能を簡潔に、できるだけわかりやすくご説明いただけますでしょうか」

 仕方がないといった様子で皇帝はやや考え込むような仕草を見せた。

「そうだな……。簡潔に、できるだけわかりやすく説明するならば……『神龍』一隻だけで連合艦隊全軍と互角に渡り合えるほどの性能だ」

の性能だ」

「なっ……!」

 西園寺と冷泉の二人は思わず絶句した。

「まさか、そんな! 連合艦隊は戦闘艦だけでも総数七百隻、その他の補給艦や工作船などの支援艦艇をも含めれば総数一千隻を越える世界最強の大艦隊ですぞ! それをまさか一隻でなどとは陛下もあまりに御冗談が……」

「冗談ではない。現に真珠湾では連合艦隊のほぼ三分の一に当たる三百隻もの艦隊が一方的にしてやられたではないか」

「あっ、あれは皇女殿下が無能だったから――」

「大臣! それ以上は――!」

 冷泉が慌てて西園寺の口をふさいだ。皇帝がそんな二人に白い眼を向ける。

「……今の発言は聞かなかったことにしておこう」

「ともかく、『神龍』がそれほどまでに危険な兵器ならば早急に対策を講じませんとなりませんな」

「案ずるな。すでに対策は講じておる」

 冷泉の言葉に皇帝が答えた。

「空軍に命じて、ハワイとラバウルの空軍基地にそれぞれ千機、合計二千機の戦略爆撃機『大鵬』を集結させつつある。これらの爆撃部隊をもって、南洋諸島だけでなく、オーストラリアやアメリカ西海岸にある主要都市や軍港を全て焼き払ってくれるわ。さすれば『神龍』も帰る家をなくすであろう。いかに無敵の潜水艦といえども上空一万mを飛行する大型爆撃機には手も足も出まいし、それに補給基地を全て失ってしまえば、いずれ食料も弾薬も尽きよう。そこを狙って我が帝国の総力をもって叩き潰してくれる」

「相変わらず陰険、いえ、用意周到な策でございますな。しかしアメリカとオセアニアに向かって侵攻中の第二艦隊と第三艦隊はいかがいたしますか。もし『神龍』が次に狙うとすれば、両艦隊のいずれかである可能性が非常に高いと思われますが……」

「それも案ずるな。第二艦隊の司令官は、先の大戦において我が帝国を勝利に導いた最大の殊勲者であるあの山本五十六元帥の孫で、海軍内部でも『偉大なる祖父に匹敵する知将』との誉れも高い山本中将、そして第三艦隊の司令官は、『南海の人食い鮫』の異名を持つ猛将鮫島中将だ。いかに『神龍』が桁外れの性能を持つ超兵器であろうとも、両名ともそう簡単にはやられはせぬであろう。それにたとえ第二、三艦隊が敗れたとしても、次の一手は用意してある」

 そう言って口元を歪め冷笑を浮かべる皇帝を見ながら、西園寺と冷泉の二人は背筋にかすかに冷たい電流が走るのを感じた。

 皇帝がこうした表情を見せる時は決まって、常人が思いもつかないような陰険で、かつ辛辣きわまりない策略を巡らせている時であると彼らは知っていたのだ。

「さて、以上で余の話は終わりだが、最後にそなたらに言っておくことがある」

「……何でございましょうか」

「今度から料亭を使う時は公費を流用するのではなく自腹を切れ。もし今後そのようなことがあったらその分の費用をそなたらの給与から差っ引くからな。あと、『神龍』の件に関しては姉上にはしばらく伏せておくように。いずれ機会が来たら余が直々に話すゆえ……」

「……かしこまりましてございまする」

 密議が終わり、西園寺と冷泉が立ち去った後、皇帝は玉座に座ったまま、傍らにいる金城にも聞こえるか聞こえないほどの小声でつぶやいた。

「神征士郎か……」

 皇帝の横顔に陰惨な影が差す。

「そなたがこの大日本帝国を憎む気持ち、わからんでもないが、かといってむざむざと余の首をくれてやるわけにもいかぬ。帝国二十億の臣民のため、そなたにはあの魔女と共に今度こそ本当に死んでもらおう……」


「もう何なのあの陰険な性格! ホントむかつくわ!」

 憤懣やるかたないといった様子で、薫子は部屋に飾ってあったブタのぬいぐるみをベッドに叩きつけた。

「でもある意味よかったではありませぬか。これでしばらくゆっくり内地で御休養なさることができるのですから。これもひょっとしたら皇帝陛下なりの皇女殿下に対する思いやりなのかもしれませんよ」

 ブタのぬいぐるみを元の位置に直しながら近衛が言った。

「はっ! あの子の辞書に思いやりなんて単語が載っていたらそれこそサハラ砂漠に雨が降るわ」

「お言葉ながら殿下、砂漠にも乾季と雨季というものがございまして――」

「だ・か・ら! そういうウンチクはもういいって! だいたい思いやりっていうんだったらあれは何なのよ!」

 そういって薫子は窓のカーテンを乱暴に開け放った。外には赤坂御用地内にある彼女の私邸の周囲をぐるりと取り囲むように近衛師団の兵士たちが完全武装で立ち並んでいる。

「あれ御覧なさいよ! どう見ても軽く一個中隊ぐらいいるわよ! おまけに門のところには御丁寧に戦車まで停めてあるし! ゆっくり静養してストレス取れとか言いながら私のマイホームを近衛師団の兵士で取り囲むなんてどう見ても体のいい軟禁じゃない! これじゃ余計ストレスがたまるわ! ホントあの皇帝は人をムカつかせる天才だわね!」

「それは何せ真珠湾の一件は国家機密とされて、マスコミにも『アメリカ・オセアニアの連合軍から攻撃を受けた』といった程度のごく限られた情報しか公開されていませんからねぇ。そうやって政府や軍部が情報統制しているにもかかわらず、連合艦隊の司令長官ともあろう御方が学習院の御学友の方々と一緒にまたふらふら渋谷とかに出かけられて、謎の潜水艦に攻撃されて空母三隻失ったとか、そんなことべらべらお喋りになられたりしたら後が厄介ですからねぇ」

「何よそれ。まるで私の口が軽いみたいじゃない」

「いえ、そんなことは……。あくまで皇帝陛下とお比べしたらという話です」

「何それ? 比較の対象悪すぎ! もう、どうしてみんなそうやって、事あるごとにあの子と私とを比べたがるのかしら。嫌になっちゃう……」

「それはもう何といっても御姉弟であらせられますから」

「姉弟ねぇ……」

 ビロードの天蓋付きの豪華なベッドにごろんと寝っ転がりながら薫子はつぶやいた。

 姉弟とは言いつつも、実は薫子は皇帝と同じ屋根の下で暮らした経験は一度もない。

 薫子は産まれた時から両親である先帝夫妻の下で育てられたが、弟だけは「将来大日本帝国の皇位を継ぐ特別な御子」として、皇宮から少し離れた「御文庫」と呼ばれる場所で侍従や女官たちの手によって養育され、顔を合わせるのは年に数回、正月の儀や天長節(皇帝の誕生日)など特別な日のみであった。

御文庫は百年以上前に皇族用の防空壕として建てられたといわれる鉄筋コンクリート製の堅牢な建物で、薫子は中に入ることはおろか近づくことさえ許されなかった。

 弟はその「御文庫」の中で何か特別な教育が施されているらしく、白衣を着た学者や医者らしき男たちや看護婦などが頻繁に出入りしていた。

 学齢期になると、薫子は他の皇族や貴族の子弟と同様に学習院に入学したが、弟は学校に行かされることもなく、代わりに「御文庫」の中で家庭教師を付けられているようだった。

 弟のことで一つだけ強く印象に残っている出来事がある。

 あれは薫子が確か十歳の時だ。入浴を終え、付き添いの女官に伴われて皇宮の二階にある自分の寝室に行こうとしていたその時、偶然前を通りかかった部屋のドア越しに母のすすり泣く声が漏れ聞こえた。

 母は皇帝である父に対して弟の養育のことで何か苦情を訴えているようだった。その時の会話の内容はほとんど覚えていないが、ただ一つ、母が泣きながら「あれは教育などというものではありません。ほとんど人体実験ではありませんか」と言っていたその一言が今もなお薫子の記憶の中に残されていた。

 その五年後、父母は友好国であるドイツ連邦を親善訪問したその帰国途上、不慮の飛行機事故で共に亡くなり、「御文庫」から侍従たちによって手を引かれるように出てきたわずか十二歳の弟が、大日本帝国皇帝の皇位を継ぎ、それに伴って薫子もまた女性宮家の創設を許され、皇宮からこの御用邸に移り住んだ。

 それから二年の月日が経ち、皇帝となった弟と、その弟から連合艦隊司令長官に任ぜられた薫子は、以前と比べると頻繁に顔を合わすようになったが、それでも彼女は、いつ見てもまるで冷血な爬虫類のように無感情かつ無表情で、しかも絶えず陰気で陰険なオーラをまとっているような、およそ少年らしい可愛げさや稚気というものを一切感じさせない弟に対して、嫌悪――とまではいかずともなかなか親近感を抱けずにいた。

にいた。

「ねえ、近衛」

「はい」

「そなた、弟がまだ皇帝になる前のことについて何か知っていない?」

「いえ、知りません」

 急に顔色を変え近衛が即答した。

「何か知ってるっぽいわねぇ。現にそなた、私が子供の頃のことはこの私以上に知ってたりするじゃない」

「それはもう、皇女殿下のことは殿下がまだピンクのおむつをしていらっしゃった頃よりよく存じ上げておりますから」

「ピンクのおむつは余計よ! ていうかほら! 私のことはそこまでよく知ってるそなたが何で弟のことは知らないのよ」

「それは、皇帝陛下は御幼少のみぎりよりずっとあの『御文庫』の中で――」

「そうよ! その『御文庫』よ!」

 急に薫子が大声を出したので、近衛は思わずぎくっとなった。

「『御文庫』の中であの子がどんな育てられ方をしていたのか。そなたなら少しは知っているでしょう?」

「いいえ、私は何も……」

 急に何かに脅えるように深刻な顔をして近衛は口ごもったが、薫子はそれに構わず喋り続けた。

「そもそも今になってよく考えてみれば、あの『御文庫』っていう建物自体が怪しすぎるわ。先の大戦の時の防空壕か何か知らないけれど、宮殿の中にあるのにまるで病院や研究所みたいな形をしていたし、それにしょっちゅう学者や医者みたいな連中が出入りしていて……。あとそれに亡くなったお母様が人体実験がどうとか――」

「皇女殿下!」

 突然近衛が怒鳴りつけるような大声を上げて薫子のお喋りをさえぎった。

「なっ、何よ突然……」

「これ以上皇帝陛下の御幼少時代のことや『御文庫』のことには触れてはなりませぬ。さもないと皇女殿下のお命にも関わりますよ」

「お命とかそんな大袈裟な……」

「大袈裟ではありません。ここだけの話ですが、皇帝陛下の御養育に携わった人間は侍従や女官たちから料理人に至るまで、たった三人を除いてほとんど全員が陛下の御即位直後、錦衣衛によって極秘裏に処刑されたと聞いております」

「錦衣衛ってあの皇帝直属の特務機関の……」

 薫子の顔が急速に蒼ざめた。

「この一事だけでもおわかりでしょう。皇帝陛下の御幼少期のことは、この帝国でも決して触れてはならぬ最大のタブーの一つとされているのです。ですから皇女殿下といえどもこの件は一切口外まかりませぬ。よろしいですね」

「……はい」

 近衛の剣幕に押されるように薫子は素直にうなずいた。

「では私はこのへんで失礼させていただきます。少し調べ物がありますので……」

「調べ物って……」

「潜水艦のことです」

「潜水艦?」

「もうお忘れになられたのですか。真珠湾で我々の顔に泥を塗ってくれたあの謎の潜水艦のことですよ」

 そう言い残して、近衛は薫子の元を辞し、部屋から出ていった。


 それから三日後、神宮外苑において、アメリカ・オセアニアとの開戦直後に中国の四川省で起きた大規模な反乱を鎮圧するために出征する陸軍第一陣の閲兵式が皇帝臨席の下で行われた。

「今度は中国大陸で火の手が上がるとは、まるで謀っていたようなタイミングね……」

 皇族の一人として、また海軍の代表の一人として特別閲覧席に座っていた薫子が傍らに立っていた近衛に話しかけた。

「実際謀っていたのでしょう。中国国民党政権の残党や共産ゲリラをアメリカが支援しているのは公然の事実ですから」

「で、大本営は敵が仕掛けてきた二正面作戦にどう対処なさるおつもりなのかしら」

 薫子は皮肉っぽい視線を少し離れた場所に座っている陸軍大臣の東条日出樹と参謀総長の石原幹事の横顔に向けた。

「陸軍はこの反乱を鎮圧するために総勢百万の大軍を大陸に派兵する方針だそうです」

「百万! たかが中国の地方反乱に陸軍総兵力の五分の一を一気に動員するなんて相変わらずこの国はやることが派手ねぇ」

「地方反乱とはいっても中国は歴史上、幾度も大規模な農民反乱が繰り返された地ですし、それに獅子は鼠を倒すのにも全力を出すというのが帝国軍の基本戦略ですから」

「で、大陸はそれで抑え込めるとして、肝腎の海の方はどうなのかしら」

「それもご心配なく。すでに空軍の戦略爆撃部隊がロスアンジェルスとポートダーウィンを空爆、さらに第二艦隊と第三艦隊がそれぞれハワイとトラック島を出撃して、それぞれアメリカ西海岸とオーストラリアを目指して西進しています。両艦隊によってアメリカとの連絡線を断たれれば、孤立したオセアニア連邦が降伏するのも時間の問題でしょう」

「ふん、戦略兵器で相手を散々痛めつけておいてから戦術兵器でとどめを刺す。いかにもあの子らしい陰険なやり口ね」

 薫子はかすかな嫌悪感を込めて、天覧用の玉座に座り無機的な表情で軍事パレードを眺めている皇帝の方を振り返った。

 近衛に堅く口止めをされていたが、それでも彼女の弟に対する疑念は澱のように心の奥底に残っていた。

「まあ、陰険といえばそうなのかもしれませんが、しかし戦略的に見れば正しい手法であることは間違いありません」

「それが何か気に入らないのよねぇ。こと政略や戦略の次元の話になると、あの子の陰険さが逆に長所に変わるんだから。ひょっとしたら人間とか国家なんていうのは実はとんでもなく邪悪な代物なんじゃないかしら」

「案外そうかもしれませんね」

「いや、そこは否定しなさいよ。でないと私、世をはかなんで高野山に出家しちゃうかもしれないわよ」

「恐れながら殿下、高野山は女人禁制でございますから」

「だ・か・ら! もうそういうのはいいって! ところで例の調べ物とやらは片が付いたの?」

「調べ物? ああ、あの謎の潜水艦のことでございますか。私なりにいろいろ調べてみましたが、どうもあれはひょっとしたら他ならぬ帝国軍が開発した兵器なのかもしれませんよ」

「帝国が!?」

 薫子は思わず大声を上げてしまい、慌てて周囲を見回した。

「ちょっと待って。帝国軍が開発した兵器が何で連合艦隊を攻撃したのよ」

「お待ちください。順を追ってお話ししますから――。実は今から一〇年前、海軍省内部において、『神龍』という名の最新鋭潜水艦を開発するという極秘計画が立てられまして――」

「『神龍』――何そのセンスのない中二病っぽいネーミングは。この国も軍艦や航空機にキラキラネームを付けるのがホント好きねぇ。飛龍だの翔鶴だの紫電改だの……」

「まあ、自分の子供にキラキラネームを付けるよりははるかにマシでしょう。で、その『神龍』の開発コンセプトなのですが『いかなるソナーやレーダーにも反応せず、またいかなるソナーやレーダーも使用せずに確実に敵艦を仕留める深海の暗殺者』というものでして……」

 薫子は爆笑した。

「何よその『ぼくのかんがえたさいきょうのひみつへいき』みたいな潜水艦は……。中二病通り越して完全に邪気眼じゃない。ひょっとしてその潜水艦の必殺技は『エターナル・フォース・ブリザード』とかいうんじゃないでしょうね。あるいは『バーニング・ダーク・フレイム』とか。アハハ……お腹痛い……」

「それが二年前に実際に開発に成功しまして……」

「へ?」

「だからその『ぼくのかんがえたさいきょうのひみつへいき』みたいな潜水艦を実際に造ってしまったんですよこの帝国は……」

「ちょ、ちょっと待ってよ! 私そんな潜水艦聞いたことも見たこともないわよ! 曲がりなりにも連合艦隊司令長官なのに!」

「それはそうです。『神龍』は開発直後の実験航海中に原子力機関の事故で沈んだということになっておりますから。司令長官に就任されてからまだ三ヶ月しか経っておられない殿下が御存じでないのも無理はありません」

「何だ。安心した」

「いや、安心していただいては困ります。軍の公式記録では『神龍』は二年前の実験航海中に事故で沈んだということになっていますが、でも真珠湾で連合艦隊を攻撃した謎の潜水艦とこの『神龍』の特長――よく似ている、というよりもほとんど同じだとお思いになりませんか」

「そう言われてみれば……」

 薫子は顎に手を当てて考え込んだ。

「もし二年前に沈んだはずのその『神龍』という名の潜水艦が、実は沈んでおらず、真珠湾で味方であるはずの連合艦隊を攻撃したのだとしたら……。ああ、何か考えすぎて頭が痛くなってきちゃった……。でも皇帝はこのことを知っているのかしら」

「恐らく……。私が聞いたところによりますと、三日前、殿下が皇帝陛下に謁見された直後、海軍大臣と軍令部総長の二人をお呼び出しになられて、一時間ほど密談されていたそうですから……」

「海軍大臣と軍令部総長を……。まーた何か企んでいるわねあの子ったら……」

「ともかく、私は引き続き『神龍』について調べるために明日にでも帝国大学の犬神博士にお会いしてきます。博士は『神龍』の開発計画に携わっていた中心人物の一人で、私の父と旧知の仲でもありますので、何か情報が聞き出せるかもしれません」

 「犬神博士」という単語を聞いた瞬間、薫子の顔が引きつった。

「犬神ってあの有名なマッドサイエン――」

「殿下! 仮にも大日本帝国の皇族ともあろう御方がこのような場でそのような下品なお言葉を口にしてはなりません!」

 近衛が慌てて薫子の口をふさいだ。

 やがて、三時間に渡る閲兵式も終幕に近づいた。陸軍大礼服に身を包んだ東条大臣が閲兵台の上に立ち、小柄な身体を精一杯大きく見せるかのように全身をふんぞり返らせながら甲高い叫び声を張り上げた。

「偉大なる大日本帝国の忠烈なる兵士諸君よ! 百年兵を養いしはまさにこの一戦にあり! 神聖不可侵なる皇帝陛下の御ために、我らが武勇を示す時ぞ! 大日本帝国万歳! 皇帝陛下万歳!」

 次の瞬間、百万の兵士たちの歓声が一斉に爆発した。

「大日本帝国万歳! 皇帝陛下万歳!」

 万歳三唱の声が響き渡る中、閲兵場からはるか中国大陸へと出征していく兵士たちの軍靴の足音が轟く。

 かつて大日本帝国の初代宰相兵藤博文は「我らが帝国は鉄と血と炎によって建設されるべきである」と豪語した。

その言葉通り、鋼鉄の兵器で武装し、幾千万の人間の生き血を喰らい、そして戦火の衣を身にまとった大帝国は、百年の時を越え、今再び東はアメリカ大陸から西は中国大陸、そして南はオーストラリア大陸へとその軍靴の音を鳴り響かせようとしていた。

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