7話目 アプローチ

 そこに横たわっていたのは、目を大きく見開き、口は力なく半開きとなった、大きなクロマグロだった。

 ゆっくりと、その巨体に近づき、念の為、脈を確かめてみた。

 やはり、死んでいる。


 まあ、こんなところでマグロに生きていられても困るのだが。


 果たして、これはどういう状況だろう。

 何の変哲もないアパートの一室。そのリビングの床で、立派なクロマグロが息絶えている。


 佐々木が、盗んだ1,000万円でクロマグロを買ってきたのか。いや、それにしてもおかしな点が多すぎる。


 通常の場合、購入できるものは、まず冷凍マグロだ。しかし、ここに横たわっているクロマグロは冷凍ではなさそうだ。


 さらに、市場等で購入する場合、頭と尾が切り落とされた、いわゆる【ドレス】状態になっているものを買うことになる。しかし、このクロマグロには、頭も尾も付いている。


 よしんば、ドレス状態になる前のマグロを購入できたとしても、血抜きやエラの処理は絶対に行われているはずだ。しかし、このクロマグロには、その形跡がない。


 つまり、このクロマグロは、購入されたものではないのだ。だとすると、佐々木が釣り上げたということなのか。そんなバカな。佐々木が釣ったものだとしても、血抜き等の処理はしてから持ち帰るはずだ。


 だとすると、どういうことなのだろう。


 しばらく考えてみたが、納得のいく答えは出なかった。

 このままではらちが明かない。


 よし。喰おう。

 せっかく、目の前に立派なクロマグロがあるのだ。喰わない手はあるまい。

 そうと決まれば、まずは解体だ。


 台所の、シンク下の扉を開け、出刃包丁を取り出した。

 本当はマグロ包丁がほしいところだが、一般の家にそんなものがあるはずがない。背に腹は代えられない。今は出刃包丁で解体するしかないだろう。ないものねだりをしても始まらない。いつだって現有戦力で乗り切るしかないんだ。


 今からでも血抜きをするべきか悩んだが、知人のアパートのリビングを、血まみれにするのは気が引けた。

 このまま、大急ぎでさばいてしまおう。


 事務方じむかたとはいえ、一応は魚屋の社員である。魚のさばきかたは心得ているし、マグロの解体についても、知識はある。

 客に出すわけでもないのだ。自分で食べる分をさばくくらいはできるだろう。


 出刃包丁1本で、苦戦しながらもなんとか解体を進め、サクを切り出し、スペースの許す限り冷蔵庫へと入れた。

 腐ってないか心配だったが、思ったよりも鮮度が良いようだ。


 冷蔵庫に入り切らなかった部位から、美味そうな箇所を切り出し、刺身包丁で薄切りにして、皿に並べる。マグロ刺身盛り合わせの完成だ。


 冷蔵庫から醤油差しとチューブのわさびを取り出し、キッチンの引き出しから箸も拝借した。

 佐々木の家で、数回、家飲みをしたことがあり、調味料や食器の位置はだいたい把握しているのだ。


 リビングのテーブルに、マグロ刺身盛り合わせを置き、椅子に座り、小皿に醤油を垂らし、サシの入った大トロを1枚、箸でつまんで口の中へと放り込んだ。


 口の中でとろけるように無くなり、甘みのある脂が舌を包んだかと思うと、芳醇なマグロの香りが鼻から抜けていく。

 美味い。これは絶品だ。

 佐々木のやつ、こんなに良いマグロをどうやって手に入れたのか。

 いや、それ以上に、どうやって運んできたのか。


 2枚目、3枚目の刺し身を味わいながら思考を巡らせていると、玄関のドアが開く音がした。

 廊下を歩く足音が近づいてきたかと思うと、リビングの扉が開いた。


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入ってきたのは?

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