『フリスリザネ展』
十年前はなかったはずだが、虚空の付近にはスターバックスが出来たようだった。窓際の席で、
フリスリザネ展は十年に一度、この時期にしか開催されない。この前来たのは、
丁度僕と発頭のような若者二人組がやってきて、
若者二人組は、ゲームに課金したと思って、とかそういう話をしながらフリスリザネ展に向かって行った。多分、僕らと同じような結論に至ったのだろう。彼らは僕らと同じように、人生を変えるような衝撃に出会うのだろうか。そして十年後、また一緒にここに来ようという約束を買うのだろうか。
発頭はまだ来ない。僕は虚空の中にあるスタバを眺める。利用する気にはなれない。飲みたいものがあるわけでもない。値段も高い。そんなことばかりを先に考えた時点で、僕にはもうあそこの利用者の資格はないことだろう。面倒なことを色々考えて、理屈を並べて、それをやらないことに全力を出そうとする人間には、どんな資格も得られない。十年前、僕らはここでそれを教えられたはずだった。フリスリザネの絵は、僕に、行動の大切さと、理屈のくだらなさを説いた。僕はそれをもう一度味わいたい。それを味わって、人生を変えたい。この、燻って、なんの未来も見つめられなくなった目で、もう一度澄んだ世界を見たかった。だが、発頭はまだ来ない。
発頭を待ち始めて、四時間が経った。フリスリザネ展の開催時間は、残り三時間を切った。僕は約束をまだ持っていたから、一人では行けない。早く来ないかと、虚空の
正門の前に大きなバスが駐まって、家族連れがわんさかと降り立った。何かのツアーらしく、小さな旗を持ったバスガイドが道を示している。彼らはフリスリザネ展に向かっているようだ。虚空の前で人を待つ僕の前を、蟻のように正しく歩く家族連れ。その一行の中に、僕はついに、発頭を見つけた。
「おおい、発頭」
僕が手を振ると、ベビーカーを押す発頭が気付いて、立ち止まった。蟻の進行は、発頭を障害物のようにして、
「待ってたよ」
僕の言葉は
「悪い」
発頭は頭を下げる。
「見ての通りだ」
発頭の後ろには、聞かなくても分かるくらい、妻
「お前とは行けない」
発頭が言う。
「なんでさ」
「家族がいるんだ」
「でも、俺たちはあの時、約束したじゃないか」
「もう十年前のことだ」
「たった十年じゃないか」
「とにかく、悪い。俺はもう、行かなきゃ」
発頭はまた、蟻の進行に組み込まれて、発頭ではなくなっていく。蟻の進行は真っ直ぐに戻って、やがてフリスリザネ展の入り口へと消えて行った。
僕の存在は虚しかった。
手に持った約束を、その場で粉々になるまで砕いた。両手をポケットに入れて、虚空を眺めた。スタバの窓際の席にいる連中は、フリスリザネ展には行かないのだろうか。それとも、
発頭に裏切られた僕は、フリスリザネ展に行く意味を失った。行ってはならないとさえ考えた。
興奮気味な声が後ろから
「見に行ってよかった」
「ああ、最高だった」
「俺は、今日から生まれ変わる」
「俺もだ」
「俺は、もう、二度と諦めたりしない。フリスリザネは、そういうメッセージを、俺たちに残したんだ。偉大な作家だ」
「やらないことに理由を付けている場合じゃない」
「そうだ、やらないことに理由を付けている場合じゃない」
「今、この瞬間に、やるんだ」
「やらない理由なんて、なんの力もない。言い訳を語る前に、やるんだ」
二人はそのまま、虚空にある土産物屋に向かっていった。本当に、若かりし頃の僕を、僕たちを見ているようだった。しかし僕はフリスリザネ展には行かず、発頭は僕以外とフリスリザネ展に行った。
正門を出ると、もう二度と足を踏み入れられない。一瞬振り返り、発頭を待った。当然、彼は僕を追っては来なかった。僕は正門から出て、フリスリザネ展を
正門からしばらく歩いて、またもう一度、振り返った。もう、美術館も、虚空も、スタバさえも見えなくなった。もう、誰もいない。僕の視界には、何も
若者たちの会話が、ふいに思い起こされる。あの
彼らの会話は、僕が昔に学んだものだ。
やらないことに全力な人間には、何もやる資格はない。文句をいう資格さえも。
そうだ、僕は何も学んではいなかった。
僕は、本当はフリスリザネ展になんて、行きたくなかったのかもしれない。
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