『夜の国』

 ビー玉電球が切れたようで、紐を引いても部屋は暗いままだった。部屋の中に声を掛けると、暗闇の中をゆっくりと黒美くろみがやってきた。「電球が切れたんだね」と言うと、彼女は可愛く頷いた。僕は彼女の手を取って、そのまままた来た道を引き返す。雑貨屋に行かなければならない。彼女は黒いワンピースだけを身にまとっている。ボロの集合住宅は木造建築で、階段を下りるたびに腐った三段目に気をつけなければならない。僕は映画の主人公のように、彼女が三段目で足を踏み外さないように気をつけた。地面に降りて、空を見る。夜の国はもう五年も夜のままだ。

 街灯を頼りに歩いて行く。黒美は僕に対して大人しい。決して僕を否定しない。明日の食費も心許こころもとないような生活に彼女は決して不満をとなえない。ビー玉電球を買ったら、いくらも残らない。また若い頃の貯金を崩さなきゃならないだろう。蔵書のいくつかを売らなければならないだろう。彼女はそれも否定しない。僕を否定すると、僕がとても落ち込んでしまうことを知っているからだ。

 雑貨屋に人気ひとけはなく、おはじきと一緒に雑多に置かれたビー玉電球をひとつ、つまみ上げた。純度の高い、気泡のないものが好ましかった。お金があればラムネを買ってついでにそいつを電球にしたいけれど、今は百円も持っていない。二十円でビー玉を買うと、店主が「あかいリボンが似合いそうですね」と言った。黒美に似合いそうだと言っているようだ。欲しいかと尋ねると、どっちでもいい、と黒美は言った。リボンは十円だったので、僕はそれもついでに買ってやることにした。彼女にやると、嬉しそうに、僕が望んだ笑顔を浮かべてくれた。僕はまた彼女の手を引いて、雑貨屋を出る。そして集合住宅に向かって、帰路を歩き始める。

 二年目の記念日が近かった。黒美と一緒に暮らすようになって、もうすぐ二年だ。僕はその間、結局なんの成長もしなかった。けれど、確かに黒美を死なせないように働いた。僕が一人で生きていた頃には考えられないような、責任感みたいなものが、僕の中にあった。人のために生きようと思うことなんて、きっと生まれてからこの方、あり得なかったのに。そんな僕が、人のために生きたのだ。これは怖ろしい変化だった。

 黒美と一緒に部屋に戻って、ビー玉電球を取り替えた。部屋はパッと明るくなって、黒美の美しい顔を照らしてくれる。「リボンをつけてくれよ」と頼むと、黒美は髪をってくれた。可愛らしかったので、僕は思わず彼女の頬をつまんだ。

 黒美は僕を絶対に否定しない。僕のしたいことを全てさせてくれるし、どんなときでも僕を優先して考えてくれる。けれどたったひとつだけ、黒美は僕が普通じゃなくなることを嫌った。普通という表現がおかしいならば、平均から逸脱いつだつしてしまうことを、嫌った。土曜日と日曜日は、僕は休む必要があった。毎月決まった日に、収入を得る必要があった。酒をたしなんでも、おぼれてはいけなかった。煙草たばこを呑んでも、中毒になってはならなかった。人並みに食事をして、朝起きて、夜眠る。そんな生活を望んだ。けれど、僕は黒美と暮らすようになってから、ずっと夜しか見ていない。僕は夜の中での彼女との生活を喜んでいたけれど、彼女はずっと浮かない顔をしていた。

 眠くなったら眠るのだけれど、今日はどうにも寝付きが悪かった。僕は雨酒あまざけをこっそりと持ち出して、炭酸で割って寝酒にした。黒美は酒を飲まない。けれど僕が寝酒をするとき、いつも一緒に起きていてくれる。「一杯飲んだら寝るから」と彼女に言うと、眠れるまであっためてあげるね、と言ってくれた。僕は冷たい酒で冷えた体を布団にもぐり込ませて、黒美と一緒に眠った。彼女は体温が高くて、いつも暖かかった。彼女と一緒に布団に入ると、いつもとても優しい気持ちになった。

 土曜日はゆっくりと目を覚ます。昼食時より前に目を覚まして、僕は黒美を連れて外食に向かうことにした。そして一緒に、五年目の記念をしようと思った。蔵書を処分して金に換えて、食堂に行って、洒落たものを食べた。そして洋菓子店で、小さなケーキをふたつ買った。もう記念品を買うような関係ではなかったし、金もなかった。「もう少し僕が稼げていればいいんだけど」と言うと、黒美はゆっくりと首を振って、あのときリボンをもらえて嬉しかったよと言った。

 家に帰って、二人でケーキを食べることにした。夜の国では電球の明かりが必要不可欠だ。見窄みすぼらしい生活だったけれど、彼女との同棲は楽しかった。クリームのついた彼女の口元に指をそっとなぞらせると、黒美が僕の指に吸い付いた。誘うような視線を僕に向けながら、ちろっと指先を舐める。そしてじっと僕の反応を待った。僕は彼女を布団に連れ込んで、何度も何度も小さなくちびるをついばんだ。彼女は美しかった。少なくとも僕の目には、彼女はとてもとうとい存在に思えた。

 汗ばんだ体のまま、僕にしがみつくようにしている黒美が、突然、もういいよ、と言った。「いいって、何が?」と尋ねると、彼女は名残なごりしそうに僕に抱きついた。そして、私のせいで駄目にしちゃったね、と言った。意味が分からない僕は、黒美をそっと抱き締め返した。けれど今までのような愛情を彼女から感じることは出来なかった。

 体だけを理解しあったあと、心は理解出来ないままで、僕は疲れて眠ってしまった。そして目を覚ました時、彼女はもういなかった。出かけてしまったのかと思い、急いで部屋を出た。

 部屋の外は夕方だった。

 夜は終わってしまった。

 彼女が消えてしまったことと、もう仕事をしなくて良いことを僕は理解した。虚無感きょむかん喪失感そうしつかんは僕をむしばんで、自然と膝が落ちた。僕はこれから、きっと自分のために生きて良いのだろう。日の当たる道を歩きながら、自分のしたいことをして良いということなのだろう。彼女はもしかしたら、自分のせいで僕が夜の国で暮らしていると思っていたのかもしれない。けれど僕はそれで良かったのだ。彼女のせいで夜の国で暮らすことは、苦痛だったけれど、それでも良かったのだ。自分に嘘をついても、周囲に嫌われても、夢を殺しても、馬鹿だと笑われても、もったいないと言われても、常識知らずとなじられても、阿呆あほと切り捨てられても、不器用だとなぐさめられても、難儀だとたしなめられても、良かったのだ。君が一緒にいてくれれば良かったのだ。けれどきっと、僕が毎日仏頂面ぶっちょうづらをぶら下げて、君との生活を楽しめなかったから、この夜がいつか終わるんだということを言うことが、病的なように電球を替えては明かりを求め続けたことが、きっと君には苦痛だったんだろう。

 ごめんなさい、ごめんなさい、と僕は言い続けた。君に届けば良いと思った。けれどきっとその謝罪の言葉も君を苦しめるだけだったんだろう。

 だから僕は、日の光を浴びながらまた生きようと思った。朝と夜がある国で暮らして、曜日を忘れて、僕は生きて行こうと思った。そしていつか僕が裕福になったら、君を連れて大きな家で暮らすと決めたんだ。だからそれまで、どうか誰のものにもならないでいて欲しいのだ。僕は君にとらわれた日から、ずっと君のためにしか生きられない、夜行性の男なのだ。君が手を離しても、太陽の光を怖れて生きる、普通の生活をうとんじながら生きる、とてもみにくい、とても陰湿で、けれど人一倍太陽にがれる、夢見がちな男なんだ。

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