『エーテル』
あんなに近くにいたはずなのに、一度離れてしまうと、とんでもなく、ずっと遠くにいるような気がしてしまう。それでもせっかくだから書いておく。
人間や動物じゃなく、もっと抽象的なものの話だ。幼い頃、学生だった頃、自分の体の一部とさえ思えていた行為が、大人になって、歳を取って、とてもじゃないが扱いきれないものだったのだということが分かる。それは成長による考え方の変化だ。例えば、すごくサッカーが上手な少年が、中学生に、高校生になるにつれ、世界のトッププレイヤーと自分の力量の差を痛感し、自分がまだまだ未熟で、とてもじゃないが自分はプロになれる逸材ではないということを理解するのは、成長と言える。それは絶望なんかじゃない。正しい順序を踏んで得られた決意であって、乗り越えれば良いだけの壁だ。
一方で、自分から手を離したものとの距離は、とんでもなく、理不尽に遠い。
僕は感性が若かった頃によく詩を書いていたけれど、最近書かなくなった。理由は、時間がないからだ。あと、そんなことしてる場合じゃない、という危機感みたいなものが、突然湧いてきたからだ。
僕は詩人になりたいわけじゃなかったけれど、小さい頃からどういうわけか、詩が好きだった。詩を書いている自分が好きだったというのが、正しいかもしれない。別に誰かに伝えたいことがあるわけじゃないし、本当に心の底から言葉に対して真摯に向き合っていたわけじゃない。『詩っぽい詩』を書いていることで満足していたし、そういう、『詩っぽい詩』を書く人たちで集まって、読み合って、品評会をするでもなく、なんとなく褒め合う環境が好きだった。それは全く、生産性のないものだったけれど、なんていうかコミュニケーションの道具だった。自分という人間が何をする人間なのかというのは、見ず知らずの人間ばかりの世界で自分の存在を証明するために必要なことだった。絵が描ける、小説が書ける、ゲームが上手い、音楽が作れる、歌が上手い、まあ、大人で言う役職みたいなものか。どこそこの企業に勤めているとか、どういう仕事をしているとか。肩書きと言っても良い。けれど学生だらけの場所では、『学生』だけじゃあコミュニケーションは生まれない。平等な学生という枠組みの中で、十代から二十代の、モラトリアムの中で、自分が何をしている人間なのかということを最も手っ取り早く伝えられる手段が詩だった。詩、というか、ポエムというか。まあこの際呼び方はなんでもいいけれど、インターネットという環境と、文字でのコミュニケーションが基本である媒体において、詩を書く人間という役割は、それなりだった。
本音を言えば、僕も絵や文章が書ければ良かったし、音楽が作れれば尚良かった。しかし技術もお金も時間もない僕には、詩がいい具合に当てはまった。それだけで自分の存在を、とりあえずは許すことが出来た。読書家ではあったから語彙は豊富で、それなりに難しい言葉を散りばめると、それっぽいポエムが書けて、それで十分満足出来たし、周囲もそれで満足してくれていたように思う。
でも、最近書かなくなった。
何故なら、そんなことをしている場合じゃないからだ。
大学を卒業して、就職して、社会人も三年目ともなると、自分が何者なのかなんてことを考える必要はなくなる。いや、考える権利が失われると言っても過言ではない。
僕はどこまでいっても、英会話のテキストを訪問販売する営業職でしかなく、詩人なんかでは絶対にない。ポエマーですらない。基本給二十万円の営業マンだ。それが僕の背骨で、他の全ては遊びでしかない。人生において、仕事以外は僕にとって遊びの領域。趣味があっての仕事とも言うけれど、仕事がなければ趣味はない。趣味がなくても仕事は出来る。仕事がなければ趣味は出来ない。どちらが優先的か、考えなくても分かることだ。
僕はだから、いつの間にかそういう社会に身を乗り出していて、学生気分で働いていた数年、仕事の辛さや環境の変化、愚痴や不満をポエムに乗せて活動していたけれど、そんなことをしてもいよいよ何の鬱憤も晴らせなくなってきた。ポエムが僕を救ってくれなくなったのだ。
いや、正確にはそうではないか。
僕は数年前まではまだ、詩を通じて、誰かに救ってもらえていた。
濁した言葉に感じる世界観を誰かにぶつけて、それが解る人間と分かち合って傷をなめ合っていたのだけれど、同じ感性、同じ時代を生きていた周囲はやはり僕同様に社会に投げ出されて、一人、また一人といなくなって、僕のポエムを読む人はいなくなってしまった。あとに残っているのは、新時代の僕たちだけだ。でも、新時代の僕たちに、僕の言葉は伝わらない。たった数年違うだけで、言葉選びも、世界観も、求めている色も、全て違う。僕の言葉はただの時代の記録で、目新しさも、独自性もない。だって、僕に伝えたいことなんてないんだから、当たり前だ。
そんな当たり前のことに気付いてしまうと、詩を書く必要性を全く感じなくなった。僕は同僚と酒を飲み、上司に取り入り、後輩に気に入られるために良い先輩を演じ、毎日のノルマを果たすために生きる。詩を書いて一時的に悦に浸り、現実逃避することは出来るかもしれない。けれど、そのポエムに誰も反応を示さない。お情け程度のアクションがあったとしても、持続性は低い。たった数時間満たされるだけで、終わってしまう。そんなことのために時間を費やすくらいなら、いっそスッキリ付き合いを終わらせてしまって、社会と噛み合う歯車になった方がいくらから気楽だと、僕は気付いてしまった。
実際、悲しいくらいに、それは楽だった。
求められることをして、周囲に合わせて、自分が決断することなく、他人の航海に付き合っている方が、気楽だ。舵は誰かが取る。航路も誰かが選ぶ。指示も誰かが出す。帆を張るタイミングを見定めることも、舵を切る決心も、誰かがやってくれる。僕はただ、指示が下るまで潮風に吹かれながら、波に揺られながら、夜の宴を待っているだけでいい。ラム酒を浴びるように飲んで、歌って、眠れば良い。そう、大方、海賊船の下っ端の一人のように。もちろん、戦いの中で活躍するかどうかは自分で選べば良い。でも、それは大きな傘の下で行われる個人同士の争いだ。船同士の争いに、僕の出番はない。
あまりに気楽すぎて、詩を書くことがどうでも良くなったというのが、僕の本心だった。僕がオールを漕がなくても、船は進んでいく。ボートを捨てて大きな帆船に乗り換えたら、僕の人生は簡単になった。自動的に進んで行く。気が済むまで眠ることは出来なくなった。心が落ち着くまで起きていることは出来なくなった。それでも、眠い体を無理矢理エスカレーターに乗せることさえ出来れば、小走りで電車のドアを潜ることさえ出来れば、始業までにタイムカードさえつければ良いように、周囲に合わせてちゃんと生きれば、それだけで生きていける。なら、それでいいじゃないか。
僕は詩人になりたかったわけじゃない。
道具として、詩を使っていたに過ぎない。
なんにもない僕が何者かになろうとして、一番簡単な道具を手に取っただけだ。使いやすそうで、安価な道具。そうして何者かになったつもりだった僕は、本当の何者かになって、落ち着いてしまえば良い。僕は何者かになりたかった。そして今、何者かになった。だったら、それでいいじゃないか。
毎日辛いような気がしているけれど、そこまで辛くない。毎日ちょっと楽しいことがあって、楽しみを見つける気力があって、笑えることがあって、自分に少し自信があって、世間話が出来る知り合いがいて、同僚がいて、順風満帆でなくとも生きていける。お金はないが生きていられる。多少の贅沢をすることも出来る。現代人らしい生活をするくらいの余裕はある。でも、可哀想な僕を見て欲しくて、それを詩にしたためる。
新品の欠陥品、未使用の在庫、初めてのお下がり。やっと、辞めることを始めた。忘れることを憶えた。嗚呼、僕は動くことを止めてしまった。機械仕掛けの心臓、ゼンマイ式の日常。誰かネジを巻いてください。そうしたら、ちゃんと止まれることでしょう。
別段切迫した気持ちもなく、ただただ書いていた言葉たち。ちょっと可哀想な僕を慰めて欲しくて、消費された言葉たち。でも今、そもそも言葉にならないこの感情を誰かに伝えようとしたとき、誰にも伝わらなくて良いのに、なんとか言語化しようとした時、詩を書こうとしても、何も思い浮かばない。否、浮かべた言葉が全て、感情に追いつかなくなる。全部が全部、嘘になってしまうのだ。言葉にした瞬間に嘘になるのか、僕が当てはめる言葉が全部間違っているのか。多分、後者だと思う。今まで、ポンポンと息を吐くように出て来た詩が、言葉が、今の僕の毎日を表す言葉としては、一切出て来てくれない。どの言葉も、白々しく映る。
だって足りないんだ。
僕の気持ちは、そんな軽いもんじゃない。
適当な言葉で伝えられるほど、ちゃちなもんじゃない。
僕が抱える、もうあとは終わりに向かうだけの日々を思う時の感情は、陳腐で難解な言葉だけを使った詩じゃあ、表現しきれない。かといって、普通に言葉にすることだって難しい。空虚とか、無味乾燥とか、憂鬱とか、そんな既存の言葉じゃどうにも伝えられない。そんな軽いもんじゃないんだよって、思っちゃうよ。だってこれから毎日ずっとずっと、こんな気持ちが続くんだ。否が応でも続く。それを止めることなんて出来ない。僕は詩しか書かなかったし、それ以外の何も持っていないし、そもそも詩すら、冗談半分でやっていただけで、本気で書いたことなんて一度もない。何度も推敲を重ねるとか、言葉を吟味したりとか、そんな経験一度もない。それっぽい言葉をデコレーションしただけで、自分の本当に伝えたい気持ちを選んだことなんて、一度もない。
そもそも伝えたいことなんてなかった。
今はある。
でも、言葉にならない。
このどうしようもない声にならない叫びを、誰かに、心の底から解って欲しい。
詩人が、全てのポエマーが、僕と同じような気持ちで書いているなら、なんて気楽な世界だろう。誰も切迫していない、遊び半分で詩を書いているのなら、僕だってまだ書ける。でも、本気で悩み抜いて生きている誰かが書いた詩が一つでもこの世界に存在しているのなら、僕がやっている行為はただの冒涜だ。カラッポすぎる言葉を繋げて、誰かが書きたかった本心を先に言葉にしたとするなら、それほどひどい話もない。
考えれば考えるほど、僕は詩なんか書けない。今こうして本当に訴えたい気持ちを持ってしまったら、悲しくて、切なくて、申し訳なくて、なんにも書けない。だってそれらは全部嘘だからだ。美しい言葉で飾って格好付けたポエムは、体裁を気にした、自尊心を保ちながら誰かに心配してもらうための技術であって、僕の本心なんかじゃ全然ない。でも、僕の本心を抉り出して、それをさらに芸術的に昇華させて、誰かの心にも映し得る言葉にするなんてことは、僕には出来ない。あんなに近くにあったような詩が、怖いくらい遠くに感じる。やっぱり僕がやっていたのは詩でもないでもない、ただの文字の練習だったようにしか思えない。
そもそも、詩ってそんなもんだろうなんていう軽い気持ちで書いていたことが間違いなのかもしれない。伝えたいこと、思っていること、言葉にならない感情。それらを壊さないように丁寧に取り出して、言葉で包み込む行為が詩なら、僕にはそんな芸当とてもじゃないけれど真似出来ない。僕が唯一出来ることは、感情や気持ちとは全く別の、自分の叫びというか、思っていることというか、漠然とした理想というか、そういうものをただ思った通りの言葉で吐き出すことくらいだ。飲み会で同僚がぽろっと吐き出すように、仕事中に独り言が溢れるように、詩でもポエムでも、言葉ですらない、静かな叫び。
それが詩の第一歩なら、僕はようやくスタートラインに立てるのかもしれないけれど、今更立ったところで、僕は詩人になりたいわけでもないし、今更誰かに認められたいわけでもないし、正直、誰にも慰められなくても生きていけるということを解ってしまったから、どうでもいいっちゃ、どうでもいい。
その上で、それでもせっかくだから書いておく。
誰か助けて。
もう、辛い。
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