第9話 別離

……『ペットショップ・パブロフ 閉店のお知らせ』

硝子戸の向こうから覗く張り紙に、結宇は目を丸くした。

「……閉店?」

「閉店!?」

結宇よりも大きな衝撃を、かたわらの柴犬が受けていた。

「そんな……我の食事はどうなるのだ!」

「ま、まだ開いてます。だから、今日はまだ大丈夫なはず……」

いつもより少しだけ緊張しながら扉に手を掛ける。

「いらっしゃいませぇ」

穏やかな挨拶はいつもと変わらず、店内も静かだ。常連である結宇の姿を見止めた店員の表情が、僅かにゆるむ。

「あ、あの、貼り紙……」

どういうことか教えてほしいと請うと、店員は快く応じてくれた。

店の周囲も疎開が進み、客が少なくなったこと。全ての生体の引き取り先が決まり、店じまいを決めたこと。ここは所謂支店であり、本店は西日本で親戚が営業している店舗なので、店員の一部は疎開し本店で働くこと。

「長くご利用いただき、ありがとうございました」

話し終えた店員は、ぺこりと頭を下げた。

「いえ、こちらこそ……」

お世話になりました。結宇も頭を下げる。

「もう少ししたら閉店セールもするので、また来てくださいね」

「……」

頷いて答えるのが、結宇には精一杯だった。

「……大丈夫か?」

帰路、柴犬が囁いた。

「はい。でも、ちょっと驚きました」

驚きはしたが、店には店の都合がある。状況を受け入れられないほど、結宇は子供ではない。

「これからどこで買おうかなぁ、とか」

「そうだな」

「もっと離れた店だと、まとめ買いするのもこまめに通うのも面倒だなぁ、とか」

「そうだな」

「……案外あっさりなくなるもんだなぁ、とか」

店も、人も。

時間が経過してしまえば、『パブロフ』のある日常はなくなってしまう。分かっていても信じ難い。末吉を散歩させながら通う、繰り返されて来た生活が変わってしまうなんて。

「あの店員にも、店そのものにも行くべきところがあるというだけだ」

皆、暗闇を揺蕩たゆたうように日々を受け入れているわけではないのだと、言われた気がした。明日をも知れない闇の中を、それでも地に足をつけて歩いているのだと。

案外、そういうものかもしれない。結宇はぼんやりと思う。

見渡せば、周囲の空き家には『開発予定地』の札が掛けられていて、無機物でさえ確固たる未来を持っているように見えた。彼らは、現在進められているメタンハイドレート採取・加工の太平洋側基地に転生するのだ。

まるで行くべき場所のない迷子になったような錯覚が結宇を蝕んだ。足だけはいつもの道を進むが、それを動かすのは習慣という慣性だ。意志ではない。

「あ、結宇ちゃん。お帰り」

「芙由さん」

慣性で辿り着けるのは、このアパートだけだ。

それでも、馴染んだ住人と日常が待っていることにほっとする。

「夏菜ちゃんから聞いた? 講演会があるって」

「はい。ちょっと変わった人みたいですね」

「かなり風変りよ。私が小さい頃、ちょっとの間だけすっごい有名になったんだけど……」

確かめるような芙由の視線に、結宇は首を傾げた。結宇の記憶にはそんな有名人はいない。

「そっか、結宇ちゃんが生まれた頃には、もう話題にならなくなってたのかな」

結宇と芙由の年齢差を考えると、脚光を浴びた期間がごく短いということが分かる。変人と言えば、変人らしい来歴のような気がした。

「芙由さんは行くんですか? 大学外の人でも聞けるみたいですが」

「ううん。バイトあるし、それに私、物理は分からないもの」

ましてや素粒子物理なんて。

芙由は当たり前のように笑っているが、結宇にとっては問題発言だった。

大学に進学した芙由にまで「分からない」と言わせしめる素粒子物理学とは、どんなに難解な学問なのだろう。

「お、どうした?」

末吉のリードを繋ぐと、結宇は早速教科書に向き合った。

「ちょっと、時間がなくなってきたので」

あと少し、あと少し。期日まで学んでおこう。

講演会は来週だ。


瞬きの間にやってきた当日、結宇は電車に揺られながら会場となる大学へと向かっていた。普段はしまわれっ放しの気に入りの服を着て、深まる秋を車窓から眺めながら。

ガタン、ゴトン。改修を繰り返された線路が鳴る。線路のほとんどは地下を走って、時折、廃駅を通り過ぎた。

人口の減少と、維持費削減のために駅の数は随分減らされたそうだ。使われなくなった一部の駅、特に地下に設えられたものはシェルターに改装され、有事に備えられている。

もし今、他国からの攻撃を受けることになれば、列車を降りて最寄りのシェルター駅まで移動しなくてはならない。できれば、何事もなく目的の駅まで着きたいものだ。暗闇の廃駅に、結宇は願わずにいられなかった。

願いが届いたのか、杞憂にすぎなかったのか、いずれにしても電車は無事、目的地まで結宇を運んだ。

「結宇! こっちこっち!」

「夏菜さん!」

構内は予想していたよりも、多くの人で賑わっていた。まだこれだけの人が疎開もせずに残っていたのかと驚くが、人の波の半数は若者であるのを見るに、あちこちの学生が集まって来ているらしい。

上背に勝る学生たちを掻き分けて、結宇はようやく夏菜と合流を果たした。

「……思ってたより、人が集まってますね」

「全然集まらないと思ってたのか、君は」

「……」

しまった、と思うが遅い。

結宇に弁明が許されるならば、悪意がないことだけを主張するのみである。

「ふっふっふー、遠見先生が結構有名人なの、これで分かったかな?」

「そ、そうですね」

夏菜は夏菜で、何やら前向きな結論に至ったようだ。これはとんだ慌て損である。

「……『素粒子物理学の異端児』って、すごい肩書きですよね。まだあまり実感がないですが」

あのチラシに書かれていた謳い文句を思い出す。

視線を巡らせれば、道行く人々にチラシを配り歩いている学生の姿があった。腕には『実行委員』の腕章を付け、聴衆を少しでも増やすべく、講演の直前まで一生懸命だ。掲示板にもチラシと同じ内容がポスターになって貼られている。

にわかにドキドキしてきた。

これだけの学生から支持されるなんて、どんな人なのだろう。

間もなく、結宇はその答えを目の当たりにするのだ。

「講義堂のあっち側は学生用席なんだ。だから、ここだとちょっと見えにくいけど」

「はい、大丈夫です」

ひしめく座席の合間を縫って、結宇は中央後ろ側にどうにか陣取る。その隣に夏菜も腰かけた。

「あの、いいんですか?」

その席で。随分楽しみにしていたのに。

「いいの、いいの。分かんないとこあったら教えてあげるからさ」

「あ、ありがとうございます」

夏菜は自分が満喫するよりも、結宇が講演を理解することを選んだのだ。存外世話焼きだと思うと同時、掛け値なしの優しさがこそばゆい。

「まもなく開演時間です! 皆さん、ご着席お願い致します!」

ハウリングと共に声が響き、凹凸の影を作っていた人々の頭が、一列に揃う。興奮を抑えられぬとばかりの囁きが、着席した影たちの間を漂っていた。

「時間になりました、開始させていただきます」

挨拶と同時に、囁きはわっと豪雨のような拍手にかき消された。

壇上に現れた女性への惜しみない喝采。つられて、結宇も両手を鳴らした。

(あの人が……)

遠見秋教授。

一見地味な、どこにでもいる中年女性の風貌だった。スーツも髪型も洒落っ気一つなく、こじんまりと纏まっている。何となく、灰色を連想させる女性だ。

薄暗がりの色の中、やや窪んだ眼窩から爛々と輝く双眸が聴衆を見つめ返していた。いくつもの眼差しにも怯まず、じっと。

「本日は沢山の方に集まっていただき、大変驚いておりますと同時に、大変感謝しております」

結宇はついに、遠見秋の声を聞いた。

見た目通り、耳にして快でもなく不快でもなく。どこか懐かしい響きを感じる。

「講演を始める前に、少しお話させていただきたいと思います」

マイクを手に、遠見が頭を下げる。

そうか、挨拶というものもあるのか。

既に本題を聞く気でいた身としては、少し鼻白んでしまう。

「こうして沢山の方の前で再びお話をすることができるとは、私自身思っていませんでした」

早く話が聞きたいのに。

「今日のお話は、計画を立ててくださった生徒の皆さんと……」

遠見が顔を上げる。目があった気がした。

「研究を始めるきっかけとなった亡き夫、周詞有吾(すのりゆうご)に捧げます」

再びの拍手。人の手による雨音の中、結宇は身を破らんばかりに跳ねる心臓の音だけを聞いていた。

「今、周詞って……」

夏菜が結宇を見る。彼女も同じものを聞いたのだ。

遠見秋は確かに結宇の姓を、結宇と同じ姓を持つ人物の名前を口にした。

二人は今、同じことを考えている。遠見秋が、結宇の母親である可能性を。

いや、まさか。けれど、あり得るのではないか。肯定と否定がせめぎ合う。

「……お母さん?」

もう、檀上の声は耳に届かなかった。

母親かもしれない。

亡夫の魂を構築できる可能性を求めたと言う女が。

「……マジで?」

「わ、分からない、です」

条件は一致する。周詞の姓、既に故人となった男。遠見秋の年齢も、結宇の母親としておかしくない。

「で、でもさ」

もし、本当に彼女が母親であるならば。

「分からないです。私……どうすればいいのか……」

彼女を母親と呼んで、胸に飛び込むべきなのか。俄かに幸福な想像が駆け巡る。母の腕が背に回され、もう離さないよと頭を撫でてくれる暖かい手。

その手の温度が、祖母のものに変わる。

母でもあり父でもあった祖母。真夜中、結宇に知られないよう母と電話をしていた姿が、脳裏を過ぎった。

幸福な想像から一転、結宇は体が冷たくなっていくのを感じる。祖母が母を結宇から遠ざけていたのは確かだ。

では、その理由は?

祖母が意味もなく、結宇を母親から遠ざけるだろうか?

この一方的な再会を黙殺してしまおうか。それが祖母の遺志でもあるはずだ。それに、

(……傷付きたくない)

もう沢山だ。母が結宇を必要としないとして、天涯孤独の身として生きていくことに変わりはない。ならば、敢えて傷付く必要はないではないか。

けれど、知ってしまった以上、無視し続けることは困難に思えた。

(それに、末吉が……)

家で待っている柴犬を思い出す。今まさに遠見秋の力を欲しているのは彼だ。

ああ、しまった。もう本題に入ろうといる。ちゃんと聞かないと。

いや、聞けないのならば、直接教授に掛け合ってはどうだろう。結宇には、結宇自身の存在こそが、彼女に接触するための切り札なのだから。

(……こんなの、言い訳だ)

スエイニンの存在を盾に、傷つく可能性を恐れながら、遠見秋に接触する理由を探している。

心の奥底の、本当の望みが自分にそうさせるのだ。結宇にだって、そんなことは分かっていた。

「……結宇? 結宇、大丈夫?」

「!」

肩に触れる手が、現実に引き戻した。

壇上のスクリーンには円で描かれた素粒子や、矢印によるエネルギーの図が描かれていく。

せめて、よく見なければ。今は理解できなくても後できちんと見直せるように。

ここに来た、本来の目的を思い出せ。結宇は自分に言い聞かせる。メモ帳を取り出した。

震える手でペンを走らせたのと、講義棟の入り口が騒がしくなったのはほとんど同時だった。

乱暴に開け放たれた扉の向こうから聞こえたのは、争う声。壇上の遠見も講義を中断し、そちらに視線をやった。会場全体の視線がつられて動く。

……『遠見理論』反対!

……『復活』は御子にのみ許された御業!

……遠見秋は善き人々の魂を惑わす!

突然現れた人々よりも、派手な色の横断幕がやたらと目を引いた。手書きの力強い文字が、彼らの主張を謳う。

「うわっ、なにあれ」

隣席の夏菜は明らかに引いている。言葉にこそしないが、結宇も同じ気分だった。

「講演の傾聴が目的ではない人は、出て行ってください!」

腕章を付けた学生の何人かが、乱入者たちを押し返そうと駆け寄る。まるでその抵抗を待っていたように、招かれざる客はいよいよ大声で横断幕のスローガンを読み上げ始めた。

会場がざわつく。壇上の遠見も講義を中断し、事の成り行きを見守っている。結宇もメモどころではなくなってしまった。

「出て行ってください!」

「我々は、遠見理論により地獄に落ち得る人々を救うために……」

「警察を呼びますよ!」

「遠見秋は聖書の教えを阻むことはできない!」

いよいよ噛み合わなくなってきた会話が聞こえる。声も、会場になだれ込もうとする足音も、乱暴なものに変わっていた。

「夏菜さん」

どうしよう。周囲の聴衆も、講演どころではないと立ち上がり始めている。

「結宇、こっち!」

夏菜は結宇の手を引いて立ち上がり、非常口の明かりを目指した。

二人に導かれるように、一つの出口に殺到する人の群れ。正面入り口からは、いまだ乱入者と学生らの争う声が聞こえる。人波に揉まれ、いつの間にか結宇は夏菜とはぐれていた。

「……」

皴になった服に気付く。気に入りの一着を着てきたのに。

結宇の心も服と同じように乱れ、波打っていた。

「おお、帰ったか」

その後、どうやって帰ったのか、結宇は覚えていない。庭先で尻尾を振る犬を見て、ようやく帰宅したことに気付いたくらいだ。

「して、どうであった。何か役に立ちそうな……」

「……」

「……結宇?」

足元に擦り寄る柴犬に、結宇は応えることができなかった。実際、彼の疑問に応じられる程の収穫はなかったし、何より遠見秋のことで頭がいっぱいだ。

彼女の存在を、どう消化すればいいのか分からない。

「結宇」

「……ごめんなさい」

今はただ、謝ることしかできなかった。


今は……と思ったまま、数日があっという間に過ぎた。

スエイニンも最初の二日は結宇の口を割らせようと粘ったが、三日目に普段の生活に戻った。

「大方、理解できずに帰ってきたのだろう」

などと言われても、当の結宇が黙したままなので、それ以上の追求を諦めたのだ。

幸い仕事もなく、思案に暮れる時間はたっぷりある。明くる日も、結宇は遅い起床の後、掃き出し窓から足を投げ出して、秋の陽だまりの中で考えを巡らせていた。

ごろりと寝ころべば、思考はまどろみに解けてようやく考えることを止められる。

「結宇っ!」

ふいに早い足音が近づいてきた。末吉の鳴き声も聞こえる。

「……夏菜さん?」

誰とも話したくないが、のっそりと体を起こす。声の主はやはり夏菜だった。

そして夏菜の後ろには、何者かの影が見える。

「嘘……」

夏菜の後に続くのは、結宇の悩みの種である遠見秋その人だった。

「ど、どうして……」

「どうしてって、遠見先生が結宇の身内かどうか確かめなきゃいけないじゃん」

夏菜は「結宇だってそのつもりだったでしょう?」と続ける。

「そ、それは……」

それはそうだが、しかし、結宇の気持ちを確かめず先走ってしまうなんて。

夏菜の行動は完全に親切心からくるものだ。それが分かるだけ余計に厄介だった。

確かに、いずれはっきりさせなければならないことだ。でも、今ではない。少なくとも、結宇の心はまだそのタイミングになかった。

ましてや、遠見秋と直接対峙する方法なんて最終手段だと思っていたのに。

「……結宇、なのね?」

あの日、檀上から聞こえた声が名前を呼ぶ。思いがけず優しい響きで、結宇は肩を揺らした。

「……お、お母さん?」

この人が、祖母と対立し家に帰ることもしなかった、母親と同じ人なのだろうか。

どう呼んだらいいのか分からなくて口にした「お母さん」の言葉に、遠見は笑顔で答えた。

「お邪魔するわね、結宇」

「うん」

「海鋒さんから聞いたわ。この前の講演来てくれたんだって?」

「うん」

遠見を部屋に招きお茶を出す。嬉しそうに茶碗を両手で包む彼女は、どうやら既にこの邂逅のあらましを聞いているらしい。

「最初、海鋒さんに教えてもらった時は、まさかと思ったけれど」

「うん」

「元気そうでよかった。お義母かあさんと連絡が取れなくなってから、一度家に行ったんだけど空き家になってて……」

「うん」

「本当にごめんなさいね、結宇。あなたを一人にしてしまって」

「別に……」

だっておばあちゃんがいたから。続けようとして、結宇は言葉を飲み込んだ。

結宇は、祖母が電話で母親と言い争う姿を見ている。きっと、お互いに良い感情はないだろう。再会を喜んでいるように見える母の、機嫌を損ねたくなかった。

あの夜から、ずっと自分は母親に捨てられたと思って生きてきたのだ。機嫌を損ねることで、母がまた背を向けてしまうかもしれない。それは嫌だ。

「……あの、お母さんは、どうして家に帰ってこなかったの?」

できるだけ祖母には触れないようにしよう。

「おばあちゃんから聞いてない? お母さん、仕事が忙しかったの」

その結宇の気遣いを、遠見は自ら無下にした。遠見自身はあまり気にしていないのだろうか。少しだけほっとする。

「あ、こないだ言ってた、研究?」

つまり夫を、結宇の父を生き返らせるために。

「そうよ。結宇と私とお父さん、三人がそろった生活を諦められなくてね。……でもそれが結局、あなたを一人にしてしまったのね」

「……」

「結宇は、ずっと帰ってこなかったお母さんのこと、許してくれる?」

「っ……」

頷いて答えるのが精いっぱいだった。母は結宇を捨てたわけではなかった。それが分かっただけでも十分だ。

「ありがとう、結宇」

母の声も震えていた。同じ気持ちなのだ、彼女も。

結宇の胸がいっぱいになる。喉が詰まって声が出てこない。口の奥が熱くてまともに動かないのに、色んなことを話したくて仕方がない。

「お父さんって、どんな人だったの?」

例えば、結宇が知らない父の思い出とか、そんな暖かくて他愛もないことを。

夏菜が遠見を連れてきたときは、思わず彼女を恨む気持ちにもなったが、今は感謝さえ覚える。

「ジャーナリストだったのよ。世界中を飛び回ってね、危険な場所でも飛び込んでいく人だった」

「そうなんだ」

「それに、あなたのことも大好きだった。でも、結宇が生まれて間もなく、やっぱり仕事で海外に向かってね。……それっきり」

「……」

父の話題は浅はかだった。故人である以上、思い出はやがて彼の死につながると分かっていたはずなのに。結宇は内省し、口を噤む。

遠見も何かを考えこんでいて、しばしの沈黙が二人の間に流れた。窓の外から、寝たふりをしている柴犬が時々視線をよこす。

「……ねえ、結宇。お母さんが帰れなかった理由のもう一つはね、お義母さんが家に入れてくれなくなったからなの」

「え」

「あの人は、私の研究に反対していたから。どんなに悲しくても、死者を復活させるべきではないって言ってね」

遠見の指が座卓を叩いた。苛立ちを耐えかねるというように。

「結宇、お母さん間違っている? 人が生き返るのはそんなにおかしいことかしら? 馬鹿な人たちが言う『何故人を殺してはいけないか』なんて言う屁理屈とは、質が違うものよ、これは」

「……わ、分かんない」

「私はお義母さんとはあまり仲が良くなかったけれど。でも、結宇はどう? お婆ちゃんを蘇らせることだってできるのよ」

「それは……」

祖母は結宇にとって育ての親だ。また会えればどんなに嬉しいだろう。

けれど、きっと祖母は望まない。遠見の研究に反対し、実子の蘇生の可能性さえ拒んだ人だ。そしてその意思には意味がある。

それが一体何か、結宇は言葉にできない。だから母に説くことはできなかったが、沈黙でもって遠見の主張に異を唱えた。

「……まあ、いいわ。ちょっと難しい話だったわね。ところで、結宇」

「?」

「昔、有吾さん……お父さんに聞いたことがあるの。お父さんの家系は、もともと巫女だか陰陽だかをやっていたそうなの。それでね、お父さんの家には、代々受け継いでいる物があるんですって。それが何か、結宇はおばあちゃんから聞いてない?」

「し、知らない」

母についた初めての嘘だった。

頭の中には、スエイニンの魂が入っていた、祖母が大切にしていた置物のことが真っ先に浮かんだ。

「何でもいいのよ。本でも装飾品でも家具でも」

「本当に、知らないよ……」

母の視線が怖い。何もかも見透かされているのはないか。いっそ言ってしまおうか。そうだ、別に悪いことではないではないか。

そう思いながら口を噤んでしまうのは、窓の外から犬の鳴き声がするからだ。時折混じる唸り声が、結宇に警告する。

「……分かったわ。もし、何か見つけたらすぐ連絡ちょうだいね。絶対よ」

遠見が名刺を差し出した。

「ねえ、それがお母さんに必要なの? おばちゃんの遺品が?」

長方形の紙切れを指でつまみ、結宇は問う。単純な好奇心からだった。

祖母の遺品ということは、父の遺品でもある。だが、不仲だった祖母の遺品をわざわざ欲しがるとは思えない。何より、結宇こそが有吾の忘れ形見なのだ。その結宇に存在を尋ねるのだから、余程の事情に思われた。

「……科学者のくせにって笑われるかもしれないけれど……」

「笑わないよ。お母さんの言うことなら」

遠見はそれでも迷う様子を見せ、冷めたお茶を手の中で回す。

「……お父さんが言うにはね、その品物には何者かの魂が封じられているらしいの」

「!」

遠見が探しているのは、やはりスエイニンの魂が入っていた置物のことなのだ。びくっと震えた結宇を、遠見はなだめるように笑う。

「勿論、それを全部信じているんじゃないのよ。でもね、講演に来てくれたなら分かると思うけど、私の理論だけでは魂をどうやって肉体に結びつければいいか、まだ分かっていないの」

「結びつける?」

「私は魂を素粒子物理学的に証明し、その再現の理論を提示しただけ。魂は肉体、入れ物がなければ生物として機能できないのよ」

結宇は思わず自分の体に触れた。脈打ち呼吸する温かな肉。確かに内包される魂は、何によって肉体と繋がっているのだろう。

「だからもう、藁にもすがる気持ちなの。オカルトでも昔話でも、とにかく参考になりそうなものを集めたり調べたりしているわけ」

「ふうん」

そうなんだ、という風に振舞ってみるが、結宇の内心は決して穏やかではない。犬の唸り声も大きくなる。

「……結宇、あの犬、大丈夫なの? 噛まれたりしてない?」

「だ、大丈夫。いつもは大人しいの。えっと、もともとは大家さんの犬で……」

「大家って、お義母さんの妹さんの? へえ……」

柴犬をしげしげ眺め、遠見は立ち上がる。

「お母さん?」

「妹さんにも挨拶して来るわ。結宇も随分お世話になっているみたいだし」

「う、うん……」

結宇の反応を、遠見は別れを惜しむものと受け取ったらしい。

「大丈夫よ、また来るから。体に気を付けていてね」

安心させるように結宇の頭を撫で、遠見はアパートを後にした。

庭から見送る結宇。頭の中では、再会の喜び以外のものが大きくなり始めている。

母が大家のもとへ向かったのは、やはり祖母の遺品を探してのことではないかと思えて仕方がないのだ。もう一度、遠見が結宇のもとへ現れた時、結宇は……。

「おい、結宇」

「!」

足元から柴犬が呼ぶ。

「あの女がお前の母親なのか? 我のことを探していたようだが、どういうことなのだ!」

「聞こえていたんじゃないんですか?」

「窓越しでは全ては聞こえぬ」

「でも聞こえてたんですか。便利ですね、犬の耳」

そうだが、問題はそこじゃない。前足が結宇の足を叩く。不思議だ。母が撫でる手とは違うのに、気持ちが落ち着く。

「実は……」

足裏を拭いて、柴犬を室内に招き入れる。何から話したものだろう。悩みながらも、結宇はスエイニンに全てを話した。

「ふむ……」

毛をすいて、夕食も済ませ、寝転がった犬は長らく思案していたが、やがて四本の足で立ち上がった。

「結宇よ」

「はい?」

「我はここを出ていく」

それは突然の宣言だった。

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