第6話 当世大学生ども
これから一緒に飲もう。
夏菜の誘いを、芙由は驚きと共に受け入れた。
初めて入る夏菜の部屋、二〇一号室は存外物が少なく、どことなく余所余所しい。
「いらっしゃい」
中央に鎮座する座卓で、夏菜だけが親しげな笑みを浮かべ、芙由を迎えてくれた。笑みを描く双眸が、芙由の手元に動いて丸くなる。
「お酒は?」
「え、無いよ?」
「……」
「あー、芙由も飲みきってたかー」
「待って。飲みに誘ったのに、私がお酒持ってくることに期待してたの?」
指摘すると、夏菜はゆるく笑って誤魔化そうと試みる。図星だ。
「……まったく、もう」
配給で許された量しか飲用の酒は手に入らない。飲めるならば、自分の配給分くらいは飲み切ってしまいたいというのが心情だろう。
だからこそ今、二人の手元には一滴のアルコールもないのだ。
「まあ、座って、座って」
「あ、お、お邪魔します」
色々とはぐらかされた気もするが、ひとまず指示されたクッションの上に腰を落ち着ける。一人用の座卓が二人分の料理でいっぱいになっていた。
歓迎はされているのだろう。けれど、ホームではないがアウェーでもない空間は何だか落ち着かない。夏菜ではないが、確かにアルコールでもあれば、もう少し気が紛れただろう。
「じゃあ、お茶で乾杯~」
小さな冷蔵庫から作り置きの茶が出てくる。デザインの違うカップに注がれたそれは、あまり冷えていなかった。
「……ところで、突然どうしたの?」
「んー?」
「一緒に飲もうなんて言って」
食卓を共にすることは珍しくない。芙由が結宇を誘って食事を共にしていると、高確率で夏菜も乱入してくるせいだ。
一見迷惑に見える夏菜だが、芙由が結宇を食事に誘うのは大抵実家から野菜が送られてきた後なので、野菜の消費が早く傷ませる心配がないという利点もあった。
「もしかして……夏菜ちゃんも実家から送られてきたの、これ」
改めて、並べられた食事に注目する。
しょっちゅう芙由の元へ来るので、てっきり料理は苦手だとばかり思っていたが。
停電の可能性を考えて、ちゃんと冷めてもいい料理を選んでいるし、野菜がたっぷり浮いた冷製スープの味も悪くない。
その材料は、夏菜の実家から送られたものなのではないか。
尋ねると、夏菜は苦笑いを浮かべた。
「そう。うちも農業やっててさ」
「疎開して就農する人多いもんね」
今や、日本の農業は食料自給のみならず、バイオ燃料の供給にも一役買っている。
「いやいや、うちは根っからの農家よ。値段の安い……安かった土地ばっかり沢山持ってる、田舎地主ね」
「ああ、今は地方のが地価高いもんね。ラッキーじゃない? 昔から持ってた土地の値段が上がるなんて」
その背後に、疎開が発生するような状況があることを考えると、一概に幸運とは言えないのだけれど。それでも人間単純なもので、所有物の価値が上がれば、その背後にあるものから目を逸らして喜んでしまえるのだ。
「まあね。広いだけで二束三文だった土地が、いまやバイオマス用の耕作地に早変わり。婆ちゃんなんて『都会から小作人がやって来た』って喜んでさ」
「小作人」
随分とまた前時代的な呼び方である。
「でも、私が芙由を誘ったのは、野菜とは関係ないんだ」
本題に戻ろう。夏菜が箸で芙由を指した。行儀が悪い。
「何言うのかな、何かこう……嬉しくて? それで、誰かと飲みたくなった感じ」
「嬉しくて?」
「そう、結宇のこと」
「結宇ちゃん?」
さて、どういうことだろう。
箸を止める前に一口、料理を食んで考える。
「結宇さ、学校にも行ってないし、友達がいるって感じでもないし……もしかしたら、やりたいことが何も無いのかなって、勝手に思ってたんだ。でも違った」
「?」
「結宇が芙由に頼んだんでしょ? 本を集めて欲しいって。あの子にも興味のあることがちゃんとあるんだって分かって、すごく嬉しかったんだぁ」
「……」
「それが、結宇に将来にどう繋がるかなんて分からないけどさ。でも、何にも興味ないより全然良いし」
「……」
「……なんでさっきから黙ってるの?」
「……夏菜ちゃんでも、そういうこと考えてたんだなぁって」
「ちょ、何それぇ」
ひどくない?
夏菜は頬を膨らませ、唇を突き出して怒りを露にする。だが、勿論、ポーズだけだ。更に言うと、その膨らんだ頬の中に、新たに頬張った料理が入っている。
「わ、私だって、そういうこと考えてますぅ! 結宇も芙由も、ここで知り合った人とはなるべく仲良くなりたいなーって思ってるよ!」
「そ、そうなんだ」
真っ直ぐに言われると、照れる。
きっと、夏菜は芙由を誘うのにも何の抵抗もなかったのだろう。クラスメートと集まって騒ぐのと同じで、ただ、そうしたいからしているのだ。
「あっ、もしかして、飲んで騒げればいいヤツだって思われてた? 私」
一度へこんだ夏菜の頬が、もう一度膨らむ。
「ま、飲みに行けば好きなだけお酒飲めるってわけでもないし」
アルコールの消費量規制は、個人を対象にしたものだけではない。食事を提供する商業施設についても同様だ。
『飲み放題』とは、一つのテーブルに供される規定量の酒の分配は自由、という意味である。昔は違ったらしいが。
「って言うか、一緒に飲む相手ぐらい選ぶからね!」
「あはは、そうだよね」
結宇のことを話したいのならば、同じ屋根の下の芙由か、親族の大家くらいしかいない。
「それに! 芙由と飲みたかったのも本当。卒業したら、芙由だって旧首都(ここ)は出ていくでしょ?」
どうせ、出ていくのだろう。
言外の気配を感じた。
「多分、ね」
多分ではない。およそ間違いなく、芙由は帰郷する。
首都機能は万が一のために、地方に分散され、人々もまたその流れに乗った後だ。
旧首都・東京にしぶとくも頑なに構えていた学府も、芙由たちの卒業後数年もすれば、より防衛能力に優れた地域へ移転するだろう。既に、その計画は学内で囁かれ始めている。
学内に張り出される就職の案内も、学生たちが帰郷することを前提とした内容ばかりだ。
けれど、それは……
「でも、夏菜ちゃんだってそうでしょ? 卒業しても、旧首都(ここ)に仕事は……」
「私はここに残るよ」
「え?」
冗談でしょ?
夏菜の目は本気だった。冗談の影さえ見えない。
「で、でも……東京に残るなんて……」
確かに、生きていくことは何とかなるかもしれないけれど……
「そんな、危ないよ、夏菜ちゃん」
かつて日本の中心だったその場所は、禍乱(からん)の生まれた土地でもある。
経済のために、学びのために、娯楽のために、数多の人々を受け入れた首都は、その内側に反乱分子をも内隠してしまった。
そして、『あの事件』が起こったのだ。
「分かってる。でも、先生がこっちにいる間は、私も絶対にここにいようって決めたの」
「先生?」
「そう。先生に教わりたくて、私、こっちの大学に来たんだから。芙由でも聞いたことあるかも。ほら、『南関どんど焼き事件』の後にさ」
「あ、覚えてるかも。あのちょっと……かなり、独特な先生。いたね」
夏菜がご執心の相手なので、極力無難な表現を試みる。
奇異の視線を隠し切れなかったが、当の夏菜は「芙由でも知ってるかぁ、やっぱりねぇ」と勝手に満足しているので、結果オーライとしよう。
「事件の後、一時期すっごい話題になったよね。小さい頃の話だけど、うん、覚えてる」
物理学者であることは後から知った。一時、熱病のように口の端に上がっていたその存在は、現在すっかり影を潜めていた。
「……でも、アレは倫理的にダメだったと思うよ」
「事件のこと? そりゃあそうだよ」
「それもだけど、あの先生の考えも」
日本の行政方針への不満……それを市井に対する暴力として発露するなど、どんな理由があっても正当化されるべきではない。
しかも、凶行はある行事の最中に実行された。
東京、神奈川、千葉……現在は南関東郡に属する旧三都県四か所のどんど焼き。焚き上げる炎にくべられる新年の名残に、爆発物が混ざっていたのだ。
爆発と同時にばら撒かれた金属片は、無防備に炎を囲む人々を深く傷つけた。老いも若きも。日本の文化すらも。
だから、だからこそ。
あの時、日本中が一人の科学者の言葉に耳を傾けたのだ。
「確かに悲しい事件だったけれど、それでも、亡くなった人を生き返らせるなんて……やっぱりダメだよ」
信じられない話だろう。けれど、確かにあの科学者は言ったのだ。
人の魂は素粒子物理学的に同定、再構築が可能であると。
奇跡のようにも、大法螺のようにも聞こえる主張が、どのような理屈に基づくのか当時の……いや、現在に至っても、芙由には理解できない。
「何で?」
「何でって……その、摂理に反するって言うか」
例えば、どうして人を殺してはいけないのか。
人間の作った社会は、『それ』をしないことを大前提にできている。
何故、それを大前提にしたのか。
人間はその解を、倫理や道義という言葉の中に見つけた。
芙由も今、人類が長い歴史の中で拠り所としたそれらに答えを任せる。
「私はそうは思わない」
しかし、夏菜は芙由の答えも、その拠り所も突き放してしまう。いとも簡単に。
「死者復活、上等だよ。昔からそうだったとか宗教的にとか、そういうのまとめてもう古いんだよ」
「で、でも、遺族の方々だって結局は、生き返らせようとしなかったじゃない」
「怖かったからでしょ。今まで誰もやったことがないものに手を出すのが怖いんだよ。実行した後、批判されないかとか、そういうことばっかり考えるから一歩踏み出せないの。本当に惜しかったと思う。あの時、日本の技術は殻を破れるチャンスを逃しちゃったんだと思うな」
心から惜しまれると夏菜の表情が語っている。
「ま、だからって当時の私に何ができたってわけじゃあないんだけど」
そりゃあそうだ。何せそのころの二人は、未就学児童という存在だったのだ。
「でも、先生ができるって言ったこと。あの衝撃は絶対忘れない」
だから、夏菜は今ここにいる。
「芙由だってそうじゃないの?」
「私? 何が?」
「『死者復活』って聞いて、何も感じなかった? 未知の世界に触れるようなドキドキとか、本当にできたらどうなるんだろうとか。そういうの、全然、ちっともなかったの?」
「……!」
湧水が川底の石を押し上げるように、記憶が蘇ってくる。
……芙由、そんなニュース本気にしちゃいけないよ。
……嫌なニュース。チャンネル、変えるわよ
ある朝の食卓。切り替えられた番組。渋い顔を見せる両親。
「これは悪いことなのだ」と子供ながらに察した。
善悪ではない、道徳的な禁忌に触れた、最初の瞬間だったと思う。
当時は『両親が嫌っている』という基準で『悪』だと判断していたが、今は違う。異なる理由で、それでも簡単に肯定できるものではないという結論に至る。
「んー、逆に夏菜ちゃんはどうなの?」
「え?」
「自分が死んだあと、生き返りたいって思う?」
「!」
夏菜の目が丸くなる。その視線が手元に落ち、ざく切りの野菜をつまみ上げた。
「……考えたことなかった」
ぱくり。野菜が夏菜の口へ消える。思考と咀嚼を同時にこなしながら、夏菜は前提を忘れないように時折ぶつぶつ呟く。
「……生き返った時、自分は間違いなく自分なのかっていうのは不安だけど、どんな感じなんだろっていうのは、単純に興味がある、かな」
「でしょ? 夏菜ちゃんだって少しは不安になるでしょ? 他の人はもっとその不安が大きいんだよ」
「でもさ、でもさ。そういう感情と科学技術とは切り離すべきじゃない?」
「うーん、それを言っちゃうと、最近の医療現場だって問題に……」
ブツン
「あっ」
「あっ」
停電だ。瞬きの間に訪れた暗闇の中、二人の視線が互いを捉えようと動く。
カーテン越し、幽かな非常電灯だけがぼんやりと輪郭を浮かび上がらせる。不便だが、最早日常の一部となった光景だ。
だからだろうか。夏菜も芙由も、そのまま夜の中に佇んでいた。
「……芙由は同じかと思ってたけど、やっぱり違うね」
「え?」
「みんなが疎開していくのに、わざわざ東京に来るなんてさ……」
まともな人間のすることではない。
言われずとも、言いたいことは分かる。
「だから、芙由は私と同じなのかなって、勝手に思ってたんだ」
「……」
探るような呼吸を感じた。
夏菜は待っている。芙由の否定を、あるいは肯定を。
夏菜の言うことは、ある意味当たっている。
芙由だってまともではないのだ。夏菜が憧れの先生を追いかけて来たように、夢や目的に夢中になっている。
「……ねえ、芙由は何でこっちの大学を選んだの? しかも文系。国際法か経済くらいしか、今人気ないのに」
「……どうして?」
どうして、それを尋ねるのか。
「他の人がどういう理由でここにいるのか、ちょっと興味出たんだ」
ただの興味なのだと。
口調はあくまでも軽い。けれど、ある種の熱を持ったひたむきさが隠れているのが分かった。
誤魔化せはしないだろう。直感する。
もし有耶無耶にしてしまったら、夏菜からの信頼を一つ失うような気がした。そして、さっき夏菜が言った「知り合った人とはなるべく仲良くなりたい」という望みは、芙由としても望むところである。
「……笑わないでね」
「うん」
夏菜と同じように頷いた両親は、しかし娘の決意を聞いたとき微妙な顔をしていた。
笑われてもいいや。芙由の心のどこかが、開き直ろうとしていた。
「文学をね、守りたいっていうか……また、盛んにしたいの」
「文学? 芙由は小説家志望なの?」
「ううん。自分で書くんじゃなくて、過去に書かれた作品を今の人にも知って欲しいの。文学や音楽、芸術ってこういう時代だと簡単に失われていくから」
差し向かいから、続きを促す気配がする。
まだ笑わずに聞いてくれている。嬉しかった。
「どんど焼き事件よりずっと前に、旧首都攻撃があったの、夏菜ちゃんも聞いてるでしょ? 首都圏に迎撃し損ねたミサイルが落ちたの。その時に、文士記念館や資料館のいくつかが焼けて、貴重な資料が失われたんだって」
芙由の内から溢れてくる。日本文学を切り開いた作品たちに、初めて触れた時の高揚。作品を生み出した者たちの記録が、既に失われつつあることを知った落胆。そして、自分が何をできるのか考え抜いた懊悩。
ここに至るまでの感情が、芙由の内に色を持って渦巻く。
「でも、もう文学の保護活動時自体が下火になっていて。こっちの大学じゃないと、まともに文学を学べるところがなかったから……」
ひとしきり喋りに喋って、軽い興奮と共に頭の中で声がした。「やってしまった」と。
突然おしゃべりになった芙由を、夏菜はどう思っただろう。
否が応でも両親の言葉を思い出す……「今、そんなものが何の役に立つの?」「そんなこと、芙由がしなくたっていいじゃない」
反発するように実家を出た。これだけは譲れなかった。
「それ、すごい大変そうだね」
夏菜の第一声は、案外普通だった。
「う、うん」
「でも、本当にやれたらすごいと思う」
「そ、そうかな?」
「だってさ、芙由みたいなこと考える人がいなくなったら、後の時代の人は作家名と作品名しか知れなくなるんだよ? でもそういう芸術作品って、作った人の背景や人格を理解して、初めて深く理解できるもんなんでしょ?」
「うん、私はそう思う」
「それを守るのは芙由のような人にしかできないって、ちょっと燃えない?」
「燃える……」
燃えるのは大志か使命感か。
いや、そんな大層なものではないのだ。芙由を動かしているのも、ある種の熱狂に過ぎない。夏菜が一人の師に入れ込むように。
誰かに認めてほしいとか、誰かの役に立ちたいとか、そんな美しいものではない。
ただただ、止められない願望の声に従っているだけだ。
(同じだよ、夏菜ちゃん……)
芙由も夏菜も、現代社会から少し外れた鼻つまみ者。夏菜が熱を上げる『先生』とやらも、明晰な頭脳故に、放逐もできず旧首都に据え置かれた異端者。
皆、他に行くこともできず旧首都に吹き溜まっている。塵芥のように。自らが燃え上がるための熱だけを隠して。
寂しい空想は、一つ屋根の下の住人への親近感を生んだ。
何処からか聞こえる遠吠えは、誰の嘆きだろう。
まだ、灯りは戻らない。
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