第7話 田舎淑女
「こんにちはー。実習生の海鋒です」
挨拶と同時に仕切りカーテンを引くと、白い顔の老女がこちらを向いた。
「あら、初めてかしら?」
薄くなった白髪が揺れる。手入れが不十分なせいで、くしゃりと絡まっていた。
「はい。実習生の海鋒です。よろしくお願いします」
体温の測定に、投与中の複合抗生物質の確認。昨日の検査結果を見ながら、病状の経過を説明していく。結論を言えば、
「経過は良いですね」
じき退院できることを説明すると、老女は安心したように微笑んだ。
「ありがとうね。……私が子供の頃は、風邪なんかで入院することなかったんだけれど」
「今はほら、抗生物質に耐性のある菌が増えてしまったせいで、風邪が重症化しやすくなっていますから」
特に抵抗力の低い小児や高齢者は、入院に至っても仕方がない。
二十一世紀の初めに危惧されていた耐性菌の蔓延は、世紀を跨いで現実のものとなった。
抗生物質を使うのはヒトだけではない。家畜に対しても当たり前のように投与されている。最早抗生物質に溺れていると言っても過言ではない社会は、細菌たちが耐性を得るのに適した環境となってしまったのだ。
一度は悪性腫瘍にも匹敵する死亡原因になった薬剤耐性菌だが、科学者と医療人の涙ぐましい努力によって、どうにか抑え込まれている。
現在、感染症は自己免疫強化による治癒が対処の主流だ。もっと言えば、感染の予防が最も重視される。重症化した場合のみ、点滴による抗生物質の投与が行われるのだ。
この患者は重症化し入院にまで至ったが、無事に持ち直してくれた。
「いつ頃退院できるかしら?」
「それは、お医者さんに聞いてみてください」
さっきも言ったが、夏菜はあくまでも実習生だ。
治療経過途中の数値の見方や、臨床現場での患者への接し方を学んでいる身であって、様々な判断ができる立場ではない。現に病室の外では、夏菜の担当になっている看護師が控えている。
「まだかかるなら、ねえ、ちょっといいかしら?」
老女が袖を引く。視線は泳いでいた。
言いにくい。でも、どうしても言っておきたい。そんな気配だ。
「……あのね、私の担当の看護師さんを替えて欲しいの」
「え?」
それは、今まさしく病室の外で待つ看護師のことだ。
「あの人、外国人でしょ? 疑っているわけじゃないのよ。ええ、あの人が犯人だなんて……年齢も違うしね。でも、私みたいな年代は、あのどんど焼きの事件も体験してきた人間なの。分るでしょう?」
「……」
どう答えるべきか。
安請け合いしてはならない。頭の中で警鐘が鳴る。
かと言って「彼女は移住三世代で、日本人と変わりませんよ」と受け流しても、患者は不満を抱えたままになるだろう。
「いいわ、学生さん。私が全部悪いことにしてもいいわ。偏屈で偏狭な年寄りがわがままを言うって、そう言ってもいいから」
「そんな風には、言わないですよ」
しかし、世間の風当たりとしては、まさしく彼女の言う通りになるだろう。
前世紀の半ばから、日本は就労者不足対策のために外国人の働き手を求めた。就労移住者はやがて日本に定住するようになり、今や外国人由来の家系は人口の三割を占めている。
増え続けるマイノリティーは、やがて無視できない数になり、日本国での権利を求めるようになった。
彼らの一部は、国籍を日本国外に置きながら、参政権や社会福祉の恩恵に浴そうとした。日本で働きながら、あくまでも外国人の立場として諸々の納税を拒み、国外に財産を移す者が多いことも問題になっていた。
あくまでも権利を求める元移住者の一部は過激化し、もともと反日本を掲げる一部の外国勢力と結託した。そうして、正月明けの炎に爆発物が投げ込まれるに至る。
恐らく、この老女は『どんど焼き事件』までの移住問題をリアルタイムに見て生きてきたのだ。根深い在日外国人への不信感は、夏菜でも想像に余りある。
「ねえ、お願い。あなたぐらいの世代と私とでは、ああいう人たちへの見方が違うのよ……ね、先に私から悪者になるから」
「……約束はできませんが、上に相談してみますね」
老女の気持ちも分かるからこそ、無碍(むげ)に断ることはできなかった。
「ありがとうね、ありがとう……」
感謝の声が小さく震えていて、目の前の患者が自身の願望に対し葛藤を抱いていることが伝わってくる。
深く深く下げられた頭は、夏菜が病室を出るまで上がらなかった。
「お待たせしました」
「トラブルはありませんでしたか?」
「はい。確認お願いします」
体温や呼吸、血圧などの一通りのチェックを終えたタブレット端末を差し出す。
受け取った看護師は、夏菜による所見も含めた診察録に一通り目を通すと、
「うん、問題なしね」
歯を見せて微笑んだ。人懐こい笑顔は彫りが深く、異国の情緒を醸す。
何気なく視線を落とせば、その胸元には『アンドラーダ』と書かれた名札がつやつやと光っていた。
「海鋒さん、この間停電でできなかった実習内容のことなんですけど……」
名字こそカタカナだが、アンドラーダは夏菜にとって良き先輩であった。
日本語は流暢で仕事への熱意もある。看護師としても、彼女の指導はとても丁寧だ。病棟を預かる医療人として、後輩にできる限りのことを学ばせようとしてくれる。
だから、あの患者の要望を知れば、きっとひどく落胆するだろう。
勿論、患者の訴えを揉み消すこともできない。そんなことをしては、お互いの信頼関係に影響する。
かと言って、アンドラーダに直接伝えるのは最悪手だ。それくらい夏菜にも分かる。
こんなに面倒なことは久しぶりだ。
ひょっとして、進学を反対した祖母らを振り切るよりも、気を遣っているかもしれない。
(……)
嫌なことを思い出してしまった。
後中三年の冬、インフルエンザに倒れて入試を逃した夏菜へ、祖母は「ほらごらん。神様も受験なんかしなくていいって言っているのよ」と言い放った。
孫娘に言う言葉だろうか。
結局、一年の浪人を経て大学に滑り込んだものの、看護学部では、量子物理も数理物理も選択外だ。こっそり講義にまざろうにも、必修科目が存外多くて自由が利かない。
折角祖母の鼻を明かせたというのに。
夏菜は決して、現状には満足していなかった。
「どうしたの?」
突然、アンドラーダの顔が覗く。
「あっ、すみません」
「考え事? 質問があるなら、早いうちにね」
「はい」
「ちょうど交代の時間だし、休憩にしましょう。何かあったら、休み時間中でも大丈夫だから」
「ありがとうございます」
今は親切が辛い。
休憩室から入れ替わりに出ていく看護師たち。小さく交わされる笑い声。
いっそこの中の誰かに、上へご進言いただくようお願いしてしまってもいいかもしれないなんて、開き直ることまで考える。
しかし、まずは休憩にしよう。少し遅い昼食は実習中の潤いである。
「アンドラーダさん、この前中断してしまった透析患者の……」
「あっ、ごめん!」
夏菜を遮って、アンドラーダはポケットから薄型の携帯端末を取り出す。一部の職員が持っている仕事用のものだ。
「…………!」
機器を顔に当てた彼女の口からは、異国の言葉が飛び出した。
陽気な発音は、アンドラーダの血に流れる南国を想起させる。高い笑い声を何度か響かせ、会話はごく短い時間で終わった。
「ごめんなさい、実は今度結婚するんだけど……ちょっと、そのことで」
謝罪とは裏腹に、顔は幸せで蕩けかけている。
「そうなんですか。おめでとうございます」
祝いの言葉はありきたりでも、アンドラーダを喜ばせたらしい。蕩けた表情の笑みが深くなる。
彼女の人生の幸福を祝わないわけではないが、しかし非難の気持ちを押し隠すのは困難だった。
医療施設は、通信用の電波帯を他より融通してもらっている。その専用の通信機器を、アンドラーダは個人的な用事のために使ったのだ。いくらスタッフではないとは言え、夏菜という他人の目がある場所で。
非常識だ。咎めたい気持ちがある。
けれど、もしかしたら他の職員だって同じことをしているかもしれない。もしそうならば、アンドラーダはなんと答えるだろう。
皆していることだと言うだろうか。
日本人だって、生真面目に全てのルールやマナーを守っているわけではないじゃないか、と。だから、自分が咎められる理由はないと突っぱねるだろうか。
日本人だって?
外国人だから?
(……どっちなんだろう)
諸外国系の日本人なのか。
日本に住んでいるだけの外国人なのか。
外国の名字を名乗り、恐らくは祖先を同じくする男と結婚する彼女は、どちらなのか。
分からないのだ。アンドラーダのような人々が、自身をどう捉えて生きているのか、傍目からは全く分からない。
何を思い、何のために日本にいるのか。容易には知れないアイデンティティの不可解さ。
その不気味さに、夏菜は首筋を撫でられた気がした。
あの患者は、ずっとこれを味わいながら生きてきたのかもしれない。
(なるほど、確かにこれは嫌……かも)
差別反対も、政治的配慮もくそくらえである。
社会の中、隣に立つ人間が何者か分からない恐怖は、綺麗ごとでは拭えないのだ。
(……意外だ)
自分にも、なかなか『保守的』と揶揄されるような部分があった。
もし、うっかり何かの間違いで、祖母と穏やかに話せる日が来たならば、彼女の中にある古典的な思想の根源について、話し合ってみたいような気がした。
「……」
いや、やはりやめよう。
来ない日の話は、考えても仕方がない。
夏菜が祖母に感謝することといえば、実家を飛び出す決心を固めてくれたことぐらいだ。
相性は悪いが、一度こうと決めたら簡単に考えを変えないところは、やはり血が繋がっているというべきか。しかし祖母は、時代への適応能力は驚くほど欠けていた。
「小作人が増えて、ようございました」
芙由が目を丸くした単語を何でもないように使う祖母は、代々続く農家の娘だった。古いばかりの土地に根を張ることしか知らない。そんな、古木のような人間だった。
かつての農地の大半は、手入れもされず過去の実りは見る影もない。誰もが、やがて土地とともに枯れゆく運命と考えていた。
だが、曾祖父の代から事態は一変する。
疎開者への就農支援が本格的に開始されたことで、農地は息を吹き返したのだ。海鋒家も、指導の名目の下、初めて農業に携わる移住者を何人も抱えるようになる。
「ごらん、夏菜。峻峭(しゅんよう)の時代さえ超えれば、再び私たちの時代が来るというもの」
波打って遥かに続く緑を、祖母に手を引かれながら見た。
日ごと伸びていく草葉の間には、常に誰かがいて作業をしている。慣れない農作業に四苦八苦する手付きを見止めては、祖母はおかしそうに笑っていた。
実際、彼女にしてみれば笑いが止まらなかっただろう。
この地域は、特に少子化の煽りを食らっていた地域だ。止まらない地価下落に、整備されたインフラに乗って出ていく若者。祖母が幼い頃には、国から農地整理のため買収を持ち掛けられたこともあるらしい。
農業人口減少に伴う外国人移住者の導入が、この地域にも広がり始めたのだ。
海鋒家は申し出をすべて断った。
「よそ者にくれてやる土地は、猫の額分もありはしません」
本当にそう言ったのか定かではないが、ともかく、交渉人を叩き返したのは間違いない。
使いもしない、二束三文の土地にしがみつく守旧派。しかし、そうして守られた海鋒家の土地は、今や疎開先の重要な就職口になって人々を助けている。
「ほほほ。代々守ってきたものの価値さえ知っていれば、きちんと報われるのですよ」
一度は風力発電にその地位を奪われそうになったバイオマス燃料も見直され、藻類や植物の育成はますます盛んだ。お陰で、ひと昔前に一割を切っていた日本のエネルギー自給率は、四割を超える勢いである。
とんとん拍子に栄えていく海鋒家を、夏菜はいつからか冷めた目で見つめるようになっていた。
海鋒家がかつての姿を取り戻したのは、何のことはない、ただ時勢の巡りから有卦(うけ)に入れたに過ぎない。
本当に植物のようだ。
水と光が与えられるのを、ただひたすらに待ち続けたのだ。自ら探しに行くことは不可能だから。あるいは、しようとも思わなかったから。
望外の機会に恵まれた草花たちが、夏菜に尋ねる。
「ここにいれば生きていくのには困らないのに。何故、旧首都の大学なんかに行こうと思うの?」
「故郷を豊かにするために頑張っている人のことを、捨てていくの?」
花々に頂かれた祖母が言う。
「幸せは、生まれた土地とともにあるものです。あなたは、ただ珍しいものに惹かれているだけですよ」
違う、違う。
先生は新しい光だ。
この世界を、今までとは違う価値観で照らしてくれる。閉塞を打ち破る力がある。
新しき太陽だ。
「まるで虫けら」
それでもいい。夏菜自身は、ちっぽけな存在で構わない。
それでも、日の照らす先を追いかけて生きたかった。
募集人数の少ない物理学部には入れなかったが、看護学部にはどうにか籍を置くことができた。これで一歩、先生に近づける。
誰にも祝われず、誰も称賛しない進学だったけれど、嬉しかった。
結果的に、看護学部への進学は夏菜の生活を助けた。実習先の病院で、医療行為以外の労働契約を結ぶことが認められていたのだ。実習後の院内清掃や医療器具の洗浄、清掃綿の作成は、生活費を稼ぐ手段となった。
ごく稀に故郷から送られてくる農作物は、生活こそ助けてくれるが、本当は祖母の嫌がらせである。
「どうせ、ろくなものを食べていないのでしょう。あなたが捨てていったものが、如何に価値のあるものかもう一度見直しなさい」
つややかな野菜たちは、祖母の権威の象徴だ。野菜に罪はないので食べてしまうけれど。少なくとも、同じアパートの住人に食事を振舞う役には立ったのだし。
研修を終え、ひとしきり生活費のために働いて、今日も夏菜は疲れた体を引きずって帰る。
たまには同級生と飲み騒ぐこともあるが、同じように研修とアルバイトを兼ねて働いている学生は少なくない。
芙由や結宇がどう思っているのかは知らないけれど、恐らく彼女らが思っているより、夏菜は遊び歩く時間がない。
「ただいまー、末吉ー」
庭先の犬小屋に声をかける。ここの柴犬はあまり愛想が良くないので、反応は期待せずにそのまま自室へ。
小さな自分の城に納まって、ようやく呼吸が楽になったような気がした。
「はあ、疲れた……」
空腹だが、何かを食べたいという気分でもない。
生活をするには助かるが、第一志望の学部ではない上に、今後先生に近づく道筋も見えない。このまま、看護師としての資格を得て一生を終えることしか、自分にはできないのだろうか。
追いかけた太陽には、追いつけないのか。
でも、それではどうして故郷を飛び出してきたのか分からない。しかし、打開策が思いつくわけでもない。
先日、芙由にあんなことを言っておきながら何という体たらくだ。情けない。
自嘲の笑みが浮かんだ、その時だった。
カン、カン、カン……
何者かが、アパートの階段を上がってくる足音が聞こえた。
こんな時間に誰だろう。訪問に適した時間ではない。何より、疲れていて来客に応じる気力がない。
(悪いけど、居留守つかっちゃお)
今はしばらく、床の上に伸びていたいのだ。
コツ、コツ、コツ
(……あれ?)
上り切った足音は、夏菜の部屋・二〇一号室を超えて行く。
ギイ、ガチャン
次いで、隣の二〇二号室の扉が開閉する音が、確かに聞こえた。
「……誰?」
このアパートには、三人しか住んでいない。いなかったはずだ。
しかし、足音の主はよどみなく鍵を開け、室内に消えた。
まだ見ぬ四人目の住人が、帰って来たのだ。
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