『ライバーライバー』

 世界中の人間が同じ顔になるなんてことは物理的にあり得ないだろうから、多分僕の脳の方がおかしくなってしまったのだろう。

 一夜にして、僕の見える景色は一変してしまった。会う人全員がみんな同じ顔に見えるのだ。しかもみんな、僕が想像し得る限り、もっとも美しいと思える顔に、見える。とは言え、言葉だけでどんな顔かと正確に伝えるのは難しいので、各自好きな顔を思い浮かべて欲しい。橋本環奈でもいいし、浜辺美波でもいいし、もちろん男の顔でも構わないし、なんなら実在の人物じゃなくても良い。とにかくみんな同じ顔に見えるようになった。まあ便宜上、バーチャルライバーの健屋花那に見えるようになったと思って聞いてくれればいい。実際僕には、全員が健屋花那に見えていたのだから。

 朝起きて、まず母親が健屋花那になっていたんだけれど、声は普通だし、発言もいつも通りの母親だった。僕はまず、ああこれは夢か、それとも健屋花那の配信を見過ぎてついに僕の頭がイカれたかどちらかだろうと思った。でも、親父が洗面所から出てきて、それを親父だと思ったのはスーツを着てたからなんだけど、顔はやっぱり健屋花那だった。声はいつも通りぼんやりした低い声だし、喋る内容もなんか大して面白くもないことだし。でも顔が健屋花那。流石に「母さん、父さん……どうして健屋花那になったの?」とは聞けないから、僕はチラチラふたりを盗み見ながら、黙々と朝飯を食べていた。どうやら変なことが起きているらしい、とは思ったけれど、それを口に出来るほど僕もやばくはなかった。

 今日は登校日じゃないから家でぼんやりする予定だったし、一日中誰かのアーカイブを見ながらゲームでもするかなと思っていたのに、まったく全然そんな気分ではなくなってしまった。「何、さっきから」と母親が、健屋花那の顔で言ってくる。なんの特徴もない、ザ・お母さんという感じの声だと今までずっと思っていたけれど、顔が健屋花那なだけでなんだかドキドキしてくる。「いや別になんでもないけど」と僕は言う。「何か言いたいことがあるなら、言っておいた方が良いぞ」と、親父もぼんやりとした感じで、健屋花那の顔で言う。同じ顔から種類の違う声が出ている。声劇かよ。健屋花那、音域というか、演技幅広いな、と一瞬マジで思う。マジで思うけれど僕の頭がおかしくなっているのは明白なので、「いや……本当になんでもないから。ちょっと具合悪いだけ」と言葉を濁すしかなかった。

 親父が先に家を出て、後片付けをしたあとの母さんが家を出てしまうと、家の中には僕ひとりになってしまった。今、めちゃくちゃに頭がおかしいのでこれ以上人と会いたくないと思いつつも、目に付く人間全てが健屋花那ってそれは結構素敵なことなんじゃないか? という気もしてきて、なんだか急に居ても立ってもいられず、僕は結局、わざわざ着替えて、身だしなみを整えて、今持ち得る最高におしゃれな服装をして、外に出ることにした。僕の頭がおかしいだけだとわかっていつつも、健屋花那と対面するのだから、それなりの身だしなみは整えておきたいと思ったのだ。というかそもそも、両親以外も本当に健屋花那に見えるのかということを、確認しておきたかったのだ。

 家を出てしばらく歩いて気付いたことは、やっぱりみんな健屋花那の顔になっているってことと、背丈も同じ……つまりはまあ物理的な肉体が全部健屋花那に見えているらしいということだった。着ている服とかは、多分元の人が着ているものを見ているんだろうと思う。けれど、背格好は完全に健屋花那だ。無論、僕は本物の健屋花那に会ったことはない(というかバーチャルなんだからそれは無理)のだけれど、公式プロフィールの身長くらいな感じがするし、スタイルも普段見ている全身絵のそれって感じがする。だからもう、町行く人が誰なのか、それが知り合いなのかどうなのか、僕は即座には判別出来なくなっていた。服装と、声だけが頼りだ。顔は完全に健屋花那だし、体型も健屋花那だからだ。

 だから健屋花那っぽい声で喋っている人を見かけると、「うわ、ついに本物だ」と思うほどだった。一時間くらい外にいたと思うけれど、なんかしばらくしたら現実酔いというか、気持ち悪くなってきて、僕はとぼとぼと家に帰った。いやもちろん、目に映る全ての人間が健屋花那というのは幸せなんだけれど。好きな顔がたくさんあるというのは幸福なんだけれど、高いスーツに身を包んでダンディな声で喋る健屋花那とか、夜の商売っぽい服装で耳にうるさい声を上げる健屋花那とかを見ていたら、解釈違いでおかしくなりそうだった。その点、うちの両親はギリギリ健屋花那の可能性のひとつとして解釈出来なくもないラインだったので、家にいる分には平気だろうと思えた。

 僕は家に帰ってから、健屋花那のアーカイブを見る気にはなれなくて、いやそもそも四六時中、狂ったように健屋花那のアーカイブを見続けていたからこんな現象が起きたんだと思って、YouTubeがオススメしてくれるがままに、他のライバーの配信を見続けることにした。健屋花那にだけ固執したことで起きた事故だとするなら、他のライバーを見ることで中和出来るはずだ。

 夕飯を食べた後、リビングでスマホをいじっている間、風呂上がりに上半身裸でキッチンにやってくる親父を見て、危うく興奮しそうになり、このままではマジで何かしらの間違いが起こると危惧した僕は、部屋に戻り、主に男性ライバーの配信を見続けることにした。寝て起きたらきっと治っているはずだ。だからどうか僕よ安らかに眠りについてくれと、強く願いながら目を閉じた。



 翌日、僕の病気は治るどころか悪化していた。

 目が覚めてのろのろとリビングに向かった僕を、相変わらず健屋花那の顔をした両親が出迎えてくれた。そして「おはよう」と、健屋花那の声で言ったのだ。人生で一体何百時間聞いたかわからない声だ、聞き間違えるはずがない。幸い、口調には両親の癖が残っていたし、服装はそれぞれ違ったからギリギリどちらがどちらかは判断がついたのだけれど、ふたりの健屋花那に挟まれた僕は、恥ずかしくて会話どころではなかった。この家が、常に笑いの耐えない家でなくて良かったと半ば本気で思った。朝から絶え間なく健屋花那に笑顔で話しかけられたら、多分死んでいる。

 僕はほとんど両親と会話せずに朝食を食べる。「あんた、今日学校でしょ。早く準備しちゃいなさい」と、健屋花那の顔をした母親が健屋花那の声で言う。反射的に「はい」と言いそうになる。「すみません」とか「すぐに支度します」とか言いそうになる。言いそうになるというか、反射的にコメントを打ちそうになった。「ちょっとぉ、聞いてんの?」健屋花那っぽくなるのはやめてくれ。否、これが本来の母親の口調なのだが、顔と声が違うだけで、発言自体は完全に健屋花那のそれだ。うちの母親は潜在的には健屋花那だったのだろうか? 僕はぼそぼそと「食べたらすぐに支度するから」と、素直な答えを返した。父親はほとんど何も言わなかったのが救いだった。が、コーヒーを飲んだあとに漏れる吐息とか、ちょっとした咳払いとかも健屋花那なので、頭がどうにかなりそうだった。

 どう考えても学校になど行くべきではなかったのだが、母(健屋花那)に支度すると言った手前、急に風邪っぽいと嘘をつくわけにもいかない。僕は出来るだけ両親と顔を合わせないよう、慌ただしく準備をして、風のように家を出た。両親から逃げなければ、ということに意識を取られていたせいか、家の外の方が地獄であることに、僕は気付いていなかったのだ。

 家を出て、バス停でバスを待っている間、制服を着た健屋花那が次から次へとやってくる。スーツ姿の健屋花那もいる。男装もあれば女装もある。もうたくさんだった。耐えきれない。しかも会話さえも健屋花那ボイスなのだ。頭がおかしくなりそうだったので、イヤホンをして適当なジャズの動画を流して目を閉じる。どうにかなる。このままでは。

 学校の最寄りのバス停でバスを降りる。溢れんばかりの健屋花那が、学校を占拠していた。時勢柄、みんなちゃんとマスクをしている。ほとんど強制されるようにして手を洗っている。うがいをしている。もちろん僕もしていた。手洗いうがいしたぞ健屋。脳が完全に犯されていることを自覚しながら、僕は教室へと向かう。

 今日ほど自分に友達がいないことに感謝したことはない。

 少なくとも、僕から話しかけでもしない限り、僕が迷惑を掛けでもしない限り、学校の人間は僕に話しかけてくることはないし、手を出してくることもない。僕は教室のほぼ中央の席に座る。いつも通りスマホでアーカイブでも見ようかと思ったが、この三百六十度健屋花那という状況でアーカイブを見るのもなんだか馬鹿らしく感じられたので、珍しく教科書なんか取り出して今日やる授業のことに想いを馳せることにした。これはもはや、試験前なんかに健屋花那のアーカイブを見ながら勉強している感覚に近い。

 しばらくして授業が始まり、当然のように健屋花那の顔をした先生が、健屋花那の声で挨拶をしながら教室に入ってくる。普段は授業なんかクソだと思っているのに、健屋花那が授業をしてくれているというだけで話の内容が全て、驚くほどクリアに脳に伝わってくることがわかった。頭脳明晰な健屋、解釈一致だぞ。真面目だから勉強得意だもんな。偉いぞ、健屋。そんな気持ちになりながら、僕は授業を受ける。「はい、おはよう」と気怠そうに挨拶をする教師に対しては、心の中で「再診です」と挨拶をする。多分ひとりでニヤニヤしながら授業を受けている気持ちの悪い生徒になっていたことだろう。口角が上がりきって顔が半分なくなっていた気がする。しかしながら、授業の内容自体は完璧に頭に入ってきていた。授業配信か? あるいは健屋と作業する長時間配信か。口角が上がって気持ち悪いことを除けば、僕は真面目な授業態度だったと思う。

 昼休み、普段ならアーカイブを見ながら教室の隅でぼんやりしているのが僕の常だったが、やはりアーカイブを見るよりもリアル健屋花那を見ていた方が得だろうと思った僕は、ポジション的には教室の隅のままだけれど、視線は教室全体にふんわりと投げていた。制服を着た健屋花那。机の上に座る健屋花那。健屋花那と談笑する健屋花那。詰め襟の健屋花那、スカートの健屋花那。ほとんど太ももじゃないか、というレベルに短いスカートの健屋花那は、目の毒というか、もはや気の毒という感じがする。じろじろ見たら怒られるのでたまにうまいことこう視線を動かす瞬間にちょっとその線と交わってしまったから見えてしまっただけですよと言わんばかりに僕は健屋花那の生足を見続けた。詰め襟の開けた首元を見続けた。じゃれあう健屋花那を見続けた。相手が白雪巴でないのが悔やまれる。

 午後の授業も僕は一切誰とも会話することなく、健屋花那の顔をして健屋花那の声をした教師の説明を聞きながら勉強に励んだ。真面目に勉強してるぞ健屋。余談だが、世界史の教師なのに何故か白衣を着ている先生には強く感謝した。日常生活で白衣を着た健屋花那が見られるとは。もとい、日常生活で健屋花那を見られる時点で、かなり常軌を逸しているわけだけれど。



 一時はついに気が狂って人として終わりを迎えたかと思った僕だったが、これから両親以外と会話をしなければ、最低限の生活は送れるし、目と耳の保養になるし、そんなに困らないんじゃないかと、二日目にして事態を受け入れつつあった。実際問題、今後も僕は誰とも付き合うことなどないだろうし、人を愛することもなければ、家庭を持つこともないだろうと思ったからだ。自分がそういう人間であることをよくわかっていた。小さな頃からアニメに魅了され、シームレスにバーチャルライバーの配信に肩まで浸かり、現実の友達がいないことに対して何ら不満のない、不幸だとさえ感じない、むしろ僕が世界で一番人生を楽しんでいると錯覚出来るくらいなのだから、それでいいと思った。

 もしかしたらこれは、現実の人生を捨て、配信を見ることを生活の中心とした僕への神様からの贈り物なのかもしれない。健屋花那が選ばれたのは、単に僕が他のライバーの二倍から三倍多くアーカイブを見ているからだろう。これからの人生、僕は一生健屋花那に囲まれて生きていくことになるのだ。謙虚に、孤独に、敬虔に生きてきた僕へのご褒美だ。僕は眠りにつく前に、健屋花那のアーカイブを久しぶりに見ながら寝落ちすることにした。久しぶりとか言いつつ二日しか経っていないのだけれど、ほとんど四六時中見ていた僕にとってはやはり久しぶりだったし、画面の中で輝いている健屋花那は、やっぱり現実にいる健屋花那の形をした彼らよりも、素晴らしかった。



 目が覚めて突然思った。

 健屋花那と付き合えるじゃないか、と。

 僕は確かに根暗だし、人付き合いが出来ない。友達もいないし、異性と会話した記憶もほとんどない。家族以外の異性と私的な会話をした回数はと問われれば、皆無と言っても差し支えないだろう。それほどまでに僕は他人と付き合ってこなかったし、そのことを不幸とも思っていなかったし、不満だとさえ思っていなかった。僕は自分のこの人生を、まあ悪くない人生だと思っていたのだ。もちろん、異性に興味がないとか、他人に興味がないとかいうわけではない。興味があるからこそ、僕はライバーを見ているのだし、彼らを、彼女らを、好いている。だけれど、どこか自分の中で、現実に対して一線を引いていた気がする。

 作戦はこうだ。

 顔も声も健屋花那であるクラスメートの中で、一番醜く、一番モテなさそうで、僕と同じように人付き合いをしていない子に告白するのだ。僕は現実では、醜い女の子と付き合い、キスをしたり、えっちなことをしたりすることになるのだろうけれども、僕の頭がおかしい限り、僕は健屋花那と付き合うことになる。孤独な人間の何が良いって、他人の顔色を覗う必要がないということだ。

 翌日も両親は健屋花那の顔と声をしていたけれど、もはや気にならなくなっていた。流石に両親レベルとなると、座り位置とか、立ち居振る舞いとか、そういう些細なことでどちらなのか判別出来ることがわかった。だからあまり、気にならない。母親らしいことを、父親らしいことを、彼らは健屋花那の顔と声に乗せて僕に伝えてくる。僕はそれをしかと受け止める。そしてちゃんと言葉を返す。「母さん」と、健屋花那に言う。「父さん」と、健屋花那に言う。そういう設定の配信にコメントを打っている気分だった。

 多分そのうち、僕は両親の顔も声も忘れるだろう。でも、現実世界では、僕は両親の子どもで、両親はちゃんと続いていくのだろう。



 あまりに唐突な閃きではあったけれど、健屋花那とえっちなことが出来ると気付いてからの僕の行動力と言ったらなかった。僕は学校内の人間の記憶が薄れてしまう前に、僕と同じようにほとんど人と絡まず、絡んだとしてもクラスの女子のヒエラルキーでは最下層にあるグループに属している、大河原奈々にコンタクトを取ることにした。口が裂けても美人とは言えない顔立ちで、性格が暗く、と思えばグループ内では突然大声を上げて仲間内でしか通じないようなギャグ(?)を言うような、典型的なイタイオタクの女子だった。ブスで性格が暗くて痛々しい。この上ない。まあ僕も人のことを言えないような人間なので、多少の罵倒は多めに見て欲しいところだが……とにかく僕は、薄れかけている記憶を頼りに、大河原さんにコンタクトを取ることにした。授業が始まる前の、短い余白の時間。健屋花那に話しかけるのは少し緊張したけれど、両親で少しは慣れていたので、なんとか話しかけることが出来た。

「大河原さん、ちょっといいかな」

「ひっ……えっ、はい、なんですか? えっと……ごめんなさい、名前……」

「桜木」

 普通だったらぶん殴りたくなっているような気持ち悪い反応だったけれど、健屋花那の顔と声であるというだけで全てが許せる。顔というものは、声というものは、人間関係においての全ての基準なのだと感じる。

「突然悪いんだけど、昼休みか放課後、時間ある? ちょっと話があるんだけど」

「えっ……今、じゃ、ダメですか?」

「ダメじゃないけど……」健屋花那の顔で困られると、なんだかいじめたくなってくる。「あんまり人のいるところでするような話でもないから、出来れば」

「そうですか……あ、じゃあ、放課後の方が……」

「わかった。じゃあ、放課後、校門のところで待ってるから。声掛けてくれるか?」

「え……」なんで、というような不思議そうな表情をする健屋花那。否、大河原奈々。「あの、人が居ない方が良いなら、どこかで待ち合わせた方が良いんじゃないかな……とか、思ったり」

 鬱陶しい気持ちと、仕方ないな健屋は……という謎の高揚感がない交ぜになって僕にぶつかってくる。普通だったらこの時点でもう何もかも面倒になって会話を切り上げているところだが、顔が健屋花那なので許せてしまう。「じゃあ、人気のないところ……使用禁止になった駐輪場、わかる? 体育館側の」と僕が言うと、「うん、わかる」と、赤ちゃんみたいに元気よく首を縦に振っている。健屋はかわいいな。愛してるぞ健屋。「じゃあ、放課後、そこで」僕はそれで会話を切り上げる。いくらブサイク代表の大河原さんとは言え、制服は着なければならない。スカートの丈は膝下だったけれど、それは逆に健屋っぽいぞ。様々な感情を抱きながら、僕は自分の席に戻り、今日も楽しい健屋花那による授業を堪能する準備を始めた。



 放課後、僕は体育館の近くにある、去年末に取り壊すことが決定したまま、色々あって延期になり、そのまま放置されている旧駐輪場にいた。校舎からはほど遠く、部活動をする生徒はこの時間は立ち入らず、そもそも今は部活自体がほとんど休止状態なのでひと気がないという、絶好の待ち合わせ場所だった。一瞬で思いついた割には、悪くない場所の指定だったと思う。

 スマホをツイツイしながら待っていると、遠くからひとりの健屋花那が近付いてくる。そして僕の顔を窺いながら、「さ……桜木くん?」と声を掛けてくる。本当に僕の名前を認識していなかったらしく、未だにしっかり把握していないらしい。多分、下の名前なんて欠片も記憶していないのだろう。

「来てくれてありがとう、大河原さん」

「ううん、別に……で、話って」

「うん。単刀直入に言うと、僕、大河原さんのことが好きなんだ。だから、付き合って欲しい」

 多分これが普通の女の子への告白だったら、あるいは大河原さん本人に向けた告白だったら、こんなに力強くは話せなかっただろう。けれど、僕は力強く言った。言い淀むことも、言い間違えることもなく。

「えっ」

 健屋花那っぽい、驚いたときによくする発音だった。濁音がついている気もする。

「嫌かな」

 僕が言うと、大河原さんは「いや……というわけでは、ないけど……な、なんで私なんか……」と、ブス特有の自虐トークをし始める。「私、ブスだし……チビだし……オタクだし……性格悪いし……」

「まあー……人の好みってのはそれぞれだしなぁ」調子に乗られても困るので、僕は適当な発言をするに留める。「せっかく高校生なのに、何もないまま終わっていくのもなんだし……まあそれに、僕もどっちかっていやあオタクだし」ここは間違っていないので自信を持って言った。「騒がしいのっても、苦手でさ」

「う、う……でも……私、桜木くんのこと、全然知らないし……」

「僕も大河原さんのことは全然知らないけど、なんとなく、気が合うかなと思って。ほら、なんか、一緒にいて楽かどうかって、結構大事って聞くしさ」それは結婚を視野に入れた場合だけのような気もするが。「で、どうかな」

 僕があまりに冷静沈着に結論を急いだせいか、大河原さんはあわあわしながら「あ、えっと……桜木くんのことは、嫌いではないので……あの、はい、すみません、よろしくお願いします……」と、健屋花那の顔で、健屋花那の声で、彼女は言った。



 僕はその夜、大多数の人間とは全く別の理由で、「LINEって便利だなー!」ということを感じた。

 今まで、僕がLINEの連絡先を知っている相手は、両親と、五歳年上の従兄と、入学してすぐに勢いで連絡先を交換したものの二ヶ月後には一切会話をしなくなった男子三名だけだった。しかしながら、つい数時間前に僕は大河原さんの連絡先を入手した。恋人だし、SNSだけじゃなくてLINEを交換しよう、という、なんと大河原さんからのリクエストだった。流石に本人に言われたらなんらかのストレスを感じていたかもしれないが、健屋花那が言っているのだと思うと全てを許せた。そして帰り際、『なな』というアカウントから「これからよろしくお願いします」というテキストと、何やら恥ずかしげにしているスタンプが送られて来たときに、「顔や声がなくても個人が特定出来るツールはなんて便利なんだろう!」と、強く思った。

 無論、僕は一番付き合える可能性が高そうな健屋花那として、大河原さんを選んだだけだ。だから大河原さんに興味なんてないし、大河原さん本人の情報なんてクソほどどうでも良い。どうでも良いけれど、現実的にはそれは健屋花那のLINEと同義と言えるので、どうでも良くない。「これからよろしくね。たくさん話そうね」というようなメッセージを送った。これはもはや個人チャットみたいなものだった。健屋にメッセージを送ったら健屋から返事がくる! とは言え、本人ではないから配信の話題とか送ったところで意味がわからないだろう。僕は出来るだけ、健屋花那ではあるけれど健屋花那ではない存在として、大河原さんをちゃんと扱うことにした。健屋花那ではないけれど、健屋花那の見た目をしているという、ただそれだけ。僕はその見た目に惚れ込んでいるだけに過ぎない。とは言え、いくらブスで根暗で面白くない大河原さんとは言え、粗雑に扱うのは人道に反する。

「恋人って何するのかな」と、大河原さん。

「普通に一緒に帰ったりじゃない」と、僕。

「じゃあ、明日、一緒に帰る?」

「明日学校だっけ」

「違った。明後日」

「うん、一緒に帰ろう」

「嬉しいなー」

「なんかさ」

「なに?」

「アクセサリとか付けたい」

「ピアス開けたいってこと?」

「じゃなくて、同じやつ」

「同じ?」

「ペアリング的な」

「私も欲しい!」

「ほんと?」

「欲しいって思ってた」

「じゃあ、明後日、学校帰りに買いに行こう。とりあえず」

「うん」

 もちろんそれは、彼女を彼女として識別するための道具を買うためだった。が、いきなりアクセサリをプレゼントしても、重いと思われるかもしれない。だからペアリング的な言い方をしたのだが……大河原さん、僕が思っているよりも性格は乙女であるらしい。この勘違いは僕にとって有利に働いているので、その後も大河原さんが飽きるまで、恋人っぽいLINEを送り続けた。送り続けながら、裏では健屋花那のライブ配信を見ていた。



 翌々日、もはや両親が健屋花那であることにも慣れ、ギリギリで自分がふたりの健屋花那を両親と認識出来ている状態にも慣れ、割とフラットな気持ちで挨拶が出来るようになっていたことに驚いた。人間とは慣れる生き物なのだ。

 バスを待っている間も、バスに乗っている間も、バスを降りた後も、僕は周りに健屋花那がいてもなんとも思わなくなっていた。もちろん、可愛い顔を毎秒見られることに対して優越感や高揚感はあったけれども、健屋花那の顔が可愛いということはもはや当たり前すぎて、特別感がなくなりつつあった。当たり前に可愛いだけで、それだけだ。

 僕は授業が始まる前に、大河原さんに対してメッセージを送信した。今日の放課後、一昨日と同じ自転車置き場で会おう、という約束を取り付ける。付き合ってすぐのカップルにありがちなことなのか、昨日はほとんど一日中連絡を取り合っていた。だからもう、テキストでの会話にも慣れつつあった。やはり人間は慣れる生き物なのだ。大河原さんからもすぐに返事があり、「楽しみ!」とのことだった。本来はブサイクなはずの大河原さんだが、現在の見た目は健屋花那であるし、声も健屋花那である。そう思うと、このただの文字列すらも愛おしかった。名言についての名言として「何を言ったかではなく、誰が言ったかだ」というようなものがあるけれども、まさしくその通りだと思う。どれだけ可愛い発言であろうと、どれだけ素っ気ない発言であろうと、健屋花那が言えば僕にとってはそれはかけがえのない言葉だ。中身は大河原さんなんだろうけれど、僕に見えている世界がそうなら、それでいい。



 一日中健屋花那に塗れながら学生としての本分を全うし、放課後、僕はまた自転車置き場に来ていた。スマホをツイツイしながら待っていると、怯えた感じの健屋花那がやってくる。実際には大河原さんだろう。バッグには特に装飾はなく、制服のスカート丈も地味。持っているスマホのケースは何かのアニメキャラと思われるデザイン。彼女は僕を見つけると、ぎこちなく笑いながら、小さく手を振ってきた。とても可愛い。可愛いが、中身はブサイクなんだよな……と一瞬だけ嫌な気持ちになる。それを忘れられるようになれば僕は全身全霊を持って彼女を愛せるようになるのだろうか。

「桜木君……お待たせ」

「全然」僕は限りなく笑顔に近い表情を無理矢理作る。自分の顔が気持ち悪いことは知っているが、少なくとも大河原さんは僕の顔を許容してくれている。そういう相手には、意外と素直に、笑える。「行こうか」

「うん……なんか恥ずかしいね」

「そうだね」

 本来であればわざわざ待ち合わせる必要なんてなかった。教室からそのまま、ふたりで抜け出してしまっても良かった。変な噂は立つだろうけれど、知ったことではない。僕には友達がいないし、大河原さんは——友達はいるっぽいけれど、そこまで強い絆があるわけでもなさそうだし。だけど、僕はたくさんの健屋花那の中から大河原さんを探し当てるのに苦労してしまうので(というか、間違えた時に人生が終わってしまうので)待ち合わせをするというのが、やはり最適解だった。

 大河原さんは自転車通学だったので、僕がそれを引きながら、ふたりで歩いて、なんとなく若者がよく行っているショッピングモールを目指すことにした。潤沢な予算があるわけではないし、とりあえず識別が出来れば良いのだから、高いアクセサリを買う必要はない。なんとなく……他人と被ることのないデザインで、学校に着けてきても問題がなさそうで、かと言ってわかりやすい位置に付けられるものでなければならない。ピアスは拘束で禁止されているし、指輪も目立ちすぎる。ネックレスはトップが隠れてしまうし……と、意外とアイテム選びは難航してしまったのだけれど、ふたりでお揃いのブレスレット的なものを付けることにした。ブレスレットと言っても、金属製のちゃんとしたものではなく、高校生が腕に付けていても変に思われない程度のデザインのものだ。ゴム製か、麻か、あるいは毛糸でもなんでもいいけれど、とにかくすぐに大河原さんだとわかるものであれば良かった。腕時計という選択肢もあったのだけれど、デザインに性差のありそうなものは、お揃いのアクセサリとして不似合いだろう。

 僕は大河原さんと楽しく会話をしながら、仲睦まじくショッピングモールへと向かう。何しろ相手が健屋花那なのだから。LINEをしている間も結構楽しんでいたけれど、やはり本物と会うとその喜びはひとしおだった。勘違いブスの甘えた感じの口調も、健屋花那というフィルターを通すと全てが許容出来る。ぎゅっと抱き締めたい。キスしたい。豊満な胸に触れたい。完全にまっとうな思春期男子らしい性欲に満たされながらも、どこかまだ全てを受け入れられていない僕の脳が、相手は大河原さんだぞ、とアラートをあげる。まあでも、構わない。このまま一生、全ての人間が健屋花那に見え続けるのだろうから。アラートよりも、大河原さんに対する紳士的な態度が重要だ。適当に選んだ割には、意外と話が合うし、YouTubeとかよく見ているらしいし、ライバーの名前もそれなりに知っていたし。あとはいかに僕好みの服装をさせるかとか、そういうことに注力した方が良いだろう。いずれは健屋花那のメイン衣装であるナース服とかを着て欲しい。肉体関係に発展してしばらくしたら、そういう衣装を着たままでのプレイというのもおつなものだろう。

 僕と大河原さんはなんとも安っぽい雑貨屋で目当てのアクセサリを探す。店内にいる客も、店員も、全てが健屋花那だ。あまり意識していなかったけれど、どうやら店内放送の声も健屋花那らしい。現実の人間の姿や声はどうやら全て健屋花那に変換されてしまうらしい。とは言え、それは僕の病気が始まって以降のことに限定されるらしく、テレビドラマとか、映画とか、昔の曲とか——そういうものは普通に見られていた。けれどこれから先、全ての媒体が健屋花那になって行くのだろう。映画を見ていても、音楽を聴いていても、写真を見ても、全てが健屋花那になる。少しずつ、浸食されているのがわかっている。逆に今は、まだ残っている現実の方に引き寄せられるくらいだ。きっとそのうち、全てのライバーが健屋花那に見えるようになるのだろう。何もかもが健屋花那に浸食されるに違いない。あるいは服装さえも、口調さえも、性格さえも、健屋花那だと僕の目が思い込むようになるのかもしれない。

 じゃあ、僕自身も——?

「これとかどうかな?」

 大河原さんは、赤いリングの中心に小さな猫を模した装飾がなされているブレスレットを見せてくる。僕は正直なんでも良かったので、すぐにそれを購入することにした。

 店を出てすぐに、大河原さんは袋を開けて、それを腕に付けた。溶けてしまいそうなくらいがらしのない表情をして、健屋花那が笑っている。僕もなんだか嬉しくなってしまって、きっとだらしのない表情を見せたに違いない。何しろ、健屋花那が僕の目の前で笑っているのだ。僕とお揃いのアクセサリを付けて、笑っている。

 こんなに嬉しいことはない。

 この子を一生大切にしよう、と、僕はその時、胸に誓った。



 早く抱いておけば良かったと後悔したのは、それから二週間後のことだった。

 僕だけの健屋花那と化した大河原さんとの関係は、良好だった。僕のことを悪くは思っていないらしい大河原さんと、大河原さんの顔と声が大好きな僕の関係性は……まさにバカップルそのものだった。会話を重ねるにつれ、時間を共有するにつれ、他人行儀な雰囲気は失われて——僕は大河原さんに対して、毎日のように、「かわいいね」と囁き続けた。実際かわいいのだから仕方がないし、かわいさこそが大河原さんの存在意義だった。

 アクセサリを買ったその日には手を繋ぐようになり、一週間が経過する頃には初めてのキスをして(間近で見ると健屋花那は本当にかわいかった)、その勢いで抱き締め合った。このまま襲いかかりたいと何度思ったかはわからなかったけれど、いくらお互いが愛し合っているとは言え、僕らはまだ高校生だ。肉体関係に至るには、それなりに信頼関係が必要だろうと——声には出さないまでも、お互いになんとなく、思い合っていた。

 だから結局、僕は健屋花那に対して何度も何度もキスはしたが、胸に触れたり、裸を見たり、秘部をなぞったり、なんてことはしていなかった。せいぜい、キスをする勢いで首筋を唇で食んだり、耳たぶに口づけしたりする程度だった。結局のところそれは、愛情表現の延長でしかなくて、お互いに愛を確かめ合うものとは違った。つまるところ、性欲の解消には至らなかった。むしろ性欲が高まる一方だった。

 でもそれでいいのかも、なんて呑気に考えていたのだ。僕は健屋花那を一生大切にするのだし、今後一生付き合い続けるのだから、焦る必要はないと思ったのだ。思ってしまった。

 それが間違いだった。

 大河原さんと付き合い始めてから二週間後の朝、僕は目覚めると、健屋花那になっていた。

「やっぱりこうなるのか……」

 予想していなかったわけではない。少しずつ健屋花那に浸食されていく世界の中で、僕だけが除外されるなんて道理が通らない。全ての人間が健屋花那になり、現実と虚構の区別が付かなくなっていくうちに、僕は自分自身のことさえも、健屋花那として認識するようになっていた。

 整った顔、口から覗く八重歯、銀色の頭髪、無邪気な笑顔、豊満な胸、白く透き通った肌、その全てが——健屋花那だった。僕自身が、健屋花那だった。

 当然、男としての特徴は失われている。

 僕は女の身体になっていた。

 だからもう、大河原さんを抱くことは出来ない。否、女性同士であっても、性交渉に臨むことは出来るのかもしれない。でも、それは僕が思い描いた理想ではない。僕自身として、男として、健屋花那を抱く——その願いは、永遠に叶わなくなってしまった。

 けれどこれは僕だけの問題であることもわかっている。僕の視界が、僕の感触が、僕の世界が——狂ってしまっただけなのだ。現実は僕の知り得ない場所で続いていて、周囲は僕を、僕として見る。それはわかっている。けれど、やはり……自分自身さえも認識出来なくなってしまうと、一体、何が本当で、何が嘘なのか、僕にはもうわからなくなってしまっていた。



 健屋花那になった僕は、それでも普段通りに制服に身を包んで、健屋花那である両親と朝食をとって、バスに乗り、バスを降り、学校へ向かう。見える景色全てが健屋花那。けれど誰もそのことについて言及しない。オリジナリティとか、アイデンティティとか、ユニークさとか、そういうものがなくなった世界。僕がいる世界はそんな、誰もが特徴を失った世界。これからもっと加速するのだろう。みんなが同じ服を着ているように見えていくのだろう。みんなが同じ口調に聞こえるようになるのだろう。思考も反応も統一されて、趣味趣向も統一されて、全部同じになっていく。

 全部同じになっていく。

 見ていたものに染まっていく。

 全部同じになっていく。

 聞こえたものに染まっていく。

 全部同じになっていく。

 おぼえたものに染まっていく。

 全部同じになっていく。

 情報の流動だ。

 技術の欠陥だ。

 流行の集約だ。

 だけどじゃあ僕は寂しいのか。

 こんな世界を僕は憎んでいるのか。

 違うだろ。

 嬉しいはずじゃないのかよ。

 どこを向いても健屋花那じゃないか。

 僕は、だったら、健屋花那になりたかったんじゃないのか。健屋花那になりたいって思ったことだって、あったはずだろ。可愛くて、努力家で、ちょっと変態で、そこがまた可愛くて、でもやっぱり頑張ってるところが一番に見えてきて、そういう健屋花那に僕はなりたかったんじゃないのかよ。だったら嬉しいはずだろ。好きなものに満たされて、好きなものに囲まれて、外からも内からも、全部健屋花那になって、だったら、喜ばしいはずなのに。

 ここが終わりなんだと気付くんだ。

 この先がわからない。

 脳天気に抱いた願いの先に、なんにもないことに気付くんだ。健屋花那が現実にいたら、なんて願いが叶って、健屋花那と付き合いたい、なんて願いが叶って、健屋花那だけの世界にいられたら良いのに、なんて願いが叶って、この先に何もないと気付く。

 叶った世界の裏側で泣いている。

 けれど僕は健屋花那だから泣いたりしない。

 人前で泣いたりなんかしない。

 悲しい涙は見せない。

「桜木くん」

 狂った世界の内側で、大河原さんが僕を呼ぶ。その顔で、その声で。僕と同じ姿形で、僕を呼ぶ。僕は自分と同じ姿形をした彼女に、もう本来であれば興味がなくなってしまっている。彼女を抱くことも出来なくなってしまった。だけど、その望みだって、一瞬の快楽と引き換えに、永遠に失われるんだ。叶えた望みの先にあるのは、絶望だ。叶わなかった望みの向こうにだけ、希望がある。知りたくなかった。叶えたくなんかなかった。届きたくなかった。触りたくなんてなかった。良かったよ、大河原さんとセックスしなくて。そうしたらもう、僕は、空っぽになっていたところだった。

「桜木くん……どうしたの? 元気ないの?」

 同じ顔をしていても大河原さんは可愛い。同じ声をしていても大河原さんの声を聞くと落ち着く。それが健屋花那のそれだったとしても、僕は嬉しい。だけど僕はもう、大河原さんを愛せない。愛する資格もない。愛した先にある絶望を共に歩める勇気もない。

「大河原さん、別れようか」

 僕は言う。

「えっ」

 大河原さんは大河原さんだから、まだ大河原さんでいるから、別れ話を切り出しても、健屋花那のように泣き叫んだりしない。ただ絶句し、僕の顔を、その可愛い顔で覗き込む。全部同じ。全部同じだ。瞳の中に写る僕の顔さえ、全部同じだ。

「大河原さんを嫌いになったわけじゃない」僕は、僕は……、「ちゃんと言えば、最初から大河原さんが好きだったわけでもない」最低の男だ。そんなこと最初からわかってるよ。「ただ、病気なんだ」あるいは夢を見ている。「実は、僕は、世界中の人間が同じ顔に見えているんだ」そう、「見えるようになったんだ、急に。ここ最近」そしてこれからずっと、「大河原さんの顔は、もうあんまり思い出せないけど、好きじゃなかった」嫌いだった。「けどまあ趣味が合うかもとは思ってた。心のどこかで。否定してたんだ。同じ人種であることを、同族嫌悪っていうか」オタクだから顔の善し悪しだけで世界を見ていたんだ。「だから最低だよ、僕は。大河原さんなら告白すれば付き合ってくれるんじゃないかって思って。健屋花那なんだよ、大河原さんは。他のみんなも、健屋花那なんだよ。だから僕はさ、誰でもいいやって思って、誰でもいいから、一番手近な人にしようと思って」最低最低最低、「最低だけど、でも最低だってやっとちゃんとわかったから、別れよう。付き合ってちゃダメだ。僕はおかしいけど、大河原さんの世界は続いてるんだし、僕だけがおかしいんだから、大河原さんはちゃんと……ちゃんと生きてよ」

 堰を切って溢れ出した津波は大河原さんを飲み込んで、その大きな瞳を開かせる。

「別に、私は今のままでも平気だよ」

 大河原さんは、健屋花那の笑顔を浮かべて、僕を心配させまいと、優しい口調で言う。

「私もね、みんなベルモンド・バンギラスに見えてるから、平気だよ」

 そう言って、嬉しそうに、右手首のブレスレッドを僕に見せた。

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