『フリスリザネ展』

 虚空こくうの前で発頭はつがしらを待っていた。かれこれ二時間つが、音沙汰おとさたがない。僕の前を、たくさんのものが経過していく。人だったり、時間だったり、記録だったり、様々なものが。僕は虚空の前でただ立ち尽くしている。進むことも戻ることもない。この時間は恐らく無駄だったが、発頭がくれば意味を持つ。ある種の賭けのようなものだった。彼と約束したのは、もう十年も前のことだし、それ以来、彼とは連絡を取っていない。

 十年前はなかったはずだが、虚空の付近にはスターバックスが出来たようだった。窓際の席で、仲睦なかむつまじく液体を飲み交わすカップルがいた。あれも十年前にはなかったはずだ。虚空は六割ほどをスタバで埋めていて、残りに少しの土産物みやげもの屋が残っている。これは十年以上前から存在していたはずだ。十年前にフリスリザネ展に来た時、僕は発頭と、この土産物屋で約束を買った。今日もそれを持ってやってきた。これを持っていれば、お互い、名前も顔も違っていても、思い出せると思ったからだ。手にしっかりにぎめたり、帽子にしたり、ポケットに入れたりしているが、二時間も経つと流石に暇つぶしのネタが尽きる。

 フリスリザネ展は十年に一度、この時期にしか開催されない。この前来たのは、二十歳はたちの頃だったか。発頭と一緒に、学校が休みでやることもなくて、暇だからという理由でひやかしに来たのだった。そして土産物屋で約束を買って、十年後に必ず一緒に来よう、二人で、この日に、虚空の前で待ち合わせようと言った。それから二年ほど付き合いがあったが、学校を卒業すると同時に付き合いも卒業した。だから、発頭が来るかどうかは本当に賭けだった。僕の賭け金は今日一日の時間。賭けに勝ったら、約束がたされる。約束は精算しなければならない。置いておくと、くすぶってしまう。反故ほごにすると、心がよどむ。約束はきちんと履行りこうしてこそ、清々すがすがしい。まあ、のろいみたいなものだ。きちんと履行出来なければ、厄介やっかいな存在なのだ。

 丁度僕と発頭のような若者二人組がやってきて、気怠けだるそうにしながら、フリスリザネ展の看板を見ていた。看板を見ても意味なんてないぞ、と言ってやりたかった。看板に描かれているのは、フリスリザネが残した作品の中でもっとも知名度の高い作品だった。しかし、実際にはその作品の知名度なんてどうでもよくなるくらい、様々な素晴らしい作品であふれかえっているし、もし看板にった作品目当てで来たとしても、美術館を出る頃には全て忘れているはずだ。十年前も、僕は確かに看板を見たはずだ。発頭と一緒に見て、この絵、どっかで見たことあるなあ、みたいな話をして、入場券もそこまで高くなかったから、喫茶店でだらだら喋るよりは少しは建設的けんせつてきか、くらいの気持ちで入った気がする。しかし、もう当時の看板は忘れてしまった。ポストカードでも買っておくべきだったかもしれない。土産物屋でもひやかそうかと思ったが、その瞬間に発頭が来てしまったらと思うと、僕は虚空の前から一歩も動けなかった。

 若者二人組は、ゲームに課金したと思って、とかそういう話をしながらフリスリザネ展に向かって行った。多分、僕らと同じような結論に至ったのだろう。彼らは僕らと同じように、人生を変えるような衝撃に出会うのだろうか。そして十年後、また一緒にここに来ようという約束を買うのだろうか。

 発頭はまだ来ない。僕は虚空の中にあるスタバを眺める。利用する気にはなれない。飲みたいものがあるわけでもない。値段も高い。そんなことばかりを先に考えた時点で、僕にはもうあそこの利用者の資格はないことだろう。面倒なことを色々考えて、理屈を並べて、それをやらないことに全力を出そうとする人間には、どんな資格も得られない。十年前、僕らはここでそれを教えられたはずだった。フリスリザネの絵は、僕に、行動の大切さと、理屈のくだらなさを説いた。僕はそれをもう一度味わいたい。それを味わって、人生を変えたい。この、燻って、なんの未来も見つめられなくなった目で、もう一度澄んだ世界を見たかった。だが、発頭はまだ来ない。

 発頭を待ち始めて、四時間が経った。フリスリザネ展の開催時間は、残り三時間を切った。僕は約束をまだ持っていたから、一人では行けない。早く来ないかと、虚空のまわりや、天井てんじょうの下や、地面の上をながめて辿たどった。何もかも十年前と同じだ。利用客と、スタバをのぞいて。そして、ここに発頭がいないことを除いて。僕は十年前から、何ひとつ変わっていない。

 正門の前に大きなバスが駐まって、家族連れがわんさかと降り立った。何かのツアーらしく、小さな旗を持ったバスガイドが道を示している。彼らはフリスリザネ展に向かっているようだ。虚空の前で人を待つ僕の前を、蟻のように正しく歩く家族連れ。その一行の中に、僕はついに、発頭を見つけた。

「おおい、発頭」

 僕が手を振ると、ベビーカーを押す発頭が気付いて、立ち止まった。蟻の進行は、発頭を障害物のようにして、湾曲わんきょくして繋がって行く。

「待ってたよ」

 僕の言葉はむなしかった。

「悪い」

 発頭は頭を下げる。

「見ての通りだ」

 発頭の後ろには、聞かなくても分かるくらい、妻ぜんとした女が立っていた。ベビーカーの中には、発頭を小さくしたような赤ん坊が、もう眠っている。

「お前とは行けない」

 発頭が言う。

「なんでさ」

「家族がいるんだ」

「でも、俺たちはあの時、約束したじゃないか」

「もう十年前のことだ」

「たった十年じゃないか」

「とにかく、悪い。俺はもう、行かなきゃ」

 発頭はまた、蟻の進行に組み込まれて、発頭ではなくなっていく。蟻の進行は真っ直ぐに戻って、やがてフリスリザネ展の入り口へと消えて行った。

 僕の存在は虚しかった。

 手に持った約束を、その場で粉々になるまで砕いた。両手をポケットに入れて、虚空を眺めた。スタバの窓際の席にいる連中は、フリスリザネ展には行かないのだろうか。それとも、併設へいせつされている動物園に行った帰りなんだろうか。彼らはどうしてここにいて、僕はどうしてここにいるのだろうか。

 発頭に裏切られた僕は、フリスリザネ展に行く意味を失った。行ってはならないとさえ考えた。きびすを返して、帰ろうとした。もう、フリスリザネ展の開催時間は、一時間も残されていない。行っても無駄だと思った。けれどゆっくりとした足取りで、正門を目指していた。虚空に後ろ髪を引かれているような気分だった。

 興奮気味な声が後ろからせまってきた。発頭かと思ったが、彼を待つ合間あいまに見た、例の若者の二人組だった。興奮冷めやらぬといった様子で、誰に構うわけでもなく、フリスリザネ展がいかに素晴らしかったかを、二人で熱弁ねつべんしていた。

「見に行ってよかった」

「ああ、最高だった」

「俺は、今日から生まれ変わる」

「俺もだ」

「俺は、もう、二度と諦めたりしない。フリスリザネは、そういうメッセージを、俺たちに残したんだ。偉大な作家だ」

「やらないことに理由を付けている場合じゃない」

「そうだ、やらないことに理由を付けている場合じゃない」

「今、この瞬間に、やるんだ」

「やらない理由なんて、なんの力もない。言い訳を語る前に、やるんだ」

 二人はそのまま、虚空にある土産物屋に向かっていった。本当に、若かりし頃の僕を、僕たちを見ているようだった。しかし僕はフリスリザネ展には行かず、発頭は僕以外とフリスリザネ展に行った。

 正門を出ると、もう二度と足を踏み入れられない。一瞬振り返り、発頭を待った。当然、彼は僕を追っては来なかった。僕は正門から出て、フリスリザネ展をあきらめた。発頭のせいだった。粉になった約束は、きっと虚空が吸い上げただろう。

 正門からしばらく歩いて、またもう一度、振り返った。もう、美術館も、虚空も、スタバさえも見えなくなった。もう、誰もいない。僕の視界には、何もうつらない。

 若者たちの会話が、ふいに思い起こされる。あのわかさを、僕は確かに持っていたはずだった。

 彼らの会話は、僕が昔に学んだものだ。

 やらないことに全力な人間には、何もやる資格はない。文句をいう資格さえも。

 そうだ、僕は何も学んではいなかった。

 僕は、本当はフリスリザネ展になんて、行きたくなかったのかもしれない。

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