『栞』

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 近所の古本屋をよく利用している。

 高校生になってから読書なんていうものに目覚めてしまった私は、けれど中学生の頃と比べてお小遣いが格段に増えたわけでもなくって、新しい物語を仕入れるのに四苦八苦していた。けれど、最近、古本屋さんという存在を知って、それをよく利用するようになった。

 古本屋さんなんて知っていて当たり前じゃん、と思うかもしれないけれど、本というものに縁遠い生活をしていた私にとっては、本当に未知の存在だったのだ。それはもしかしたら、図書館という存在が大きく場所を取っていたからかもしれない。無料で貸し出してもらえる図書館という場所があるのに、新しい本が買える本屋さんがあるのに、どうして古本屋なんていう場所があり得るのだろうか、という疑問。それがあったから、私は古本屋という存在を最近初めて知った。

 どうして図書館のことも知っているのに古本屋を使うのか、という疑問に対しては、私は本の読み方が少し異質だからと答えなければならない。というのも、私は並行して数冊の本を読むのだ。一冊の本

 を読み続けるというのが、どうにも性に合わなくて、途中で飽きてしまう。じゃあ最後まで本を読み続けられないのかというとそういうわけでもなくって、もったいなさとか、中だるみとか、そういうものがない交ぜになってしまって、面倒くさくなる瞬間がたまにあるのだ。もちろん最初は一冊の本を通して読んでいたけれど、二十冊、三十冊と読むうちに、本の良いところと悪いところが見えてきてしまった。良いところは、話が収束していく瞬間。悪いところは、それを広げている間の中だるみ。だからこの良いところと悪いところを同時に吸収出来れば、毎日楽しい読書ライフを送れるのではないか、と私は思ったのだ。

 それで導き出した結論が、並行読書だった。

 この話を父にしたところ、「週刊誌みたいだな」というお言葉を頂いた。だから多分、それは的を射ていて、クライマックスに向かう作品があって、中だるみの作品があって、ギャグ作品があって、という風に面白さを分散しているのだと思う。週刊誌が毎週読まれていくのはそういうところが大きいんだろう。私がしているのも同じことだ。読むタイミングをずらして、一冊目は読み始めを、二冊目は中腹を、三冊目はクライマックスの盛り上がりを、四冊目はエピローグを、という風に読んでいく。大体、三冊から四冊を同時に読むことにしている。こうすることで、毎日刺激的な読書ライフを送れるというわけだ。

 だから私は古本屋を利用する。

 この読書スタイルを貫くと、下手をすると一週間かかっても一冊読み終わらないという可能性が出てくる。そうなると、図書館の利用は得策ではない。かといって、本屋で新刊を買い続けるのもお財布に優しくない。だから古本屋なのだ。結果として私は、近所の古本屋をよく利用している。

 そこは品揃えが豊富なわけではないし、どちらかと言えば古い本ばかり置いてある。けれど、読書をし始めて間もない私にとっては、どんな本でも平等に価値がある。本を読むのが面白いのであって、本の面白さを誰かと共有したいわけではないし、まだ趣味嗜好も確立していないから、どんな本が読みたいというわけでもない。だから、安くてある程度長持ちしそうな厚い本を好んで読むことにしている。

 この発想は結構良い具合に作用したらしくて、私は少ないお小遣いで、毎月本に枯渇することなく読書ライフを謳歌することが出来ている。友達と遊んだりすることも出来ている。だって一冊百円程度で買えるのだ。しかも若い学生である私が、近所の寂れた古本屋(いっそ古書店と言った方がイメージは沸きやすいかもしれない)に通い詰めていることが嬉しいのか、店主のお爺さんは結構サービスしてくれる。五冊かったら一冊ただでくれるとか、百二十円の本なら百円にしてくれたりとか。まあ、私以外にお客さんがいるところを見たことがないし、道楽でやっているような気もするので、商売に拘りはないのかもしれないけれど。

 けれどそんな古本屋さんにも一つだけ不満がある。本屋でも図書館でも満たせない私の読書欲を満たしてくれて、お財布に優しい商売をしてくれる古本屋さんであるけれど、唯一の不満がある。

 この古本屋の本には、五冊に一冊、中身を調べていないと思しき本が紛れているのだ。

 もちろん、中身を見てから買いなさい、と大人は言うんだろう。テープが貼られているわけではないんだから、中身を見てから買うのは当然のことだ。でも私は本との出会いを大切にしたいし、万が一ネタバレを受けてしまうのが嫌で、出来るだけ中身を見たくない。無駄にページをめくりたくないのだ。だから本の中身を見るのは家に帰ってからで、その時にはもう返却不可の状態になっているわけだ。

 中身を調べないことでどんな弊害があるのかと言えば、一番の問題は本に文字が書かれていること。ネタバレを示唆するような書き文字は流石にないけれど、読めなかったらしい漢字にルビが振ってあったり、そのとき思ったらしいことが書いてあったり、重要そうな言葉に線が引いてあったりする。私としては本に字を書くのはあまり快くないことなので、それだけでアウトだ。まあ本は全部読むんだけれど、ちょっと損した気分になる。

 二つ目の問題は、最後のページに挟んである栞だ。別に栞くらい挟んであってもいいじゃないって思う人が多いかもしれないけれど、これが十冊、二十冊となってくると結構なストレスになる。もちろん私だって、普通の栞だったら何とも思わない。文庫本を買った時に挟んであるような紙の栞だったら、別にそのまま捨ててしまえる。けれど、本に挟んである栞は高確率で木製だったり金属製だったりするのだ。どれも百円以上はしそうな代物で、それが百円で買った文庫本に挟んであると、どうにも捨てる気になれない。実際、私はいくつか気に入ったものを使っていたりもするのだけれど。

 とにかくこれが問題だった。

 けれど、不満もずっと続けば不満じゃなくなってくるのか、それとも私が生来の前向き思考だということが作用しているのか、栞の数が三十を超えた頃に、やっと私はそれを遊びの一つとして捉えることが出来るようになった。なんとなく、関連性が見えてきたのだ。どういう本に栞が挟まっているか、ということが。栞が挟まっていた本は出来るだけそのまま本棚にしまっていたので、そのことに気付いてから私の蔵書を引っ張り出して確認してみると、なるほど、推理小説に多く挟まっているようだった。

 そうと気付けば早いものだ。私は古本屋に数ある本の中から、推理小説に狙いを定めて本を買うようになった。もちろん本に詳しくない私だ、どのレーベルのどの作家が推理小説を書いているかを把握しているわけではなかったけれど、なんとなく栞の挟まっていた本から当たりをつけて買ってみると、それはやっぱり推理小説だったりした。そして、買った中の数冊に一冊は、栞が挟まっていた。それもやっぱりちゃんとした栞だった。

 けれど、何冊も何冊も推理小説を買い漁っているうちに、妙な現象が起こった。私は普段、百円かそこらの安い値段がついた本ばかり買っていたのだけれど、推理小説を買う、と決めてから少しだけ値段の幅を広げるようになった。その結果、二百円、三百円の本を買うようになって、そうした本は大抵新しく、発行されてから五年も経っていないようなものが多かった。

 そのうちの何冊かにも、当然私が読んだ通り栞が挟まっていたのだけれど……その栞の位置が、ページの最後ではなくて、真ん中だったり、はじめの方だったりしたのだ。

 ちょっとだけ不思議に思った。

 古い小説は律儀に最後のページに納めてあったのに、新しい小説は、まるで読みかけのような場所に挟んである。結局私は買った小説を全て読み終えることになるのだけれど、漠然と思い描いていた、『栞を挟むのが好きな読書家の誰か』が、途中でその美学を失ってしまったのかと思って、残念なような、恋が終わったような、不思議な気持ちだった。

 もっときちんとして欲しいな、と。

 小説よりも素敵な物語だったのにな、と思っていただけに、残念な気持ちだった。

 ある日、いつものように古本屋に出向いて、いつの間にか好きになってしまった推理小説をいつものように買おうとすると、店主のおじいさんが珍しく世間話を始めたのだ。

「お嬢さん、ここのところずっと推理小説にお熱だね。特に、この作家が好きらしい」

 私は、どうしてその作家やそのレーベルの小説を買うのかを、簡単に店主のおじいさんに説明した。おじいさんはその話を嬉しそうに聞き終えたあと、ゆっくりとこんな話をしてくれた。

「なるほどね。お嬢さん、実はうちにある本の半分くらいが、友人の蔵書なんだ。つい二年ほど前に亡くなって、山のようにあった蔵書を全部うちで引き取った。そのうちの一割近くを、お嬢さんが買って行ったんだ」

 なるほどそんなことがあるものなのか、と思い、私はおじいさんにもう少し詳しく自分の思ったことを口にした。栞が高価そうなことや、律儀に最後のページに挟んであったこと。そして、最近の本のうち、数冊は途中のページに挟まっていたことを。

「それにはいくつか理由があるよ。友人は何冊も並行して読むタイプの読書家でね、いつも何冊も本を抱えて生活していた。お嬢さんが言う数冊の本は、きっと友人が死ぬ前に読んでいた本だろう」

 その話を聞いて、なんとなく私は、悲しいというよりも、自分と同じ読み方をする人がいたんだという事実に嬉しくなった。

「栞は友人の手作りだからね、色んな人の手に渡ればいいと思って、挟んだまま売っているんだ。けれど、大半はお嬢さんの手元に渡ったらしいね」

 おじいさんはいつものようにレジを打つと、私に数百円を請求した。私はいつも通りにお金を払い、本をそのまま鞄に詰めた。

「故人の本だから、気味が悪いと思ったら申し訳ない。けれど、なんだか気になったものだからね。もし良かったら、栞はそのまま取って置いて欲しい。あるいは、誰かに差し上げてください」

 私も本を何冊も一緒に読むから、栞はいくつあっても大丈夫です、と告げて、軽やかな足取りで古本屋を去った。本を読み終わらないまま死んでしまうこともあるんだ、ということを知ったからか、今すぐ帰って本を読みたくなった。でも、すぐに本を読んでしまったら、栞は挟めない。本を読むのが早い人は、もしかしたら栞なんて使わないんだろうか。いや、もしかしたら死んでしまった読書家の人は、たくさん本を読むくせに、栞も使いたいから、何冊も並行して本を読むようになったのかもしれない。もしそうだとしたら、素敵なことだ。

 もし今度、どうして何冊も本を読むのか聞かれたら、そんな風に答えようかな、と思った。読書家が作った綺麗な栞を見せながら。

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