第8話

 私は、普段は他人にこんなこと訊いたりしない。自分が答えられないことを、軽々しく人に尋ねたりできない性質なのだ。彼はそれを知っているので、驚いた様子で私を見た。

「突然どうした?」

「いや、美大を受けるというから、何か目標があるのかと」

「何かになりたいというのが目標なら、ないよ。僕にはただ、何をしたいかがあるだけだ」

 彼らしい回答だった。

「私、すっかり受験生になってしまって、最近生きていても全然面白くないの」

 自分でも何を言っているのだろうと思いながら、しかし次から次へと言葉が出てくる。

「大学に入るまでの辛抱だってみんな言うけど、結局大学に入った先輩たちは、みんな適当に勉強して適当に遊んで、四年生になったら適当に入れるところに就職してるだけじゃない。そんなもんのために、なんで今を犠牲にしないといけないの? 私達、ついこの間までは部活やったり夜まで遊んだり、文章書いたり色々していたじゃない。なのに今では、こんなわけのわかんないことばっかり毎日させられて」 

 彼はまるで石のように、じっと私の話を聞いている。

「ごめん、こんなこと言いたいんじゃなかったの。わかってる、私がもっと頭がよくて要領もよかったら、好きなことしながら勉強もして、両立できてるよね。でも、遊んでいると不安だけど、ずっと勉強だけしていると、このまま何もできない人間になってしまう気がして、怖いの」 

 気がつくと、予言どおり雨が降ってきていた。


「ありがとう、しゃべっていたら、すっきりした」

「それはそれは」

「藍田君といると落ち着くな」

 彼は黙ったまま、ほんの少し微笑んだように見えた。

「藍田君はなんで美術に興味があるの?」

「それはややっこしい問題だな。じゃあ、君はなんで音楽に興味があるのかな」

「私は……」

 物心ついたときから、気づけばピアノを習っていた。引っ越してピアノを置きにくい家に住むようになると、自然とギターに移行した。辞めようとはあまり考えなかったところをみると、やはり比較的音楽が好きなのだろうか。

「ミーハーかもしれないけど、外国人の女の子が、肩に鳥を乗せてギターの弾き語りをしている映像をテレビで見たことがあって。かっこいいなって思ったの。ギターなら、引っ越しのとき、運んでもらうのに何万かかるとか気にしなくていいじゃない。ギターを背負って旅したりできるし、かっこいいなって思ってさ」

 自分で言いながら、ふと思う。

「音楽が好きっていうよりも、そういう風景に憧れてるだけなのかな?」

「鳥や旅って、音楽と共通するものがあるんじゃないかと思うよ。音楽って、とどまっていないものだろう。楽譜やら、CDやらでその影を残すことはできても、音楽そのものはその場で消えてしまうものだと思う。それは、飛び立ってしまって帰ってこない鳥や、一つのところにとどまれない旅という行為と通ずるものがあるだろうね」


 からからになっていた心に水が沸き上がり、広がっていくようだった。その流れに乗れば、私にだって何でもできるし、どこにでも行ける気がした。

 でもきっと、私はとどまる人なのだろうと思う。だからこそ、そういったものに憧れたり固執したりするのだ。手に入れることができないものだからこそ、引き寄せられるのだ。そして、彼はとどまらない人なのだろう。例えずっと同じ場所にいたとしても、彼は変化し続ける。常に、より自分の進むべき方向、探究するべきものを探して、どこまでも、どこまでも行ってしまう人なのだ。


 この人と同じ場所にいられるのは、きっと今だけなのだ。それだって、高校という枠の中に無理やりみんな閉じ込められているからであって、自分の能力で生きていかないといけない場所にいたら、私と彼は存在する空間が違うはずだ。彼にはいつも、普通の人よりも少し高いところから物事が見えているのだ。

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