第8話 帰ってきた女

末吉は吠えていた。

人気のない夜に、細く遠く、寂しげに。

「静かに!」

「ふんっ」

結宇の文句を柴犬はそっぽを向いて受け流した。

これには結宇も目に角が立つ。爪をたて抵抗する柴犬を抱え上げ、室内に引きずり込んだ。

「何なんですか、その反応。近所迷惑になるから、あまり吠えないでください」

「吠えずにいられるか! 我をたばかりおって!」

「え? たばか……?」

心当たりがない。結宇は首を傾げた。

「そうだ! 我が祖国が無くなっているなどと!」

「だって本当ですもん。ノルウェー王国はもうないです。今は『北海連合王国』です」

「だから何故それをすぐ言わなかった! 十分だ! 我が祖国はいまだ健在だ!」

「でも、連合王国の国王は旧デンマークの家系ですよ?」

「問題はない。もともとどちらかの王家に有事があった場合には、生き残った方が国王を兼任すると約束を取り交わしたこともあるのだ」

「へー」

「千年以上も前の話だがな」

でも、千年もの時経てついに約束が実行されるなんて、なんだかロマンチックだ。

もっとも、旧ノルウェー、デンマーク、アイスランド間での連合王国成立までの経緯には、ロマンの欠片もない。

前世紀から加熱し始めた経済戦争、資源輸出国同士の軋轢。発端は小競り合い程度だったはずの武力行使。最終的に、ノルウェー王国は一番の財源である北海油田を他国に奪われた。

もともとノルウェーは自らを小国と自称し、他国からの影響を受けにくい立場を固辞していたが、今回ばかりは違った。次々とノルウェーから手を引く国が相次ぐ中、唯一立ち上がり、現在の欧州経済連合への加入を助けたのが旧デンマーク王国だった。

「連合王国樹立を宣言する式辞はなかなかよかったぞ」

「ああ、動画で見たやつですね」

ノルウェー王国が無くなっている。その事実を告げたスエイニンがあんまり落ち込むので、結局結宇が根負けしてネタばらしをした。簡単に信じようとしない彼のために、わざわざ動画まで探して見せまでした。

度々遠吠えや無駄吠えをしているあたり、まだ完全に許したわけではないようだが。

「……近くにある国と仲が良いっていうのは、ちょっと羨ましいですね」

「ふむ?」

「いえ、日本ってあんまりそういう感じじゃないので」

今だって、海の向こうからの攻撃は、地球の反対ではなくごく近い大陸からのものだ。

「そうは言ってもな、それならばデンマークとノルウェーももとから一つの国で良かったのだ。先も言ったとおり、国王同士が互いの国を託すほど親密であったし、実際、スウェーデンも含めて同盟関係を結んだこともある」

ところで、おやつはないのか?

尋ねるように、柴犬が部屋の中を嗅ぎまわる。あげません。結宇は無言で首を横に振った。

「しかし、いつの間にかノルウェーはただ一国として独立していた。我が知ったのは日本で大きな戦争が起こる直前のことだったが。その時には、ノルウェーはデンマークと再び一つになる選択もできたと思うのだ。だが、結局それを選ばなかったというのは……その方が良いということだったのだろう」

「それは、どうなんでしょう」

難しい話は分からない。

中学の授業でも、世界史は主にローマ帝国から英仏を中心にしたものばかりで、同じ時代北欧がどういう歴史を辿っていたのかなんて習わなかった。

せいぜい、一時期デーン人によって現在のイギリスが支配されていた時期があるということくらいだ。あとはヴァイキングくらいしか関連語が出てこない。

「一度デンマークに対し、我がノルウェーとスウェーデンで反乱を起こそうとしたこともあるしな。……結局、負けて占領されてしまったが」

「え、弱……」

いや、当時のデンマークが強かったと言うべきか。

「ま、まあ、なんだ。現状の結果についてあれこれ言っても始まらぬ。その時できることを精一杯やって至った現在なのだと、我はそう思っているぞ。うむ」

「……」

「それはお前についてもだ、結宇」

「え」

「若い身空でありながら、日々仕事と引き換えに金銭を得ている。それはお前が今まで経験し学んだものから至った生業だ。しかし、その仕事を一生の仕事だとは思っていない。そうだろう?」

「……」

今の仕事は気に入っている。けれど、大人になって年を重ね、働けなくなるその日まで従事している姿は想像できない。

いや、考えないようにしていた。毎日のことにがむしゃらになっていれば、考えなくて済んでいた。

「我が思うに、お前に今一番必要なのは、生きがいとか目標というものだ。目には見えないが、心の灯台になる。どうすればいいか分からなくなった時、生き方に迷った時、遠くから導いてくれる」

「まるで、自分にはあるような……」

言い方をする、に決まっている。

スエイニンは持っているのだ、彼の言う『灯台』というものを。彼の場合は、故郷そのものだ。光が指し示す方へ、彼の心は向いていることを知っているではないか。

「……だから、あなたは不安にならないんですか?」

「ふむ?」

「知り合いもいない土地で、目が覚めたら犬の姿で……でも、不安な様子なんか見せなかったじゃないですか」

さすがに祖国がなくなったと知った時は狼狽えていたけれど、それこそ、目標を突然失ったから陥ったようなものだ。現に、きちんと状況を把握した今は、普段の調子に戻っている。

「不安か……いや、無いわけではないのだ。世の中の変化はあまりに大きく、我の今の姿は無力にすぎる」

「おまけにたった一人の味方である私も、社会的、経済的に力があるとは言えない」

「そう自虐するな。我が取り乱さずに済むのは、お前のお陰とも言えるのだからな」

「私?」

「部下の前では気弱な姿は見せらないからな。お前といると張り合いがある」

「はあ」

「知っているか? 馬に乗っているとな、騎手が不安になると馬も不安になって、言うことを聞きにくくなるのだ」

「……私は馬じゃないですよ」

だから少しくらいスエイニンが弱った姿を見せても、結宇は変わらない。

でも、自分の存在が張り合いだと言ってもらえるのは、嫌な気分ではなかった。

「好き勝手言ってますけど、私にだって『灯台』みたいなものはありますよ。勿論」

「ほう? 何だそれは」

「えっと……貯金?」

生きがいや日々の目標……そう言われて最初に思い浮かんだのが金というのは、なかなかさもしいと自分でも思う。案の定、スエイニンもちょっと呆れた顔をしていた。柴犬だけれど。

「そういうことじゃなくてだなぁ……。報酬がなくても自分の魂を燃やせるような、燃やし尽くしても構わないものがないかと、我はそういうことを言っているのだ」

「あはは、でも、貯金が増えていくといいですよ。自分の頑張りが認められたようで」

「まったく、そのために命を掛けられるわけでもあるまいに」

その通りだ。

だから、増えていく金額を見ながら安心は得ても人生は得ていない。でも、これも幸せの一つの形だというならばそうかもしれない。

スエイニンに言ったところで、納得するとは思えないが。

「まあいい。いずれ我の存在が、お前にとっても張り合いになるかもしれぬ。そうしたら、もっと自信をもって臣下を名乗るがいい」

「そもそも臣下になった覚えは、まだないです」

「ははは。まだ、か」

そう、まだだ。気が変わる日が来るかなんて分からない。けれど、人生何があるかも分からない。

ある日突然、喋る柴犬に出会ったように。

「ん?」

床に伏せていた犬が、上半身を持ち上げた。

「誰か来るぞ」

「この時間なら、夏菜さんでしょうか?」

「いいや、違う。夏菜の部屋を通り過ぎた」

「それって……」

結宇も声を潜めて耳を澄ます。二階から扉の開閉音が聞こえた。いつもより少し近い。

「……誰?」

「我が知るわけがない」

会ったことのない住人の帰還だと知るのは、数日後のことだった。


「ああ、そりゃあ坑迫くいさこさんだわ」

謎の足音の話を聞いた周詞は……大家の周詞は、思い当たる人物がいたらしい。

「結宇ちゃんが来るよりずっと前にね、仕事だかでアパートを空けていた人なの。いつ帰るかも分からないって話だったけど、毎月の家賃は振り込まれたから、そのままにしておいたの」

よく貸し続けたものだ。いっそ感心する。

結宇がアパートへ越してから、とっくに一年以上経っている。その間、一度も姿を見なかった。何年も使わない部屋を借り続けていたとは、聞かずとも『訳アリ』な気配がしてくるではないか。

「ま、退去のときに汚れてなきゃいいのよ」

「そういうものですか?」

「……でもね、結宇ちゃん」

大矢はちらちらと周囲を気にしながら、小さく手招きした。

ほら、やはりそうだ。これは何かあるぞ。予感がする。

「坑迫さんには気を付けて」

やっぱり。

「仕事で遠方に行くって聞いてたけどね、あの人が出て行く前に色々あったの。アパートに男の人が出入りしてたとか、喧嘩する声がよく聞こえたとか」

「……」

なるほど、見えてきた。

結宇たちの暮らすアパートは『女性専用』である。勿論、あまりに規則が厳しくては、身内の男性も入れなくなってしまうので、『身内以外の男性の宿泊厳禁』を原則としている。

坑迫は、その規約を破っていた可能性があるのだ。どんなに隠そうとしても、複数の目がある共同住宅。見つかれば当然、他の住人から文句が出る。

「坑迫さんと揉めた人は退去してるから、大丈夫だと思うけれど……問題は起こらない方がね、いいでしょ?」

「そうですね」

何年かぶりに帰ってきた住人の挙動に注意して、住人同士の問題がこじれないように……大変そうだが、仮にもアパートを預かる身。断るわけにはいかない。

「そうそう。当たり前だけど、もし危ないって思ったらすぐに警備呼ぶのよ。結宇ちゃんの部屋に非常用ボタンあるのは知ってるわね?」

「はい、大丈夫です」

定期的に警備会社が動作確認しているので、有事の際にも問題なく動くはずだ。

「坑迫さんも、悪い人じゃないんだけどねぇ。何と言うか……」

大家が坑迫女史の所感を述べようとした、その時だった。

「こんにちは、周詞さん。坑迫です」

噂の的がひょっこり現れたのだ。

「あ、あらぁ、坑迫さん! お久しぶりねぇ!」

驚きに固まっている結宇をよそに、大家は早々に態勢を立て直し、客人を迎えた。

「これ、どうぞ。つまらないものですか」

「お菓子? あらあら、ご丁寧に」

「いいえ。こちらこそ、長く不在にしてしまいまして」

ぺこり、ぺこり。下がる二つの頭を見ながら、結宇はようやく相手を視界に捉える。

ゆるく波打つ髪を一つに結んだ、動きやすいパンツスタイル。年齢は三十手前といったところか。

迷惑をかけた相手に、謝辞と菓子を用意してきた。常識的な人物に見えた。一見、問題を起こしそうには見えない。

「それでね、今はこの子に基本的な管理をお願いしてるの。ほら、結宇ちゃん」

話題はいつの間にか結宇に及んでいたらしい。慌てて、観察の視線を引っ込める。

「あ、はい。周詞結宇です。よろしくお願いします」

「初めまして。二〇二号室の坑迫真実くいさこまみです。よろしくお願い致します」

真実は結宇のような年齢の相手にも躊躇わず頭を下げた。子供だからと相手を軽んじない態度には好感が持てる。

「周詞さんのお孫さんですか?」

「そんな感じよ」

笑って誤魔化すのは、『死んだ姉の孫』と説明するより手っ取り早い。

「私はもう災害備蓄品の管理も大変だからね。結宇ちゃんに任せた方が楽なのよ」

「では、結宇さんはいつもアパートに? 学校には?」

「基本的にアパートに常駐してます。不定期の仕事をしているので、時々いないこともありますが」

「まあ! じゃあ、もしよろしければ……」

真実は肩から下げていた鞄に手を突っ込む。何故か嫌な予感がした。

「お暇な時にでも是非読んでみてください」

そう言って押し付けられたのは、教科書より一回り小さいパンフレットだった。表紙には『覚醒せよ!』と大きさばかりが目立つ題字が躍る。

(こ、これは……!)

かたわらで、大家が頬を引き攣らせたのが分かる。

「聖書の視点から医療や自然などの分野を綴ったもので……」

「は、はあ……」

別にいらないです。興味がないので。

暗に示そうとした気のない返事は、

「詳しく項目があったら、いつでも聞いてくださいね! 勉強会もありますから!」

真実には届かなった。


「我が君、助けてください」

帰宅後、最初に結宇の口から飛び出たのは救援要請だった。

「何だ、珍しいこともあるものだ」

相変わらず庭で伸びていた柴犬を引きずって部屋へ。

「あれは私の手に負えないかもしれません」

「喋る犬より手に負えないのか?」

「喋る犬より、ある意味やばいです」

「このスエイニンより恐ろしいものとは」

「二〇二号室の人なんですけど、実は……」

大家の家で偶然鉢合わせたこと。一見普通に見えたが、初対面でいきなり宗教勧誘じみた挨拶をされたこと。

まとめてしまえばたったこれだけのことを、結宇は半ば動転しながら訴えた。いつにない結宇の姿を柴犬は少々面白そうに見つめていたが、全てを聞き終わると、

「そんなことか、つまらん」

退屈だったと言わんばかりに欠伸まで出した。

「そ、そんなことって……」

「お前にとって大切なのは、あくまでも他の住人、夏菜や芙由に迷惑が及ばないことだ。話を聞いた限り、はっきり断ってしまえば聞きそうな相手であるし、そんなに心配しなくてよいだろう」

「そう、ですか?」

何せ、ああいうタイプと出会うのは初めてなので、自分の中の位置づけが難しい。あまり『良い印象』のグループには入らないのは確かだが。

「ほれ、夏菜なんかは嫌だと思ったらはっきり言う性格だろう? 迷惑だと思ったら、あいつなど勝手に撃退するさ。皆が皆、お前のようではない」

「……」

それは間違いない。

「そう言われると、何だかあまり心配じゃなくなってきました」

「そうだろう、そうだろう」

気分も落ち着いてきた。

念が籠っていそうで、捨てられずに持ってきてしまったパンフレットも、ただの広告紙に見えてくる。

「たまには役に立ちますね」

「減らず口が叩ければ、もう大丈夫だな」

「えへへ」

彼がいてくれてよかった。素直にそう思う。

もしスエイニンがいなければ、結宇の動揺はもうしばらく続いたはずだ。

二〇二号室の真実については、いずれ夏菜と芙由にも教えなければならないが、落ち着いて説明できる気がした。

「そうだ、結宇よ。大丈夫だとは思うが、念のため我のことはそいつにばらすなよ」

「言っても信じないと思いますけど。そっちこそ珍しいですね、そんなこと言うなんて」

「当たり前だ。我は一度死んで復活した身だぞ。一部の連中にとっては『復活』というのは特別だ」

とは言え、犬の体で復活を果たすのは特別というより特殊だ。

「我が祖国から離れたのも、もとはそれが理由だ。復活を得る者はたった一人、主に愛されし御子だけでいいと考えている連中がいたせいだ」

「……もし、そういう人たちに見つかったら?」

「我をどうするか分かったものではないだろう?」

復活を果たした御子の如く担ぎ上げられるのか。

あるいは、邪法を用いた悪しき者として葬られるのか。

「キリスト教が我が国に及んでしばらくは、キリスト教と以前から信仰されていた伝説とはうまく共存できていたんだがな。臣民がどんな思想を抱いても構わぬが、我にも自分自身を守る権利がある。一部の連中の信条故に葬られるのはごめんだ」

そして何より彼に、スエイニンに生きていて欲しいと考えた人々が確かにいたのだ。

遠吠えが聞こえた気がした。

ここにいる。お前たちが救ったスエイニンはここにいる。

遥か雪の大地にいるかもしれない、あるいは先んじて空の向こうに旅立った、彼を愛し愛された民に届くように、高く長い遠吠え。

空気を震わせる咆哮が、極夜の国へ至る旅を思い描く。

「まあ、事情は分かりました。元から言うつもりもないですし、安心してください」

「そうだな。我も深刻に案じているわけではない。良きに計らうがいい」

「うわ、いきなり偉そう」

気が抜けたのでお茶でも飲もう。

「あ、あの」

「うん?」

「さっきは、ありがとうございます。相談に乗ってくれて」

立ち上がり、互いの視線が外れた時、結宇はようやく言い損ねていた感謝を口にできた。柴犬の尾がパタパタと揺れて床を打つ。

「ははは。礼なら小腹に入るものでも持って来てくれ」

「だめです。太りましたね?」

足先で柴犬の腹をつついた。

「ちょっとくらい太っているのが愛嬌があるというものだ。以前撮った動画とやらも、小太りな我の方が受けがいいやもしれぬ」

「ああ、すっかり太った後に、以前の健康的な姿を見返すのもいいかもしれないですね」

また芙由から機械を借りて来よう。

そんなことを考えながら、淹れたての茶を覚ましていると、

「結宇ちゃん! 結宇ちゃん!」

いつになく慌てた芙由が、庭から回り込んでやって来た。

「芙由さん、いいところに」

「結宇ちゃん、これ!」

結宇の言葉をさえぎって差し出されたのは、『覚醒せよ!』のパンフレットだった。

「あ……」

あの女、早速やったな。

「知らない女の人にいきなり渡されたの。結宇ちゃんのところ、変な勧誘なかった? 大丈夫?」

今まで勧誘の類がアパートにやって来たことはない。芙由が驚くのも仕方がないことだ。

「あの、その人実は……」

このアパートの住人なんです。

小さく小さく伝えると、芙由はいよいよ言葉も出ない有様で「嘘でしょう?」と表情だけで語った。

「……しかも、他にもちょっと色々あるみたいで」

過去に決まりを破った可能性があるという点では、むしろ『他の色々』の方が、質(たち)が悪いかもしれない。

「いえ、これは夏菜さんにもお話しないといけないことですね。なので今夜……」

「夏菜ちゃんが帰ってきたら?」


その日の夜、

「見て見て! これポストに入ってた! あははは、こんなの初めて見たー!」

ポストに突っ込んであったらしいパンフレットを持って、夏菜が結宇の部屋にやって来た。

「待ってました、夏菜さん」

「え? そうなの?」

真実が夏菜にもパンフレットを渡そうとすることは予想できた。そして、夏菜がそれを見てどんな反応をするのかも。

そしてその通り、夏菜は腹を抱えて笑いながらやって来た。結宇たちは、各々料理をしたり動画を撮ったりして待っているだけでよかった。

「それ、夏菜さんの部屋の隣、二〇二号室の人が入れたものなんです」

「こないだ帰ってきた人か。ふーん」

「夏菜ちゃん、机の上にパンフレット置かないで」

「鍋敷きにでもしておけばいいじゃん」

「あ、末吉にもご飯あげなきゃ」

一人増えた座卓で、少し遅い夕飯が始まる。いただきます。

「まあ、いいんじゃない。そういう人がいても。迷惑かからなきゃ気にならないし、迷惑だと思ったらはっきり言うし」

結宇と芙由の作ったおにぎりに手を伸ばす夏菜は、新たな住人について特別の感慨はない様子だ。

「それはそうなんですが、実はお二人に知らせておきたいことがあるんです」

夏菜の言う通り、迷惑のかからない範囲ならば、宗教活動でも何でも大いに結構である。

「二〇二号室の……坑迫さんって言うんですけど、どうも勧誘以外にも、男性を連れ込んでいたとか、喧嘩の騒音で隣室と揉めたとかあったようなんです」

本題に入ると二人の表情が変わった。「本当に?」尋ねる視線が結宇に向けられて、それからお互いへと注がれた。

「宗教に男か……。これは、かなり泥沼な過去の予感がする」

夏菜は早々に、脳内にサスペンスな想像を描いているらしい。

「うーん……もしかしたら、男の人って問題解決のために呼ばれた弁護士さんってことはないのかな?」

一方芙由は、かなり現実的な予想を立てていた。

「ふーゆー、それは面白くないよ」

「もうっ、面白いとか面白くないとかじゃなくて。想像とか噂って、話してるうちに勝手に膨らんで段々それが本当だと思うようになるから」

それは、結宇にも覚えのあることだった。

もしかしたら、芙由にも。ひょっとしたら、夏菜にも。

頭上から見下ろす電灯は、まるで各々の心の内を照らし出そうとしているように明るい。皆、光の中に自らの影を晒すまいと身を縮こませた。食卓の空気もどことなくよそよそしくなる。

「と、ともかく」

場の雰囲気を変えようと、最初に声を上げたのは夏菜だった。

「何かあったら、ちゃんと結宇に言うよ」

「あ、はい。お願いします、海鋒さん。芙由さんも」

二人が頷いた。

真実にどういう過去があろうと、まずはアパートの住人たちが居心地よく暮らすことが肝要であり、結宇の仕事である。

「結宇と芙由は、その杭迫さんに会ったの? どんな感じ?」

夏菜が再び真実に興味を示す。

「うーん、普通ですね」

ですよね?

確認のために振り返ると、芙由の首が縦に振られた。

「そう。今、結宇ちゃんの話を聞いて驚いているくらい。男の人を振り回すような感じはないし、喧嘩っ早いって印象もなくて」

「普通かー。人は見かけに寄らないって言うし、何だかやっぱり怪しい気がしてきた」

夏菜は再び、想像の『杭迫像』をこね始めた。

「まったく、またか。いつの時代、どこの国でも噂話が好き者はいるな」

食卓から一歩引いて、食後のくつろぎを噛みしめていた柴犬が揶揄する。

幸いなことに結宇以外の耳へは届かなかった。


三人が話し合ったにも関わらず、初日以来、真実に出会うことはほとんどなかった。

部屋から時折生活音が聞こえるものの、どこかに出掛けていることが多いようだ。

「はあ……」

ともあれ、心配事が少ないのは良いことだ。

特に嫌なことがあった日は。

「結宇、帰ったのか。今日は随分かかったな」

「ああ、はい。今、ご飯出しますね」

ふらふらと疲労を引きずる足取りで自室に戻った結宇は、間もなくペットフードの袋を持って現れる。

「お……い、結宇」

「……」

「結宇! 皿を見ろ!」

「!」

はっと視線を落とせば、皿に山盛りになった餌が。

「す、すみません」

「多く貰う分には構わぬが。どうした、帰った時から妙に呆けておるぞ」

「……」

「何でも話してみるがいい。食いながらでよければ直ぐにでも聞いてやろう」

「……」

「……」

何も言おうとしない結宇に痺れを切らし、柴犬は小さく鼻を鳴らすと適量に減らされた食事に鼻先を突っ込んだ。

すると、無防備な頭頂部に手が乗せられる。

「おい」

「気にしないでください」

考え事をしながら、手持ち無沙汰に遊ばせる指先。

「おい、やめんか」

「いいじゃないですか、これくらい。落ち込んでるんだから、優しくしてください」

「優しさの強要は止めよ。女は嫌いではないが、自分の不満を言葉にせず、思わせぶりな態度だけで相手に伝えようとするところは心底好かぬのだ」

ついに、柴犬は餌を貪りながら喉を鳴らして唸った。ようやく結宇の手が引っ込む。

「お、器用ですね」

「我も初めてやったぞ。こんなこともできるのだな、犬は。長く生きても新しい発見があるのは素晴らしい」

「じゃあ、聞いてください」

「最初から素直に話せばいいのだ、まったく」

吐き出し窓に腰かけ、結宇は膝に肘を預けて頬杖をついた。夏の盛りを過ぎた風は、早くも秋の気配を運ぶ。

秋らしく、腹の虫が空腹を訴えたが、どうやら結宇は食事をする気分にもなれないらしい。

「お式の後に、別のご遺族の方と打ち合わせがあったんです」

「ほう。なかなか忙しかったのだな」

「はい、私はお客様と直接お話する仕事は割り当てられないんですが、今日は、打ち合わせを少し手伝ったんです」

お出迎えと、お茶出し。

終わればタイミングを見て帰っていいと言われたので、気軽に引き受けた。話し合いを見るのも新鮮で、ちょっとばかり興味があった。

しかし、今日の客は気軽な気持ちで臨める相手ではなかったのだ。

「死んだ人間で金儲けしやがって!」

そう言って、中年の客は茶碗の中身をぶちまけた。同行の婦人は連れを責めるでもなく、茶碗の割れる音を皮切りに、しくしくと泣き出してしまった。

「大丈夫ですか!?」

慌てて給湯室から布巾を持ってくると、今度は胡乱な瞳がぎろりと動いて、結宇を捉える。

しまったと思っても、もう遅い。罵倒の矛先は結宇に向かった。

死体漁りの蛆虫どもめ。

散々罵った遺族は、結局こちらの提示したプランを選んで帰って行った。

「気にするんじゃないよ」

客を帰してから、担当の社員は言った。

「あんな状態の人が、まともに葬式をできるはずがない。だから、うちみたいな会社がお金を貰って代行するんだから」

死を受け入れることも、諦めることもできない遺族に対し、葬儀のプランや金の話をするのは、楽な仕事ではない。

だからと言って、ぐずぐず先延ばしても故人は生き返らない。何より、衛生保全条例によって五十日以上は遺体を保存できないのだ。

その間に、亡き人を見送るための最良の方法を探す。

僧侶の手配に式場の準備、送迎から司会まで、社員は驚くほど何でもこなす。その見返りに金銭を貰う。そこに悪はない。

少なくとも結宇はそう思う。身内を亡くし、見送った身だからこそ。

「そう自分で思っていても、ああいう風に言われるとちょっと傷つきます……」

「なるほどなぁ。ただでさえ、怒れる人間というのは疲れる存在だと言うのに」

「ほんとですよ」

「悲しみが怒りに変わるほどだったら、殉ずることもできるだろうに」

「それ、さすがに無茶ぶりです」

ひょっとして、苦しまずに死ねれば共に旅立つことを選ぶ人もいるのだろうか。

「そうだな。さすがに我が生きていた頃、つまり人間だった頃でも古い葬儀の作法だった。現在ではすっかり廃れた風習だろうな」

「ヴァイキング時代の話ってことですか? というか、殉死の文化ってどこにでもあるんですね」

「そうは言っても、それなりの身分がないと従僕が死ぬことはなかったぞ。貧者は舟で遺体を焼くのがせいぜいだ。式を行った上、様々な供物と共に葬られる者なぞ一握りだ」

「へえ。舟で」

海の上の火葬場。波に影を重ねながら、野辺の煙を燻らせる舟。かつて海を走った人々は、煙の流れ行く水平線の向こうに死者の国を想像したのだろうか。

「水平線の向こうから帰って来たんですねぇ」

あなたは。

「水平線? 何のことだ」

「別に」

「何だ、妙なやつめ」

軽口はそれ以上の追及をしなかった。だから、今度はお互いに好きなだけ黙っていられる。さっきまでの苛立ちや気落ちが無くなって、沈黙もまた心地よい。

伸ばした手で柴犬の、ちょっと硬い背中を撫でた。そろそろ換毛期だろうか。近いうちに目一杯梳いてやろう。

取り留めもない思い付きで遊んでいると、

「ただいまー!」

夏菜が帰って来た。

「おかえりなさい、海鋒さん」

「あれ? 今仕事帰り? 最近忙しいの?」

部屋着ではない結宇の格好を見止め、夏菜は首を傾げる。

「いえ、今日はたまたまで。忙しいわけでは……」

「ほほう」

忙しいわけではない。それを知った夏菜は妙に嬉しそうだ。

「おい、結宇。今日は夏菜もおかしいぞ」

足元で柴犬が鼻を鳴らす。

言われるまでもなく、結宇も気付いていた。

これは聞くべきなのだろうか。「何かあったんですか」と。

「止めろ。触らぬ神に祟りなし、だ」

スエイニンとしては無視を決め込むことを推奨するらしい。

「海鋒さん、もしかして何かあったんですか?」

結宇としては、スエイニンの意見に反対だった。足元で「知らないからな!」と抵抗の声がする。

「あ~、分かっちゃう?」

「何だかウキウキしてますもん」

よくぞ聞いてくれました。夏菜の表情が満面の笑みに変わる。

「じゃーん! 講演が決まったんだー!」

「こうえん? 海鋒さんが、ですか?」

「あはは、まさかー」

言いながら、夏菜はポケットから折り畳んだ紙を取り出した。皺こそ付いているが、丁寧に角を合わせて畳まれている。

「私が尊敬してる物理の先生がいるんだけど、その先生の講演が決まったの! すっごいの!」

広げられた紙面には『遠見秋(えんみみのる)教授大講演会』の題字が刷られていた。手書きの文字は勢いばかりが先走ったように粗雑で、しかし喜びに溢れている。

「へー」

軽い驚嘆を表してみたものの、それがどう凄いのか分からない。

「人前で講演するなんて、下手したら十年ぶりなんだから!」

「十年?」

もしかして、よっぽどの変わり者なのだろうか。大学教授には変人が多そうだというのは、結宇の勝手な偏見なのだが。

「そう、色々あってね。でも……」

夏菜は自慢するように末吉の前にもチラシをひらつかせる。「興味はないな」夏菜には聞こえない声が応えた。

「なんと! 我が大学の有志によって公開講義の実施に漕ぎつけたのだー!」

「それは、すごいですね」

「だからすごいって言ってるじゃん!」

そう言えばそうだった。

「それでね、公開講演だから学生以外でも聞けるわけ」

「はい」

「だから、結宇も聞きにこない?」

「私が?」

予想外の誘いだった。どうしよう。

「たまにはいいじゃん、そういう外出も。案外面白いかもしれないよ」

「でも、あの……私、あの……」

中学を中退してから、まとも勉強なんてしていない。そんな自分を大学の講演に招くなんて、結宇の学歴を知らないからできることだ。そんなの。

「……実は、中学の途中から学校行ってなくて。だから、行っても……」

「知ってるよ。でも、それと講演とは何の関係も無くない?」

場違いになってしまうからと、断ろうとした結宇に、夏菜はまた予想外の言葉を発した。

「え、でも……」

「嫌だって言うなら、無理には誘わないけど。でも、ちょーっと考えてみて」

「?」

「十年以上表に出てこなかった先生をさ、有志の学生皆で壇上に持ち上げて、やっと大学にも開催を認めさせたの」

「はい」

十年以上脚光を浴びず、しかし未だ現役の学生から支持されている。それだけで、遠見という人の実力が並々ならぬものであることは、結宇にも分かった。

「これを聞かなきゃ、次いつ開催されるか分からないよ! ううん、もしかしたら、先生最後の講演になるかもしれない」

「……」

「これはもう、聞くしかない! でしょ!?」

そう言われると、途端に何だか惜しくなってくる。いつだったか、何十年かに一度しか公開されない文化財のニュースを見て、柄にもなく興味が出た時のことを思い出した。結局、見には行かなかったけれど。

「……」

「もー、悩むくらいなら来て見なって! 結宇!」

これ上げるからさ。結宇の手に、折り目の付いた紙が押し付けられる。

「行くなら言ってよ。案内するからさ!」

「あ、ありがとうございます、海鋒さん」

「いいってことよ。それとさ、名前」

夏菜が自身を指さした。

「夏菜でいいよ」

「あ、はい。夏菜さん」

「んじゃね」

自室へ向かう夏菜の背中は浮足立っていて、彼女が楽しみにしているのが伝わってくる。憧れの教授が再び日の目を浴びる機会に恵まれたことを、全身で喜んでいるのだ。

「……夏菜さん、知ってたんだ」

私が、まともに学校に行っていなかったこと。

「親もなく、共同住宅で一人、働きながら暮らしている年端もいかない小娘」

柴犬が呟きに応じた。

「は?」

「今のお前の状況だ。これだけ条件が揃えば、学校に行ってないことぐらい、誰でも考え得る」

「……そう、かもしれないですけど」

でも、自分のことがまるで筒抜けなのはちょっと恥ずかしい。自分で少し後ろめたく思っている事柄だと、特に。それを責める様子が夏菜にはなかったことだけ、救いだった。

「ところで、どうするのだ? 肝心の講義とやらは」

「うーん……」

正直なところを申し上げると、あまり乗り気ではなかった。

「遠見秋教授、大講演会! 素粒子物理学の異端児、壇上への帰還!」

チラシの題字を読み上げる。

「はは、これは大層な肩書だ」

スエイニンが小馬鹿にしたように笑った。

確かに、これだけ持ち上げられて期待を膨らませたのに、肩透かしを食らうことになったら相当の落胆だ。乗り気ではない方に振れていた天秤が、更に傾く。

「!」

しかし、その秤は一瞬で逆転した。

「私、講演に行ってきます」

「お? どうした、突然」

「これ、これです」

柴犬の前に紙面を広げ、指で問題の箇所を示す。

「結宇、すまぬが読めぬ」

「えっ、なんだぁ。いいですか、ここに書いてあるのは」

……テーマ一『素粒子物理学と生命活動』

……テーマ二『魂の再構築を素粒子物理の視点から考える』

講演は大きくこの二つの主題を取り上げ、そこから枝葉を伸ばして遠見の研究、過去に発表された論文へと展開されるらしい。

「つまり、科学的に人の魂について調べているみたいです」

「何と!」

「これは、とんだ盲点だったかもしれません」

「まさしく! まさかこんな研究をしている者がいるとは!」

「あ、ちょっと。あんまり吠えないでください」

「ははは! これを喜ばずにいられるか! もしかしたら!」

もしかしたら、本当にスエイニンを助けられるかもしれない。結宇の心にも希望が湧いてきた。

「あ、そうだ」

「どうした?」

「講演を聞く前に勉強をしておこうかと思って」

庭の隅の物置から、秘して久しい教科書を探す。黄色に変色したそれは祖母のものだが、学問の基礎的な内容は年月が経過してもそう変わりないだろう。

「あった」

傷んだページを繰れば、思った通り見覚えのある内容が見つかった。

回路、オームの法則、磁力……見覚えはあるが『素粒子物理』にどう繋がるのか、結宇には分からない。

では化学の方か。もう一冊引っ張り出して、埃を払う。

原子と分子、分解と化合、酸化と還元……

「……」

見覚えはあるのに、ふわふわとした記憶しか蘇らない。具体的な内容はもとより、どこが要点であるのかさえ。

「……」

難しい。これで以前はそれなりに成績がよかったなんて、自分で自分が信じられない。

「どうした?」

古い教科書を開いたきり、固まってしまった結宇を柴犬がのぞき込んだ。

「いえ、あの、自分がすごく馬鹿になったような気がして」

読んでも読んでも頭に入ってこない。理解を伴わない文字列は、ただただ苦痛をもたらす。

「お前、随分勉強などしていないだろう。戦いもそうだ。鍛えなければそれだけ衰えるものだ」

今の結宇には耳が痛い。

「幸い、お前はまだ若い。取り返す時間はまだまだある」

「お、教えてくれる人が欲しいです」

尋ねれば答えてくれる、教師という存在は偉大だ。

溜息をついて教科書を一度閉じる。夏菜からもらったチラシの方が、理解できなくても内容を想像できるだけ、まだ親しく感じた。

「……素粒子物理学の異端児、か」

物理や化学と、未だ解明されない霊魂の領域。

その二つを結び付けてしまうなんて、異端児の二つ名に相応しい所業だ。どこがどう繋がったのか、結宇にはさっぱり分からない。

「我が君、我が君」

スエイニンを呼ぶ。柴犬がちょっとだけ億劫そうに寄ってきた。

「どうした」

「講演を聞いても、肝心の私の頭が理解できなかったら勘弁してください」

「なっ! それでは意味がないではないか!」

「可能な限り、当日まで頑張りますので」

まだ時間はある。でも期待はしないで欲しい。

「本当に頼むぞ! おいっ、結宇!」

キャン、キャンッ!

高い鳴き声が響いた。

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