『神林』

 人生が上手く行かず、どうしようもなく辛くなってしまったので、深夜三時に、神林かんばやしの家を訪ねた。

 戸を叩き、控えめに彼を呼ぶと、恐らく寝ていたであろう彼は鍵を開け、僕を迎え入れてくれた。

「夜分にすまん」

「いいさ。入りなよ」

 高校時代からの付き合いなので、もう十五年近くになる。お互い、今年で三十歳だ。神林は台所の電気を付け、僕を椅子に座らせた。そしてシンクに伏せてあるコップに水をむと、僕に差し出した。

「ひとまず水を飲んで落ち着きなよ。何か食べるかい? お酒もあるよ」

「酒が飲みたい。神林も一緒に飲もう」

「もちろん」

 出された水をぐいと飲みほす。神林は冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出して、さらにいかの燻製くんせいをテーブルに広げた。テーブルのこちら側には、綺麗に洗われた灰皿があった。

 神林は喫煙者ではなく、普段は酒も飲まない。風のような男だ。彼の家にあるこれらの用意は、全て僕のためになされている。

「疲れちゃったのかな」

 プルタブを起こしながら、神林は僕に缶ビールをかたむける。

「まずは乾杯しよう」

「いつもすまん」

「いいさ」

 アルミ缶同士がぶつかりあって、鈍い音がした。ぐいと缶ビールを飲む。少しだけ、焦燥しょうそうなどが洗われていくようだった。

 神林は何か尋ねてはこない。涼しい、空気のような優しい表情で、僕を見ている。普段、誰かに見つめられるなんてのは、気色が悪くてたまらないものだが、神林のそれはまるで自然だった。怒っているわけでもない、僕に興味があるわけでもない。かといって、無関心というわけでもない。子どもを見守る親のような、草木をでるような、そういう類の視線だった。

 胸ポケットから煙草を取り出して、火を付けた。僕は換気扇の音が苦手だったので、煙草を吸う時、大抵部屋に匂いがもる。非喫煙者である神林にとって、これは非常に迷惑だろうと思う。だが、彼は僕に不満をべたりはしないし、僕も追求はしなかった。

「書けないよ、神林」

「小説かい」

「そうなんだ。もう書けない」

「そうか。それは辛いね」

 神林は、決して笑ったわけではなかった。だが、悲観もしない。淡々と、薄い笑みを浮かべて、僕の話を聞いている。

「もう、諦めた方がいい気がする」

「夢を諦めるのかい?」

「そうだ。俺はもう三十歳だ。いつまでも駄々をこねている場合じゃない。一昨年おととし書いた小説は、佳作かさく止まりだった。二十八歳が佳作ならまだいい。だが、新人賞に三十歳が佳作じゃあ、あまりに見栄みばえが悪い」

「そうかもしれないね」

「だろう。そう、そうなんだよ。昔、ジャンプの新人賞なんかを、一緒に見たことがあっただろ? 二十代ばっかりだった。たまに三十代がいると、おじさんだって思ったよな」

「あったねえ、一緒に見た」

「今考えると、三十代なんてまだまだガキだ。もしかしたら、四十代、五十代もガキなのかもしれない。俺たちはいつまで経っても中身はガキのままなんだ。なのに酒を飲んだり煙草を吸ったりしてる」

「外見だけが大人になって行く」

「そうなんだ。俺たちは、ガキのままなのに、外見だけ大人になって、だからはたから見れば立派に思われるんだ、きっと」

「きっとそうなんだろうね」

 僕がビールを飲むと、神林もビールを飲んだ。僕はたまらなく辛かった。辛くて、かと言って、他にどうすることも出来なくて、神林と話すことでしかこれを解消出来ないでいる。昔からずっとそうだが、大人になるにつれ、その頻度は増していく一方だ。

「なあ神林、お前のコネで就職先を斡旋あっせんしてくれないか。どこだっていい。どんな仕事だって……なんならお前と同じ会社でも。バイトはもう嫌だ」

「いいよ。君がそう望んでいるなら」

 神林の表情は変わらないが、口調だって、淡々としていて、情報だけを伝えるに過ぎないが、しかしその言葉に、僕だけがギョッとする。背中を叩かれたように、後ろめたさがあふれてくる。

「俺はまた逃げようとしているんだろうか」

「何から逃げているんだい」

「俺は、普通の人生や、平均や、現実から逃げ出したくて小説を書いているんだ。なのに、その小説が書けないから、今こうやって、小説からも逃げ出そうとしている」

「僕はそうは思わないよ」

「じゃあ、神林はどう思うんだ」

とらえ方の違いだよ。逃げることも、立ち向かうことも、本質的には同じだよ」

「分からないよ神林」

「普通の人間は、普通から抜けだそうとしないじゃないか。普通だからね。君はみずから、抜け出す決意をして、高校卒業後ずっと、戦い続けてきた」

「ああ……だが勝てなかった。だから戻るんだ、現実に」

「それはもしかしたら成長かもしれないよ。そして少なくとも、人生の半分を普通ではなく生き抜いた君の今後の人生は、普通じゃない、平均化されないものになる」

「……だがそれは、悪い方面に向かう」

「かもしれないね」

 僕は缶ビールを煽った。酒に逃げるようになったのはいつからだろうか。煙草に逃げるようになったのはいつからだろうか。どうして僕は、こうも逃げ続けているのだろうか。

 缶の中身が見えているのか、あと少しで終わりそうだというところで、神林が新しい缶ビールを冷蔵庫から取り出し、テーブルに置く。おびえるようにしてビールの残りを飲みほすと、新しいプルタブを起こした。

「俺はもう普通になれない」

「普通になりたいのかい」

「もう……いっそその方が楽かもしれない。毎日、不安と戦い続けるんだ。正直、もう疲れたよ。普通に、何も考えずに生きていた方が、楽かもしれない」

「その可能性はある」

「神林は、どうだ。最近、人生は」

「特に何も。ただ、君がこうしてたずねてきてくれるから、僕は刺激を受けているよ」

「迷惑じゃないか」

「まさか」

 神林は多くを語らない。普段の僕なら、細かく語らない誰かの言葉を、常に邪推じゃすいして、自分にとって悪い方向に捉える。だが、神林の言葉は、不思議なことに、それ以上でも以下でもなく、額面通りにしか伝わってこなかった。

「いつも悪い」

「いいんだよ。気にしないでくれ」

「なあ神林。俺たちはもう三十路だ。お前、恋人とかいないのか? 結婚とか、考えていないのか」

「考えてないね。君は?」

「俺は……結婚なんて出来るはずもない。定職もないし、収入だって安定していないんだ。そもそも、俺みたいなのを好きになる女なんていない」

「僕は好きだよ、君みたいな生き方は」

「やめろよ」

「冗談だよ。もちろん、友人として、君のことは好きだけどね」

「俺はお前に助けてもらってばかりだ」

「お互い様だよ。僕は君に助けてもらってる」

「俺は何もしてない。酒をおごってもらったり、突然家に押しかけたり。迷惑を掛けてばかりだ」

「僕はそれを楽しんでいる。僕は、君が突然押しかけてきて、一緒に酒を飲み交わして、君の人生を語ってくれるのが好きなんだ。気にしないでくれ」

「俺は楽しい人間だろうか」

「僕は好きだよ、君の生き方がね」

 もし、神林以外に同じことを言われたら、それはお前が普通の人生を送っているから、面白く見えるだけだろう、と憤慨ふんがいしているかもしれない。だが、神林に言われると、悪い気はしなかった。むしろ、それだけで生きている意義があるとすら思える。

「僕は君のようには生きられない。けれど、君の人生に関係出来ることが、嬉しいんだ」

「俺なんかに捕まって、お前も不憫ふびんだな」

「僕は名誉めいよなことだと思っているよ。君のような人間と関係出来て」

「俺が作家なら……それも有名な作家だったら、神林の立ち位置は、良いものかもしれない。作家の苦悩を聞く友人。いいもんだよな。でも実際、俺は小説が書けない、作家志望だ。そんな人種に、人権なんかない。何も書けないのに、何も書いてないのに、作家になりたいだなんて、笑わせるだろ。俺は、なんだ。一体。なんにも行動しないで、夢ばっかり語ってる」

「君は書いたじゃないか」

「もう書けないんだ。佳作になった作品以降、一作品だって……書き終えてない。書き切れないんだ。途中で、つまらなくなる。しらけるんだよ、神林」

「そうか」

 神林はビールを飲んだ。僕は二本目の煙草に火を付ける。ビールの飲み口を眺める神林の瞳は、すごく綺麗に見えた。

「神林、仕事はどうだ。楽しいか」

「特に何も感じないよ。言われたことをこなすだけだからね。楽しくもないし、苦でもない」

「明日も仕事だろ」

「気にしないで。君の話を聞いている方が、僕は好きだ。それに、寝不足だとしても、何の成果を出さなくても、仕事は終わる。君みたいに、大変じゃない」

「俺はなんの成果も出してない」

「その恐怖と向き合えるのは、君の強さだ」

「俺は強くなんかないよ、神林。弱いから、俺は逃げ続けてるんだ。今だって……そう、向き合えなくなったから、逃げ出してきたんだ。書けないことに対して、向き合うことを諦めて、酒を飲んで、煙草を飲んでる」

「たまにはそうした時間も必要だよ。君は常に戦い続けているんだから」

「俺はサボってばかりだし、休んでばかりだよ。今日だって、一文字だって書いてない。仕事だってしなかったのに、たったの一文字も……俺は」

「そういう日もあるよ」

 神林は、つまみに手を伸ばした。僕もつられるように手を伸ばす。人間味がないように見える神林の、動物的欲求を見る度に、僕はここが現実なのだということを自覚する。

「神林、俺に作家の才能があると思うか」

「もちろん。ずっとそう思っているよ。学生の頃から、ずっと」

「だが、俺はなれてない。まだ何者にもなれていない……俺は、なんでもないんだ」

「僕だってそうさ。君よりもなんでもない。僕が死んでも、世界は変わらない。両親や、妹や、君が悲しんで、会社が少し困るだけで、全てが終わる」

「それは俺だってそうさ……いや、それよりもっとひどい。俺が死んでも、誰も困らない。親だって……ほとんど見捨ててる」

「僕は悲しむ」

「ああ、神林だけだ。俺の死をいたんでくれそうなのは」

「僕は、人の価値は死に結びつくと思う」

 突然の言葉に、僕は驚いた。神林が自主的に考えを話すことはほとんどない。僕は黙って言葉を待った。

「死んだ瞬間に悲しむ人、惜しむ人、困る人——その数と度合いを総合したものが、その人間の価値だと思っている」

「じゃあ、俺にはあまり価値はなさそうだ」

「君は僕の人生そのものだ」

 神林は変わらない表情をしていた。でも、不思議と強く言われたような気がして、思わず神林の目に入り込む。

「君が死んだら、僕はなんでもなくなる」

「そんなことはないだろ。俺が死んでも、神林の価値は変わらない」

「僕は君がいるから、僕でいられるんだ。僕は、君に寄生しているとさえ思う」

「何を馬鹿なことを言ってるんだ……お前にはお前の人生があって、お前を望む人がたくさんいる。神林という人間は、俺がいなくても同じ価値を持ち続ける」

「違うよ」

 神林が僕の言葉を否定することは、ほぼあり得ない。だからわずかに、息を呑んだ。母親に叱られた時のような、冷たい血液が頭から胴体に流れていく。

「本を読んで他人の人生を想像するように、映画を見て別の世界を体感するように、僕は君と一緒に飛んでいくんだ、普通ではない世界を。僕には、君のように小説を書くことも、空想を言葉にすることも出来ない。何にも出来ないんだ。言われたことをやって、君が来るのを待っている。だけど僕は、それが好きなんだ。君の居場所でいられることが、つまり、僕の居場所を作っている。何者にもなれない僕は、君といることで、やっと世界に存在出来る」

「それは、物語の登場人物のような」

「そうだね。もし僕が君との関わりをったら、僕は何者にもならない」

「人間は誰だって主役だ」

「でも僕は、起伏きふくのない物語の主役でいるより、非凡ひぼんな物語の脇役になりたい」

 風のような、空気のような神林の、まるで意思を持っているような言葉だった。過去にもそうした類の言葉を神林が言っていたことはあるかもしれない。だが、それを直接心で精査せさいしたのは、もしかしたら初めてかもしれない。

「俺が作家を目指していることが、神林にとって、何か役に立っているってのか」

「君に背負わせるつもりはない。ただ、僕はそれが好きなんだ。もし君が普通になろうとしたとしても、きっと僕は君を待つよ。君といると、楽しいんだ。ただ仕事をして生きているより、ずっとね」

「俺が作家を諦めたら、神林は悲しむのか」

「悲しんだりはしないよ。君が決めたなら、何も言わない。それに、落ち込んだりも、さみしがったりもしない。その時は、君の仕事の愚痴を聞くよ。今日みたいに」

 神林は缶ビールを飲みほして、冷蔵庫から、二本目を取り出した。僕は三本目の煙草を取り出して、火を付ける前に、ビールを飲む。ぐるぐると、思考が巡る。

「そういうの、なんかいいな」

「そういうのって?」

「神林みたいなさ、存在っていうか……俺が神林みたいになれないから、いいって思うんだろうな」

「よしてくれ」

「俺が何かに苦悩して、行き詰まったり、たまに上手く行ったり、そういうのが全部神林にとって利益になっているんなら、それだけでも、俺は嬉しいよ」

「君が嬉しいなら、僕は本望だよ」

「そうか、俺は……逃げ続けていてもいいのかもな。そうやってすぐに思うこと自体、考えをひるがえすこと自体、逃げなのかもしれないけど。それで誰かが、その様も含めて、楽しめるなら……うん、生きることは、そんなに、大変じゃないしな。何者にもなれないのが、辛いだけで」

「そうだね」

「小説は、人生だもんな」

 神林は何も言わない。

「誰か、他人の人生を辿ることこそが、俺が小説に求めていることだ……擬似的なものや、憧れみたいなものが、そこに詰まってる。なら、俺自身が小説になればいい……」

「それなら僕は読者だ」

「ああ。俺はそして、神林に、物語を話しに来ているのかもしれない」

「それは贅沢ぜいたくで、重要な役割だ」

 神林が笑ったような気がしたが、多分気のせいだ。それとも僕の感情が、高揚こうようしたんだろうか。

「そういう意味では、俺は、神林がいないと存在出来ないのかもな」

「かもしれないね」

「作者と読者の関係性ですらない……作品と読者の関係性なんだな、俺と神林は。俺は作品で、神林は俺の唯一の読者だ」

ほまれ高いね」

 それはきっと神林なりのジョークだった。僕は煙と共に、ふっと笑みを飛ばした。神林も、口角を上げて、笑ったような気がした。

「俺は小説を書かなきゃいけない」

「いいのかい、普通にならなくて」

 神林はたまに、僕を試すようなことを言う。けれどそういう場合は決まって、僕の決意が固まっていることを、神林自身分かっている。

「いいんだ。普通の人生なんて、神林に読ませられない」

「僕はどちらでも楽しめるよ」

「いや、俺がそれじゃあ納得出来ない」

 平凡な人生の主役より、非凡な物語の脇役がいいと、神林が言うなら、僕は神林を、平凡な物語の脇役になんかさせられない。

 僕自身が物語にならなければいけない。

 僕自身が、小説にならなければ。

 そして僕を楽しんでくれ、神林。

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