第7話

 高校三年生の夏休みのことだった。


 今までの夏休みは文化祭の準備ばかりしていたのが、もはやその仲間に加わることすら難しくなっていた。何の役に立つのかあいまいな受験勉強に励む、不毛な日々。

 その日は午前中いっぱい数学の補講があった。終わってから、文芸の部室を覗くと後輩たちがいた。私も一緒にお昼を食べて、午後になってもまだ一緒になってしゃべっていた。


ふと手に取った漫画本から目が離せなくなり、後輩がみんな帰ってからも、一人で漫画を読み続けた。

 よほどストレスが溜まっていたのか、気づけば七巻を手にしている。さすがに疲れてきたものの、なかなか止められない。全部で二十巻以上あって、誰かに止めてもらわないと倒れるのではないか、などと頭の片隅で考え始めていた時だった。静かにドアが開いた。 後輩の誰かかと思って目をやると、そこにいたのは彼だった。


「久しぶり」

 この人に「久しぶり」なんて言わなければいけないことに違和感を覚える。もうあと半年もしたら、会うたびにそう言わなければいけなくなっているのだろうか。

 彼は私が読んでいるものを見ると、事情を察したのか、目元に笑みを浮かべた。ジャージのズボンに白いTシャツ姿で、ところどころにペンキがついている。

「三年生なのに、引退できないんだね」

「まあ、僕が勝手にやっているというほうが正しいかな」

 彼は美大を受験するつもりらしく、美術部に今でも足しげく通っているのだ。

「二年生が怒っているんじゃないの? 好きなようにできないって」

まあねと笑う彼の手には、たくさん水滴がついた清涼飲料水の缶がある。

「いいな、冷たいの。私も買ってこよう」


 今日くらい帰るのが少し遅くなってもいいだろう。自動販売機までダッシュする。部室に戻り、よく冷えた飲み物を口にすると、どっと汗が噴き出した。

「ああ、こりゃあそのうち雨だな」

 彼は、天気を読むのが得意だった。なんとなく雲の形や、空気の湿り具合でわかるらしく、時にはテレビの天気予報よりも正確なのだ。

「そうか、じゃあ止むまで帰れないね」

「降る前に帰るという発想はないんだね」

「途中で降られると嫌だから、ちゃんと止んでから帰るの」

「そんなこと言って。どうせそれを最終巻まで読むつもりなんだろう」

 ばれた? と言って笑って見せながら、もう漫画のことはどうでもよくなっていた。それよりも、久々に会ってしまったこの人と、何か話さなくてはいけない気がした。

 彼は、しばらく会っていないうちに随分と変わってしまったように思われた。いや、それは逆なのかもしれない。変わってしまったのは私かもしれない。予備校に行ってはいないものの、私はすっかり受験生になってしまっている。目に映るすべてのものを受験というフィルターを通して見るようになってしまっている。


 さほど勉強ができるわけでも好きなわけでもない私は、やれるだけやったら、後はそこそこ興味のある学部を受けるだけなのだろう。卒業した後どうするかなどまるで見えていないのに、どうして大学なんて選べるのだろうという疑問を無視できないまま、とりあえず一番無難と思われる道を選ぼうとしている。 

 しかし、彼は受験生には見えなかった。前からそうだったけど、彼はいつも他のなにかである前に、まずは彼自身なのだ。例えば図書委員をしていたときだって、図書委員である前に自分は一読者なのだと先生に宣言して、本の並べ方のことで言い争ってしまうくらいだった。一般的な分類法と自分が分類したい方法が違うだとかで、話し合いの結果、本棚一つ分だけ彼の好きなように展示をするという特別期間を設けさせるような人なのだ。そしてまたそれが、みんなの注目を集めてしまう。その展示があった期間は、明らかに本の貸出数が増えてしまうような、そんな人なのだ。


「ねえ、藍田君は、将来何になりたいの?」

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