第10話 旅路
「我が君、今一度お考え直しを」
少女は形振りかまわず膝をついた。
「ならぬ。我の心は既に決まっているのだ」
少女が『我が君』と仰ぐ者は、懇願を一蹴し「くどい」と言うように鼻を鳴らす。
「ですが……」
「ええい! ならぬのだ! 財政がどうなろうと知ったことか!」
遂には不機嫌も露わに足踏みまでし始める始末だ。これはもう、どう言っても無駄だ。
少女は諦めたように、頭を垂れたまま立ち上がり、
「ですが、セール中なのは『わんちゃんまっしぐら』ではないです。『お徳用わんわんもぐもぐ』でしばらく我慢です」
商品棚の中央、『最終値引き』の大きなPOPが付いたペットフードを二袋、買い物かごに放り込んだ。
「何と言うことだ! せめてソフトドライにはならぬのか!」
絶望の声の主は、そのままコロンと床に転がって全身で不満を表し始める。
「本来ならば、国産素材にこだわった『すくすくドッグ』を所望するところだ!」
ワン! ワン!
「我の妥協を裏切るのか!」
ワン!
吠える度に腹の毛が揺れる。
「そんな高いもの買えるわけないじゃないですか。冗談もいい加減にしてください」
ほら、行きますよ。少女が手にした紐を引く。
その先に繋がれた柴犬は、不満そうに喉を鳴らし「絶対に動くものかと」床に踏ん張っていた。ずり上がった首輪が頬の毛を持ち上げ、愛嬌のあるぶさいく顔を作る。
通り過ぎる客や、エプロンを付けた従業員は、その様子にくすくす笑っていた。
「……つまらない意地で笑い者になるつもりですか?」
「む……」
柴犬は渋々立ち上がった。
毛に付いた埃を払うように一度身を震わせると、今度こそ少女に従ってレジへと向かう。
「あ、ポイントカードあります」
「今日までありがとうございました」
読み取り機に『ペットショップ・パブロフ』のカードを通しながら、店員が笑顔を深めた。
最寄りのペットショップから徒歩二十分。犬の散歩にはちょうど良いその道程を、買い込んだ荷物と共に歩む。
「いいですか、我が君。今日は芙由さんのバイトがありません。恐らくはもうアパートに帰られているはずです。絶対に変なことをしないでくださいね」
「何度目だ、その話は。そもそも、我の声はお前以外に聞こえておらぬ。その上失態を犯すなど、このスエイニンにあるはずがない」
「知っていますよ。この前ビール缶を開けようとして、必死の形相で噛みついてたのを。夏菜さんたちと騒いでいたから気付いてないと思っていたんですか?」
じっと柴犬を見つめると、誤魔化すように前足で顔を洗った。
「そうですね。そうやって、犬らしい仕草を心掛けてください」
もう帰るアパートが見えてきた。
二階建て合計六部屋、駐車場なし、一階は庭付き。『女性専用』である以外は一般的な共同住宅である。
「結宇ちゃん、お帰りなさい」
庭に回って犬小屋にリードを繋いでいると、二つ隣の窓が開いた。
一〇一号室の住人、雪田芙由だ。結宇の予想どおり、バイトのない午後をアパートで過ごしていたらしい。
「ふぁ~、末吉もお帰り」
あくびを一つ、背筋を伸ばしながら、芙由はサンダルを突っ掛け庭に下りてくる。
「ふわふわぁ~」
真っ直ぐ柴犬へ近づくと、しゃがんで撫で始めた。
「よしよし、末吉はいいこだねぇ、よしよし」
頭から首に、毛が集まっている場所へと手を滑らせながら丹念に撫でる。
「いいぞ、いいぞ……くるしゅうない……」
クーン……
末吉と呼ばれた柴犬は、気持ちよさそうに喉を鳴らし、間もなく腹を出して転がった。勿論、その無防備な姿が見逃されることはない。芙由の手はいよいよ動きを増して、柴犬の全身をもみくちゃにしていく。
「は~、このもふもふは何度味わってもたまらないわ~」
幸福に満たされている芙由。
「……」
結宇は、得意気な表情の末吉を見下ろし、複雑な気持ちになる。
……芙由さん。その犬、中身は千歳のおっさんなんですよ。
言うに言えない結宇を知ってか知らずか、
「ははは、我が臣下が一人増えたな」
柴犬はワンワン言って喜んでいた。尻尾はめちゃくちゃな勢いで振られている。
「結宇ちゃん、うちで晩御飯食べて行ってよ。実家の野菜もあるし」
「ええ、ありがとうございます」
祖父母が農業を営んでいる関係で、芙由の元には時折大量の野菜が届けられる。一人暮らしの大学生には多すぎるそれを片付けるために、アパートの住人は度々芙由の食卓に招かれるのだ。
大根、カブ、白菜、小松菜。
季節ごとに変化する届け物は、深まる冬を教えてくれる。
「ねえ、末吉、ちょっと太ったんじゃないかしら」
コンロで沸騰させた鍋を運びながら、芙由が言う。煮立った具が、賛同するようにぐつぐつ音を立てた。
「そうですか?」
食卓の上には椀と箸、レンゲが並び、料理の到着を今か今かと待っている。
「さっき撫でた時にねー、そんな感じがしたわ」
「じゃあ、餌を少なくしましょう」
からん、からん。犬用の食器に、いつもの半分だけドッグフードを入れる。
「はい、どうぞ」
フローリングを滑らせて食器を差し出すと、柴犬は鼻先に皺を寄せた。
「食欲旺盛な我が身に何たる所業……心ある者の行いとは思えぬ……」
不満気に鼻を鳴らし、餌に口を付けようとしない。皿と結宇とに視線を往復させるのみである。
「あら、餌が少ないって分かるのかしら?」
鍋つかみから手を抜き、芙由は末吉に手を伸ばす。
「食べないと~、大きくなれないぞぉ」
甘やかしている口調で注意しても効果があるはずがない。
まして、中身は人間だ。状況を完全に理解している。
「しかし芙由よ、満たされないと分かっている食事にありつく理由はないだろう?」
キューン……愛情をくすぐる鳴き声に、見上げる潤んだ黒目。
中身はともかく、見た目はふわふわの柴犬だ。
結宇はひっかからないが、何も知らない芙由はあっという間に陥落してしまう。
「んもぉ~……」
芙由は下駄箱の一番上から、犬用おやつを取り出した。
「あっ、芙由さん」
結宇が咎める。
「これで最後だから、ね!」
もともと、多すぎない程度に末吉におやつを与えてもいいと約束していた。なので、その行為自体に文句を言うつもりはない。
しかし、そんなに良いものを用意していたとは予想外だった。国産ビーフと野菜をつかった高級品など与えたら、また味を覚えてしまうではないか。
「……! こ、これは!」
案の定、差し出されたキューブ状の塊を口にした柴犬は、ハッと表情を変えた。
犬とはこんなにも表情豊かなのだと、思わず感心してしまう。
「セミドライの野菜……固めた肉はしっとり半生……溢れる旨みはまるで総合芸術!」
ワン! ワン!
尻尾を振り、もっと寄越せとねだる柴犬。
芙由は末吉の届かない高さへ、手にした袋を持ち上げ避ける。
「ダメよ、ちゃんとご飯食べてからね~」
「ぐう……仕方がない! しかし、約束であるぞ!」
さっきまでの抵抗が嘘のように、柴犬はドッグフードを食らい始めた。
「……末吉って、たまにとってもお利口よね。まるでこっちの言うことが分かっているみたい」
「は、ははは……」
……そうなんです、分かっているんですよ。
本音は笑いで誤魔化して、人間二人も食事にありつく。
新鮮な野菜の他にまともな具がないので、小麦粉で練った具を加えたすいとん風だ。肉なり魚なりが無いのは残念だが、結宇も芙由も切らしていたのだから仕方がない。
「締めはうどんにしましょうね、たまには」
「……!」
熱さと美味さに口の中を満たしながら、芙由の提案に頷く。普段は芙由の実家から送られてくる米で雑炊にすることが多かった。鍋全体に広がる野菜のうま味は米にもうどんにも合うので、結宇としてはどちらでも歓迎なのだが。
「でも、うどんを入れてしまうと夏菜さんが……」
結宇は遅れてやってくるだろうアパートの住人を思い浮かべ、麺を入れようとする芙由の手を制した。
「いいの。夏菜ちゃんにはあげません」
「……芙由さん、あの……私はもう気にしていないので、別に……」
「でも、結宇ちゃんに相談なく、勝手にお母さんを連れてきちゃうなんて、デリカシーってものがないよ。見損なったよ!」
とうとう鍋にうどんが放り込まれる。同時に、窓を叩く音がした。
「……デリカシーがなくて悪かったね」
「夏菜さん!」
噂をすれば何とやら、窓の外には夏菜がいた。
「入れてぇ」
「開けなくていいよ、結宇ちゃん」
開けなくていいと言いながら、芙由は結宇が窓を開けるのまで咎めようとはしない。
「おかえりなさい、夏菜さん」
ガラス越しではない二人の視線が合う。
「……結宇、あの、その……ごめん」
「怒ってないですよ」
ずっと年上の夏菜が気まずそうにもじもじしている。仕草のせいで妙に子供っぽく見えて面白い。芙由は無言でうどんをよそう。
「でも、結宇はここを出て行っちゃうって……」
「はい。でも、夏菜さんのせいじゃないですから」
結宇は明日、アパートを出て行く。
「もう、何度もお話したじゃないですか」
この数日はその話しかしていなかったように思う。
急な結宇の決断は、住人二人を大いに驚かせた。その決断を、強引に親子を再会させたせいだと考えた芙由が、夏菜の首根っこを掴んで連れてきた時には驚いたものだ。
そして誤解を解いた後も、芙由はどうにも夏菜への風当たりを強めたままである。
「芙由さんも、もう怒らないでください。残していく二人がぎすぎすしていたら、安心できないです」
「……でもねえ、誰のせいでもないなら、どうして突然出て行くなんて言うの?」
「誰かのせいじゃなくて、自分のために決めたから、出て行くんです」
結宇の言葉を聞いて、大学生二人は顔を見合わせた。
ちゅるり。うどんが夏菜の口へ消えていく。
「あつっ」
熱さを堪える夏菜。芙由は思わず表情をゆるめた。
夜、布団に包まろうとした結宇に、柴犬が鼻を摺り寄せた。
「結宇、本当にいいのか」
「さっき聞いていたでしょう。自分のためにあなたに付いて行くんですよ」
「しかしそうは言ってもだな、やはり母子が離れ離れになることに、何も思わないわけではないのだ」
「いいんですよ。だって……」
だってこれは、母への意思表示だから。
「結宇?」
「……ねえ、あなたはどう思いますか? どうして人を生き返らせてはいけないのか」
「それを我に聞くか」
柴犬は困ったように鼻を鳴らした。正確には、スエイニンの場合は蘇ったように見えるのは肉体的なもので、魂としては一度も死んでいないことになるのだが。
「やはり公平であるべきだからだろうな」
「公平?」
「以前にも言っただろう。再生や死の克服は特別な存在にしか許されぬ。死は基本的に、誰にとってもいずれ訪れる不可逆な変化である点で、何より公平だ」
「あなたは特別ではない?」
「誰が我を特別だと決める?」
結宇が? かつての臣下たちが? あるいは歴史そのものが?
そういう意味では、遠見にとって周詞有吾は特別で、だからこそ彼女は彼に蘇生を認めることができたのだ。
「それにお前、何も考えないわけではないだろう。祖母の死に。仕事で目にした沢山の葬式に」
英雄でも神の御子でもない、普通の人々の死。遺族にとっては特別な、凡人の死。祖母の最期。同時に生まれる、遺された人々の……結宇の思い。
一つ一つに意味があり、人がその歴史を得てから静かに積み重ねてきたものだ。
遠見の手によりそれが途切れた時、何が起こるのか。生命に公平に与えられた最期を手放した時、人は命に新たな定義を与えられるのか。
それらの答えは、結宇には分からない。
言うなれば、その答えを探すための出奔である。
「あなたこそ、犬の姿でどうやってノルウェーまで行くつもりだったんですか?」
「なぁに、地面はどこまでも続いているものだ、どうにでもなるさ」
「……脳みそまで犬になっちゃったんですか? 日本は島国ですよ」
とは言え、果たして一人と一匹がノルウェーまで辿り着けるかは、結宇にも分からない。
しかし、一度彼の故郷に帰り、新たな手立てを探すより有効な手段は思い付かなかった。スエイニンがここを出て行くと決めたあの日、彼は以前から考えていた方法の一つを選択したのだ。
そして、結宇はそれに協力すると決めた。
「しかも大陸には、犬を食べる文化もあります」
「なんと、それは困る」
「でしょう? だから私がいないと、あなたも困るわけです」
「ふうむ」
食われるのは困る。柴犬がぼやいた。
「お前には感謝することが沢山あるな」
「まあ、一応飼い主ですしね」
「だが、我を母に差し出さなかったのは、お前が飼い主だからではないだろう」
「……」
「主人を差し出す裏切りをしない、よくできた臣下だ」
「臣下だからでもないですよ」
「ははは、照れぬでもよい」
結宇が遠見に柴犬を差し出さないのは、飼い主だからでも臣下だからでもない。結宇自身が母に異を唱えるためだ。
笑う柴犬はどこまで分かっているのだろう。
「さあ、もう寝ますよ」
布団をかぶって明かりを落とす。枕元の鞄が暗い影を作った。
鞄の中には、結宇と柴犬のための荷物が入っている。それから、大家が渡してくれた、祖母が結宇のために残してくれた貯金も。
(おばあちゃん、行ってくるね)
不安がないわけではない。失敗するかもしれない。
でも、亡き祖母が背中を押してくれるなら、前を向ける気がした。
「……あちらにつく頃は冬も盛りになっているかもしれぬな」
窓ガラスを揺らす風に、犬が耳を動かす。
「でも、ノルウェーにも春は来るでしょう?」
巡る春を思い、結宇は眠りについた。
スエイニン王の従者 海野てん @tatamu
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