転
君はさ——本当に優しい男の子だったよ。
限りなく、掛け値なく、とても優しい男の子だったよ。
口は悪いし、
目つきは怖いし、
無愛想だし、
すぐ怒鳴るし、
理屈っぽいし、
面倒な性格をしている。
そんな……男の子だったけど、
それでも。
それだから
それだからこそ。
君は——やっぱり優しい男の子だ。
最後、私の手を引いて私を海に連れて行ってくれた君の手を
私がどうして——解いたのか。
君から離れて、
距離をとって、
どうして手を、握らなかったのか。
君は結局、最後まで聞かなかった。
聞かないで、いてくれた。
……いや、それだけじゃない。
君は最初から優しかった。
最初から、
初めて会った時から。
君を突き飛ばした時から。
一緒に、練習を始めた日から。
君は——本当に優しかった。
私が——どうして泳ぎの練習なのにプールへ入らないのか
私が——どうして水へ入ろうとしないのか。
私が——どうして海へ入らないのか。
君は最後まで——聞かないでくれた。
黙って、いつも通りに接してくれた。
いつも通り、
いつもと変わらず、変わらないままに。
私を、一人の人として、
普通の子と同じに見てくれた。
……うん。
そうだよ。
そうなんだ。
私はね。
陽子は、ね。
もう——泳げないんだ。
あの時。
あの夜。
初めて君に会った日。
私はお医者さんから、そう……言われたの。
今後、激しい運動はしちゃダメだ——って。
君の体はもうボロボロだ——って。
申し訳ない——って。
発見が遅れた——って。
本当にすまない——って
この夏が……乗り切れるかどうか。
保って……
保って——あと三ヶ月だって。
そう言われたんだ。
私さ。
最初自分がなにを言われているのかわからなくて。
目の前のおじさんがなにを言っているのかわからなくて。
お母さんが涙を流している意味が分からなくて。
みんながみんな、私から目を逸らしている意味が分からなくて。
そしたらさ。
なんか。
いきなり目頭が熱くなってきて。
体温が上がってきて。
どうしようもなく——どうしようもなくなってきて。
だから私。
お医者さんやお母さんの手を振り解いて、
そのまま海に飛び込んだんだ。
めちゃくちゃひどい顔してたと思う。
でも関係なかった。
全く関係なかった。
だって私は死んじゃうんだから。
もうすぐ、この世界から消えちゃうんだから。
だったらいっそ
このまま、そのまま。
大好きだった海の中で死んでしまおう——なんて
きっと……そんな感じのことを考えてたんだと思う。
半月の中。
私は塩水を海水で流して。
溢れ出る塩水を海水で洗い流して。
上を見ながら。空を見ながら。
そしてそのまま——海の一部になろうとしてたんだ。
そんな時。
そんな時。
私は君と出会った。
いつの間にか浜辺に流れ着いてた私は、
君と……目があった。
だから……うん。
あの時の君の言葉はすっごく正しいんだ。
間違いなくあの時の私は妖怪にしか見えないような風貌をしていたんだから。
だから君の言葉は正しいし、的確だし、そして——私は大笑いをした。
君の言葉と、あまりに純粋な表情。
なにがどうとか。
理屈とか。
理由とか。
意味とか。
訳とか。
そんなものは全部どうでも良くて。
全部がどうでも良くなってきて。
本当。
全部がどうでも良くなるほどに、私は笑った。
ありがとう。
本当にありがとう。
あの夏を——一緒に過ごしてくれたありがとう。
私に——思い出をくれてありがとう。
あなたの中に——私を残してくれてありがとう。
あなたに泳ぐことの楽しさを教えられたことは、心の底から感謝してもしきれない。
私が生きてきた証。
私があの夏を過ごした証。
それが残せたってだけで、私はもう——十分。
十分以上に、十分。
十分だった……のに。
それなのに。
それなのに。
どうして——君は私にキスをしたんだろうな。
君の手を解いて。
「さよなら」
って言葉を吐いた私に。
ただ涙を流して言葉を話さない私を前に。
どうして——キスをしたんだろう。
黙って。
ただ長いキスをしてくれたんだろう。
分からないよ。
分からないよ。
分からないことだらけだよ。
私……ファーストキスだったんだよ?
ファーストキスってね。
女の子にとってはとっても大事なものなんだよ?
責任をとって……貰わなくちゃいけないぐらいの……ことなんだよ?
好きな人にしか……しちゃいけないことなんだよ?
私なんかに、さ。
すぐに死んじゃう私なんかにさ。
しちゃ、いけないものなんだよ。
ダメなんだ。
いけないんだ。
君はやっぱり……優しくない。
「また来年、会おう」
なんて——そんな優しい言葉。
私に言うなんて、さ。
そんなのってないよ。
ずるいよ。
ダメだよ。
私に……かけちゃダメな言葉なんだよ……!
ありがとう。
私はまだ生きています。
今日まで。
息をしています。
あなたが言ってくれた言葉のおかげで生きています。
髪は全部抜けちゃって。
足はもう動かなくて。
左腕は全く動かせないくなっちゃったけど。
それでも。
それでも。
上半身は動きます。
右手はまだ動きます。
私はまだ、生きています。
私は、また夏を迎えられたんです。
生きることができたんです。
今日まで。
生きることができました。
今日は——八月一日。
うん。
そう。
明日——あなたが来る日。
ごめんなさい。
私、嘘をついた。
一つ、大きな嘘ついた。
私ね。
たった一回だってあなたがきた日のことを忘れてなんかいない。
忘れることなんかできない。
そんなこと、できるわけがない。
あなたと私が出会った日は——八月二日。
あなたが毎年、ここに来る日付。
ずっと……目指してた日付。
ずっと、ずっと。
その日のことだけを目指して生きてきた。
ただ、あなたともう一度、
会って、話して、あの場所で。
目を瞑ってキスをする。
海を見て、入って、そして二人でお話しする。
それだけを夢見て生きてきた。
ただ、前を向いて生きてきた。
私は——あなたのおかげで生きている。
ありがとう。
本当にありがとう。
でも——。
でも、きっと私があなたに会うことはできそうなんだ。
明日を迎えることはできそうにないのです。
ここまできましたが。
あと一日というところまで来たのですが。
それでも。
それでも。
それでも。
難しそうなんだ。
詳しくは……わからないけれど。
それでも。
私が明日を迎えられないことはわかる。
あなたに会えないことだけはわかる。
ここまで生きれたのに。
あなたのおかげで。
ここまで息ができたのに。
本当に——ごめんね。
——だから。
だから、ここからこれはお願いです。
最後の私からの、お願いです。
——忘れてください。
もう……私のことは忘れてください。
きっと、あなたは優しい。
とっても優しい男の子だから。
だからきっと、
このまま私が死んでしまったら、
きっと、私のことをずっと、引きずってしまう。
私に囚われてしまう。
それは……とても悲しいことだから。
だからぜひ、私のことは忘れてください。
私はもう、十分です。
十分すぎる以上に、十分です。
あなたから、もうたくさん以上のものをもらった人間です。
自分が生きてきた証を、これ以上なく受け取ってもらった人間です。
あなたのおかげで、私は海を嫌いになりませんでした。
あなたのおかげで、私は人を嫌いになりませんでした。
あなたのおかげで、私は世界を好きなままでいられました。
だから……もういいんです。
あの場所も、泳ぎ方も、
大切な人ができた時、
ぜひその人に教えてあげてください。
その方が……私も嬉しいです。
だから
だからどうか——私のことは、忘れてください。
お願い、します。
敬具
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