第5話 生まれいずる収支の悩み

帰宅した結宇を先に見つけたのは、芙由だった。

「結宇ちゃん」

「た、ただいま、です。芙由さん」

一つ屋根の下に暮らして早一年ちょっと。結宇は未だに、誰かが待っている状況に戸惑いを見せることがある。

懐かない猫のようだと、夏菜は思う。その様子を可愛く思うか否かは、個人によるだろう。少なくとも、階下の住人・芙由は前者であるらしい。

「警報鳴ったけど、結宇ちゃんの方は大丈夫だった?」

こうして帰って来たのだから大丈夫だったに決まっているではないか……夏菜は内心でつっこむ。何だか自分が場違いになったような気がして、肘をついていたベランダから体を起こした。

酒もぬるくなってしまった。芙由と二人、夏の黄昏を味わっていた時には気にならなかったのに、急に不味く感じてくる。勿体無いけれど、捨ててしまおうか。

いや、そういえば再生燃料として使用済み食用油の回収義務があったはずだ。もしかして、アルコールもそうだっただろうか。地域によって、微妙に回収に関する条例が違うせいで、正確に把握しきれていない。

芙由か結宇なら、知っているだろうか。

さっきよりも暗くなったベランダを振り返る。そこから呼べば、どちらかは応えてくれるに違いない。期待を込めて再び外へ。

「……いいえ、何もありませんでした」

すると、薄暗闇の向こうから声が聞こえた。

「……だから違います。私が葬儀の仕事をしているのは……ちょうどいい『体』が見つかったからって、持ってこれるわけないじゃないですか」

「……?」

結宇の声だ。誰かと話している。

誰かなんて、芙由以外にいるはずがないのだが、さっきから合いの手を入れているのは、ワンワンという末吉の鳴き声だけだ。

そっとベランダに出て、柵の影に身を潜める。

交互に聞こえる少女と犬の声。まるで会話をしているようだ。よく見られる、飼い主がペットに話しかける現象だ。

しかし、聞けば聞くほど、結宇の口調はペットに対する甘ったるいものではないことが分かる。細部こそ聞き取れないが、まるで……人間を相手にしているような。

「……結宇?」

恐る恐る、ベランダから姿を現し、声を掛けてみる。

「あっ、海鉾、さんっ」

心底驚いたように、こちらを見上げる気配を感じた。

「誰かと話してた?」

「あ、……いえ、別に……」

余程の不意打ちだったらしく、結宇はそのまま黙りこくってしまう。あれだけ鳴いていた犬も、空気を読んだのか大人しくなっていた。

そういえば、いつだったか芙由が末吉のことを「賢い」と言っていた覚えがある。そうだろうかと同時は思ったものだが、なるほど、人間の空気を読めるならば、賢いと言われても過言ではないだろう。そんなに賢ければ、話しかけても相槌くらい返してくれるかもしれない。

当初の目的を忘れてしまった夏菜は、つらつらとそんなことを考えながら、結宇と末吉とを眺めていた。

「あの、何か用事、でしたか?」

「あ、そうそう。お酒、飲み残したやつって回収するんだっけ?」

結宇から尋ね返されて、ようやく本来の目的を思い出す。

「えっと、お酒は……どうだったかなぁ」

「そうか、結宇は飲まないもんね」

「す、すみません。調べてきますね」

「ああ、いいよいいよ。芙由に……」

聞くから。

全てを言う前に、結宇は芙由の部屋の窓を叩いていた。

間もなく聞こえてきた芙由の声は、ちょっと楽しそう。

(……デレデレしちゃって)

結宇が芙由に? 芙由が結宇に?

いや、どちらでも構わない。甘えるのを許し、許されている者同士の、暗黙の了解があることに違い無いのだ。

たった一年。けれど一年。芙由が夏菜より多くここで過ごした時間の絶対性を感じる。

「海鉾さん」

「ん?」

「やっぱり、お酒も回収するみたいです」

「そっかー、分かった」

「あ、じゃあ……」

……それでは、私はこれで。結宇はそそくさと去って行く。

「……」

結宇が夏菜より芙由に懐いているのは分かる。その上で、やはり面白くないと思う。

懐かない猫だからと言って、嫌いになるとは限らないのだ。


夏休み、夏菜は実家に帰ることなく、気ままな一人暮らしを満喫していた。床板の下では、芙由が同様の生活を送っているのだろう。多分。

「……あっつ」

旧首都の住人は、皆うだるような暑さに耐えて夏を過ごすのだろうか。エアコンがきちんと動いていればいいが、一時間前に停電が始まった。

「あ、冷蔵庫」

停電の被害を受けるのは、夏菜自身だけではない。ただの箱と化したその中で、次第に上がっていく温度に耐える食材たち。大した量の食品は入っていないけれど、だめにしてしまうのはやはり気が引ける。

慌てて冷凍室から保冷剤を取り出し、冷蔵室へと放り込んだ。これは、越して来た最初の夏に、芙由から教わった方法だった。時々停電が起こるから備えておくように、と。

(……冷たい)

余分な保冷剤を首に当てながら、新鮮な空気を求めて窓を開ける。熱風と、刺すような陽光。ろくなものではない。

「おーい、末吉ー」

伸びきった雑草の上に、毛皮が転がっているのを見つける。呼ぶ声に応じて伏せられていた耳が一度だけ跳ねた。どうやら眠りこけているわけではないらしい。

「小屋の中の方がいいだろー? 日陰に入んなよー」

理解されないと分かっていてのアドバイス。しかし、犬は夏菜に片目だけで視線を投げて、「うるさい」と言うように、鼻から息を吐き出した。

「……おお」

噂に違わず、人語を理解しているかのような反応だ。目の当たりにすると、尚更そう感じる。面白い。

何をするでもない夏菜は、思いつきのまま炎天下の庭に出た。

「うえー、暑いー、ふわふわがくっつくー……」

焼ける肌から汗と、柔らかな犬の毛がくっついて何とも言えない不快感を醸し出す。柴犬も、「やめろ」と訴えるように前足で夏菜の腕を押し除けた。

「はあ……末吉も私が苦手なのかー?」

まあ、いいや。膝に手をついて体を起こす。

「じゃあね、末吉。実習行かなきゃなんだ」

手を振って部屋に戻る夏菜を、犬は再び寝ころびながら見送った。


「おい結宇。夏菜がお前と仲良くしたがっているようであったぞ」

「……はい?」

帰宅後、開口一番の言葉に結宇は眉を寄せた。

「カナって、上の階の夏菜さん?」

「それ以外に誰がいるのだ」

「世の中にはカナさんという人は沢山いるのです」

とは言うものの、彼がアパートの住人・海鉾夏菜のことを言っているのは分かっていた。ただ、うだるような暑さの中、帰宅早々に彼が振る話題にあまり興味がなかったのだ。

「その夏菜がな、我やお前たちともっと仲良くなりたいようなのだ」

振られた話題が人間関係に関わるものだとしたら、尚更、面倒に聞こえてくる。

「……仲が悪いわけではない、と思いますけど」

「しかし思い返せば、お前が夏菜より芙由に懐いている様子なのは明白だ。例え一年、芙由との付き合いが長いにしても。……実際、どうなのだ?」

「どうって……」

「ようするに、夏菜のような人間は苦手なのだろう?」

「そんなこと……」

ない、と言い切れないのは、やはり彼の言葉に真実があるからだ。

芙由は、相手との距離を慎重に測りながら近付いてくるタイプである。常に一歩引いているところは、よそよそしいと感じる者もいるかもしれないが、ぐいぐい距離を詰めてくるようなこともしない。

結宇には、芙由の態度が『相手の領域を大切にしている』ように見えて、好ましかった。

夏菜は、端的な言い方をしてしまえば、芙由とは逆だ。夏菜は基本的に自分の感覚が第一で、自身の態度や行動が相手にどう思われるかということは気にしない。

さばさばした性格とも言えるかもしれないが、そのさっぱりとした態度の根っこには、『自分に不都合がなければ、相手の都合には構わない』という鈍感さがあった。

それはきっと、結宇の領域を簡単に侵し、かえりみない。その時に感じる不快感を思うと、どうしても夏菜との距離を縮めかねてしまうのだ。

「……」

総合して言えば……結宇は夏菜が苦手ということになるだろう。スエイニンの言ったように。

「なあ、結宇よ」

子犬は後足を畳んで座り、口を噤んでしまった飼い主を見上げた。

「お前は歳の割に友らしい友がいる様子もない。それも一つの生き方だ。しかし、様々な人間と触れ合うのは、自分とは異なる個を知るのは、お前自身にとって良い経験になる」

「……」

「夏菜の肩を持つつもりはない。終生の友を見つけろとも言わぬ。だが、自分自身に変化を与え、成長させることまで厭うのは、我は良いことだとは思わぬ。それに、臣下の成長は我の願うところでもある」

「……」

スエイニンの都合はともかく、良い関係を作ろうとしている相手を無下にするのは気が引けた。

何より、無下にされる側の気持ちは分かる。決して良いものではないのだと、知っている。夏菜でなくても、誰かにそんな気持ちを味わわせるのは嫌だった。

……仲良くなってみようか。できるならば。

心の中で唱える。口にして、スエイニンに聞かれるのは何だか癪だった。

「ところで、夏菜はどこに行った? お前が帰って来るより前に、慌てて飛び出して行ったが」

しかも出掛ける前に散々撫で回されたのだ!

柴犬は思い出したように、前足で顔を撫でる。その仕草は、髪型を気にする人間みたいでおかしかった。

「実習ですよ」

「じっしゅう?」

「えっと……学校で授業を受けるのではなくて、実際に体験する勉強方法というか……」

「ふむ? 夏菜のやつは職人にでもなるのか?」

「夏菜さんは医療系の学科を専攻しているんです。試験の成績以外にも、一定期間の実習がないと単位がどうとか」

説明を試みるが、何しろ大学のシステムなど結宇には分からない。

しかし、芙由や夏菜が口にする単語を繋いでみただけの解説にも、スエイニンは「なるほど」と頷きながら、熱心に聞き入っていた。

「そうして、皆何かを学び、極めて行くのだな」

「……そうですね」

じゃあ、私は?

漠然とした不安が脳裏を過る。

後中にも進まず、かと言って進学以外の将来の目標を見つけているわけでもなく……そんな生き方をしている結宇は、何を学んでいるのだろう。何を、成し遂げるのだろう。

ぎゅうっと胸が苦しくなって、呼吸も脈も速度を増していく。まるで、結宇を急かすように。

流れる血が言う「急げ」と。

荒くなっていく息は「時間は有限である」と忠告する。

分かっている。でも、どうすればいい? 何ができる?

尋ねた途端、急き立てる声は黙り込む。同時に、苦しさから少しだけ解放された。

こんな時、結宇には気持ちを落ち着ける切り札があった。それは机の一番下の引き出し、大切なものを入れる箱の、更に奥にこっそり仕舞われている。

急ぎ足で玄関を通り、鞄を置くのもそこそこに取り出したそれ。結宇の切り札とは、一冊の通帳だった。正確に言えば、オンライン上の記録を印刷し、冊子状に綴じた粗末なものだが。

毎月少しずつ増えては減る数字は、結宇にとって今や『採点』にも等しい。

増えていく数字は、結宇を肯定してくれた。沢山勉強をすれば試験で良い点をとれるように、働くほど振り込まれる金額は増えていく。数字が増える限り、結宇は今の自分を認めていけるような気がした。

大丈夫。数字が増えていくのだから、何も間違っていないのだ、と。

(今月は、ここに助成金が入るから……)

もう少し増える。でも、

(あ、来月は水と非常食の交換しないと)

出て行く金もある。

もともとそのための助成金ではあるが、足が出てしまう。

足りない分を給料から補うと、全体の収支はマイナスだ。溜息が漏れた。

「どうした結宇よ、溜息など」

庭に面した掃出し窓の向こうで、柴犬が呼んだ。

「……ペットフードの代金も自治体が出してくれればなぁ」

応えて窓を開けると、ぬるい風が吹き込み、閉じ込められていた熱気が逃げる。仕事用の服から着替え、蒸れた足に風を通した。


戦争が免れないと分かった時、行政は一定以上の規模の建築物、主に大型店舗や集合住宅に対し、シェルターと非常時の準備を推奨した。

このアパートは、小規模ながら規定を満たす地下シェルターと非常食、飲料水が常備されている。結宇がここの管理人に収まっているのも、食料と飲料水の定期交換のためだった。年老いた大家には力仕事が負担になっていたのだ。

それらを用意するために少々の助成金が出るものの、対象はあくまでも人間である。動物を非難させる際に必要な食料や、ペットシーツなどは完全に対象外だ。

「副業を……考えなければならないかも……」

いくら睨んでも、紙面の数字は増えない。景気よく増える未来も考えられない。

何か手を打たなければ、現状は簡単には変わらないだろう。

「アルバイトをお探しかな?」

「!?」

急な声に視線を上げると、何故か仁王立ちの……

「か、海鋒さん? 実習は?」

「病院が停電しちゃってさ、非常電源の他は人力で何とかしないとダメだからって追い出されちゃった」

「それは……お疲れ様でした」

がっくりと肩を落とす夏菜は、労いの言葉を受けて尚立ち直る様子を見せない。

「ホントだよぉ。今日の分、絶対実習し直しになるもん。あーあ……」

慰めてくれよー。

夏菜はそのまま末吉を撫でに行く。

「あははは、犬くさい」

好き放題に毛並みを乱しながら、さりげなく失礼なことを言って笑う。

スエイニンが僅かに不機嫌になったのが、結宇には分かった。

「……我とて好き好んで獣臭いわけではない。この体になったのは不可抗力というものであってだな」

言い訳は全て、唸りとも鳴き声ともつかぬ吐息になって消える。

「で、結宇、バイトの掛け持ち始めるの?」

心行くまで柴犬を撫でた夏菜は、一転、明るい表情で結宇に向き直った。

妙にきらきらしている双眸が、「面白い話を聞いた」と語っている。

「いえ、まだ決めたわけでは……」

どうぞお気遣いなく、と手で示すが、ささやかな抵抗が夏菜に通じることはなかった。

こういう時、夏菜の気を逸らすのに役立ちそうな柴犬は、何もかもを諦めた様子で問題の人物に抱えられていた。

「どうせなら広告収入でも狙ってみたら?」

「こうこく、しゅうにゅう?」

「そう! こいつで!」

茶色のもふもふが目の前に差し出された。突然結宇に近付けられた犬は、じたばた暴れだす。

ワン! ワオン!

夏菜には聞こえない不満を聞きながら、結宇は視線で続きを促す。

「動物の面白い動画を撮って、動画サイトに載せる。そんで、うまいこと人気が出れば動画に広告がつくんだって」

「それって大丈夫なんですか? そういうのって、随分前から規制が厳しくなってるはずですけど……」

一部の反政府組織や、一斉武装を謳う宗教的過激派。動画サイトを通じた風説の流布、簡単になった扇動と主張。

一般の動画に混ざるそれらは、急増を見せた後に一斉に姿を消した。表現の自由に任せ拡大していたネット上の文化に、大々的な規制が追いついたのだ。

「そうだけど、問題のない動画だったら今でも投稿できるし」

監視の下に生き残ったそれは、勢いこそ失ったものの未だ人々に望まれて存在している。

「まあ、広告ついても一再生一円にもならないけどね」

「そんなもんですか……」

思ったより安い。

「でも、じゃあ内職でもする? 百枚一円みたいな値段で封筒の糊付けしたり、一本十円で折り畳み傘の骨の確認したり?」

「……」

『死』に予定はない。故に、結宇の仕事も不定期だ。よって、副業に手を出すとしても限られることは分かっていた。

頭の中で天秤にかける。内職と動画投稿と、どちらが良いか。

むむむ、と唸る結宇の眼前では、期待の表情の夏菜。

揺れる天秤皿の一つに夏菜を乗せると、「もしかして、これは彼女と仲良くなるチャンスなのではないか」という予感めいたものが生じた。

傾きが大きくなる。

そして、その傾斜が大きくなるほど、何だか面白いことが起こるような気がした。

「おい! おい結宇! 聞いているのか!?」

黙り込んだ結宇に向かって、柴犬が吠える。

「我は見世物になるつもりはないぞ!」

どうやら、結宇の選択次第で自分の身が左右されることは分かっているらしい。

困ったような犬の眼差しと、結宇の視線が交わる。彼は、結宇の目の中に揺れる天秤を見ただろうか。

「海鋒さん」

「ん?」

「面白そうですね、動画投稿」

次の瞬間、結宇の目の前には二つの顔があった。うきうき心弾ませた夏菜と、不満を露わに鼻に皺を寄せる末吉と。

それらを見比べて、結宇は後者を無視した。

してやったり。たまにはこちらが一方的に振り回してやるのだ。

「我はお断りである! 例え犬に身をやつしても身を安売りするなど!」

スエイニンはまだ諦め悪く抵抗している。

もっとも、彼が嫌がることなど織り込み済みだ。

「……結宇。なんか、末吉、機嫌悪いかも?」

「そうですか?」

しらばっくれてやる。

しかし、声の聞こえていない夏菜に……失礼ながら、他人の感情にはちょっと鈍そうな彼女にそう言わせるのだから、随分な不機嫌である。

「ところで、末吉って何か芸できるの?」

柴犬の肉球をいじりながら、夏菜が問う。

「多分、何でもできると思います」

一応、人間ですし。

「何でもって、マジ? 実は芸仕込んでた?」

「えっと、末吉って物覚えのいいところがあるので……」

もっとも、言うことを聞くかは別だ。

現に、どうにか夏菜の腕から逃れた犬は小屋に潜り込み、

「我を好きにできると思うな!」

動くまいとしている。

「結宇、何かおやつとか持ってる?」

「おやつ?」

「犬用の」

なるほど、夏菜はエサで釣るつもりか。

だが、結宇には一つ考えがあった。

「大丈夫です、海鋒さん。任せてください」

「おお? 何か秘策が?」

興味津々な視線を向けられながら、結宇はふてくされている犬の眼前にしゃがんだ。

「末吉」

犬は、フンと鼻先を逸らす。

「いえ、我が君」

「!」

三角形の耳がぴくっと震え、結宇の方を向いた。

「な、お前……、今、なんと?」

「我が君、お気持ち察して余りありますが、これはお互いにとって必要なことなのです。ペットフードを買うお金がなかなか捻出できなくてですね……」

「……」

「私としても、主たるあなたに代り映えのないカリカリばかりを出すのは心苦しいですし」

それから、それから……他に彼を言いくるめるのに、どんな理由が必要だろう。

しかし、犬は結宇の二の句を待たずに小屋から身を乗り出した。

「……し、仕方ないな!」

「……」

この犬、思った以上に御しやすいかもしれない。

「何なに? 末吉が『ご主人様』なの?」

結宇と末吉の様子を見守っていた夏菜が尋ねる。

「いいえ」

結宇はその問いを迷いなく否定した。

「でも末吉は賢いので、こうへりくだって話すと、言うことを聞いてくれるんです」

「ほぉ、……マジか」

夏菜は当然、半信半疑だ。同時に、その顔は試してみたいと言っている。

「ご主人様、お手をお貸しください」

夏菜が片手を差し出すと、

「ふむ、よかろう」

右前足が手の平に載った。

胸を張って、尻尾をふわりと巻いて。妙に堂々とした佇まいは、一連の『お手』を厳かに見せた。

「おおー、本当だ!」

夏菜は、柴犬がお手をしたことに純粋に喜んでいる。

「ねえ、ねえ。本当に何でもできるの!?」

「い、犬にできる範囲ならば……?」

多分。

結宇の答えに、夏菜はいよいよ顔を輝かせた。

何かしら、させたいことがあるらしい。

「よーし、じゃあ末吉……じゃない、ご主人様! 走ってきて、ここに鼻先を入れて! ください!」

人差し指と親指で作った輪を示し、夏菜は指示を出す。

「……何ですか? それ」

夏菜が何をさせようとしているのか分からず、結宇はかたわらにしゃがんで成り行きを見守る。さっきまで気分が乗っていたはずの柴犬も、指示を確かめるように眉間に力を込めた表情になっていた。おだてられ、大きく左右に揺れていた尻尾も止まる。

これはまずい。彼に今、冷静になられては困る。勢いとテンションで押し切らなければ。

「こ、こんな感じですか?」

結宇は自らの指で作った輪を、鼻をくぐらせるように顔に当てる。

その仕草を見た夏菜が、微かに目を見開いて、

「……うん、そう」

頷いた。

(結宇でもこんなことするんだ……)

(……とか、海鋒さん思ってるんだろうなぁ)

何となく気まずくて視線を逸らす。視界の端で、夏菜もまたどぎまぎと目を上下させているのが見えた。

「ほ、ほら! 末吉……じゃなくて、ご主人様! こんな感じ! です!」

取ってつけた敬語に柴犬はやや不満そうであったが、

「では、いざ参る!」

ワオン!

ひと吠えすると数歩の距離を駆け、長い鼻先をすぽっと、夏菜の指が作る輪に収めた。

「……これで、いいのか?」

やはり理解しかねる……犬歯の間から、声にならない息が漏れる。

「や、やるじゃん! 末吉!」

しかし、夏菜が感嘆の叫びを上げると、すぐに尾が左右に動き始めたのだった。

「ふ、ふん! 勿論だ。このくらい、我には容易(たやす)いのである!」

尻尾の動きはいよいよ大きい。

……上機嫌なのは結構だが、あまり調子づかせるのは良くないだろう。

とは考えるものの、一連の柴犬の動きは、結宇の目にもなかなか可愛らしく映った。なるほど、こういう動物の仕草を見て癒されたいと思う人は、存外多いかもしれない。

「ねえ、結宇!」

思考に耽る結宇を、夏菜が呼ぶ。

「結宇、撮った?」

「え?」

何を?

「今の末吉の動画」

「え?」

撮ってなどいない。

「……え?」

「と言うか、あの……」

そもそも録画する機械をお互い持っていないことに、二人はようやく気付いたのだった。

「……」

「……」

今までのやり取りは一体なんだったのだ。無言の視線が尋ねあう。

頬や額を濡らす汗は暑さのためか、気まずさ故の冷や汗か。

「……いや、待って。そうだ、芙由が」

いち早く夏菜が立ち直った、まさしくその時だった。

「ただいまぁ」

キッと軽いブレーキ音を立てて、駐輪場に今しがた呼んだ名の人物が現れたのだ。

「どうしたの、二人とも。末吉まで」

昼間から顔を突き合わせる二人と一匹。なかなか見られない取り合わせに、芙由は面食らっている様子だった。

「……実習は?」

巡らせた視線は、最終的に夏菜に落ち着く。そうして、結宇と同じ質問を投げた。夏菜の表情に面倒そうな色がよぎる。

「停電。と、そんなことよりさぁ、カメラ付きの電話持ってるでしょ? 貸して!」

「な、何、突然……?」

いきなりの申し出に抵抗を見せつつも、芙由は「これのこと?」と確認するように、ポケットから薄型の電子機器を取り出した。

「それそれ!」

「待って! これで何するの?」

渡すものかと手の中の機械を胸元に引き寄せ、説明を求める。

至極当然の反応だ。

「実は……」

このまま夏菜に任せても進展しないだろうと判断した結宇は、ことの経緯を説明し始めた。

「なるほどねぇ、広告収入を……」

「は、はい。なので、あの……芙由さん」

「うん?」

「支払い、もう少し待っていてください!」

結宇は勢いよく直角に頭を下げる。

今度は、夏菜が目をぱちくりさせた。

「え? 何? どういうこと? 結宇が芙由に?」

その顔には、「芙由や結宇に家賃滞納しているならば分かるけど……」と書いてあった。

失礼なヤツめ。芙由が夏菜の眼差しに、やはり視線で返す。

「本よ、本。結宇ちゃんが古い本を探してるって言うから、バイト先で見つけたら、買い手がつく前に融通するようにしているの」

「本当にありがとうございます。でも、その……古い紙の本が、あんなに高いとは思わなくて……」

あはは。力ない笑みはただの虚勢だ。値段を知らされた時、桁を一つ間違えているのではないかと思った衝撃は、いまだ鮮やかである。

「今時、紙の本って! 何に使うのさ、そんなもの」

当然の疑問が夏菜の口をつく。

「えっと、趣味……でしょうか?」

「古書収集が趣味って、ずいぶん渋いねぇ。結宇の年齢にしては」

教科書ですら、カード型の記憶装置を交換しながら、タブレット型の端末に映すようになって久しい。端末は教育機関や市町村から貸与されたり、個人で購入したりと様々だが、いずれにしても紙媒体自体が生活から離れつつあった。

結宇の持っている地図帳は、祖母が幼い頃使っていたもので、電力が得られなくなった時、使えるかもしれないからと保管されていたのだ。

「でも、古い本ってなかなか味があるよね」

芙由が割って入る。結宇に助け舟を出したようだ。

「この前の絵本、どうだった? 読めた?」

「あ、絵がきれいでした。まだ読めてないですけど」

「ノルウェー語の本だもんね」

「あ、はい、まあ」

そこは言わなくてよかったのに。ノルウェーと聞いて、彼が反応しないはずがないのだ。

「ほう、ほう。芙由、続けよ」

ワンワン。興味津々の柴犬が、芙由の足元にすり寄る。

「あら、末吉どうしたの? 今日は甘えっこねぇ」

「違う、そうではない。……が、まあいい」

芙由にスエイニンの言葉が聞こえなくて助かった。この話は、芙由の中でうやむやになってしまっただろう。

問題は、

「詳しいことは本人に聞けばいいのだからな」

優しく毛並みを撫でられながら、一見ただのご満悦に見える柴犬が、にやにやとしているところだ。


「まさかお前が我が祖国に興味があったとは、知らなかったなぁ。全く知らなかった」

ふはは。得得たる笑い声が聞こえてきそうだ。

「違います。自分のためです」

知られたくはなかった。しかし、知られてしまったのでは仕方がない。

結宇は夕食を済ませると覚悟を決めて、すべてを白状した。

芙由に頼んでノルウェーに関する本を探してもらっていたこと。古い伝承や、民間神話、風俗や土地に関するものを中心に、絵本でも歴史書でも構わず、それこそ手あたり次第に収集していたことを。

もっとも、日本との地理的、歴史的関係から、その収集状況は思わしくなかったのだが、それは結果的に結宇の財布を助けていた。

「結宇自身のためだと?」

「だって、このままじゃあなた死ぬでしょ? それはさすがに罪悪感があります」

「なあに、今日明日の話ではないだろう」

「それにしたって、犬の寿命は短いです。……本当に、その犬の体と命運を共にする気は無いんでしょう?」

「……まあな」

スエイニンが柴犬の体を得て復活し、既に一年以上が経っている。しかし、彼の魂を再び乖離させ、別の体に移るための手段は未だ見つかっていなかった。

このまま犬の肉体が寿命を迎えれば、彼の魂も死を免れない。

「しかし、分からんぞ。ひょっとしたら、存外魂だけでも存在できるのかもしれん」

「根拠があるんですか?」

「無いな」

「ダメじゃないですか」

せめて、あの木彫りの置物に戻すことさえできれば御の字なのだが。

置物の方に秘密があるのではないかと、散々いじくり回してみたものの、残念ながら徒労に終わっていた。

「やはりな、我はアレしかないと思う」

「?」

「お前の職場からちょいと遺体を見繕ってだな」

「それは、絶対、ダメです」

「ダメか」

当たり前である。

結宇の生業(なりわい)は死者を弔うこと、遺族の死の受容を手伝うことであって、肉体を求める魂のために、器となる体を見繕うことではない。

今でも覚えている。結宇の仕事を知った彼が「良い体はあったか」と聞いた、あの日のことを。

最初は何を言っているのか分からなかった。スエイニンが犬の体を出、人の体に再び入り込み、蘇生することを目論んでいたと分かった時、結宇は古いゾンビ映画のシーンを思い出し、戦慄した。

「死者への冒涜ではないか」

あの日、口をついた非難の言葉は、間違っているとは思わない。今も。

仕事の度に見るご遺体は、何者かの家族だ。結宇にとっての祖母と同じように、別れを惜しむ者のいる、一人の人間だった存在だ。

例えば祖母が、別人の魂でもって蘇ることができるとしても、結宇はそれを望まない。

もし万が一、スエイニンの魂を救うためにより寿命の長い生物の体が必要になったとしても、結宇にはそのために人間を選ぶことはできそうにない。

「……とは言え、このままでいいとも思ってないです。だから」

「だから、我の魂を抜き出すための術を探して、古書にあたっていたというわけか」

「そういうことです」

こっそり集めていた本は、段ボールの中に乾燥剤を詰めて隠していた。もっとも、問題のスエイニンに知られてしまった以上、隠す理由もなくなってしまったが。

「ニワトリ……、ヤギ……ふむ、ほとんどがここ二百年ほどの本だな。内容も、子供向けの教訓や寓話か」

ページをめくって中を見せると、柴犬はきょろりと濡れた目を動かして読む。

そうか、普段日本語で話しているので忘れがちだが、彼はノルウェー語を解するのだ。

こそこそ単語を調べながら読んでいた手間を思うと、なかなか無駄なことをしてしまったような気がするし、結宇の苦労を意に介さず易々と読み進める姿に、腹が立つような気もした。

「……何故耳を引っ張るのだ?」

「さあ、何故でしょう」

訳が分からない、と顔をしかめる柴犬を見て、溜飲を下げる。

「こっちの本はどうです? この小人の絵とか、何かの魔術を題材にしたものなんじゃないかと思うんですが」

特に文字が多いそれは、未読ながら結宇の期待が高い一冊だ。

「……老婆の話のようだが」

犬の視線が文字列をなぞっていく。

「なんでも匙ほどの大きさになれるらしい……体質か? あー、小さくなると動物と話せるようになる、とか」

「なんですか、それ」

それでは、まるで……

「ああ、まるで夢物語だな」

「まるで、今の状況みたいじゃないですか」

「は?」

「え?」

異なる感想と疑問符が、ぴたりと揃って止まる。

一人と一匹は顔を見合わせた。

「今の状況と本の内容は関係ないだろう。そもそも、お前は人並みの大きさではないか」

「はたから見たら、私たちちょうど人と動物がお喋りしている状態じゃないですか。お話の中のお婆さんと一緒でしょう」

互いに感想の根拠を述べてみても、どちらも納得の表情にはならない。

しばらく無言で見つめあった後、先に動いたのは柴犬だった。

「お互いに一理あるとして、だ」

本を閉じ、表紙を前足で示す。

「題名は『茶匙おばさん』……とでも訳すべきか。これはどう考えても魔術書ではない。いいか、それが全てだ」

「ちゃさじ……」

掠れた飾り文字の『Teskjekjerringa』が、結宇を笑っているように見えた。

「まあなんだ、何も知らずに見たら、怪しげな文字列かもしれんな。うむ」

「……いえ。まだ、まだ分からないです!」

「というと?」

「児童書に見せかけた魔術書というパターンがあるかもしれません!」

「……」

それはないだろう。

柴犬の表情が無言のうちに語る。

「そ、そもそも。あなたはこの本の中身、知ってるんですか?」

「知らぬ」

「じゃあ、私の考えが間違っている、とは断定できないですよね?」

どうだ、その通りだろう。実質形勢不利なのに、何故か得意気な様子の結宇。

柴犬はやれやれと首を左右に振ると、前足を伸ばしてからごろりと寝そべった。

「……好きにしろ」

どうやら、これ以上議論する気はないらしい。

「何ですか、その言い方。私はあなたのためにですね」

「自分のためにやっていると言ったのは、お前ではないか。まったく」

「……」

ここで噛みついては堂々巡りになる。それは結宇にも分かったので、反論することはなかった。

それに今はやることが他にもある。久しぶりにパソコンを立ち上げた。

「何をしているのだ?」

「昼間に撮った動画をアップロード……ネット経由で、他の人にも見れるようにするんです」

あの後、事情を知った芙由は快く携帯端末を貸してくれた。そして皆で……いや、主に夏菜と芙由の二人が散々柴犬で遊び倒したのだ。

時代にそぐわない、如何にものん気で愉快な戯れは、確かに傍観しているだけで楽しい仕上がりになったように思う。

「そうすると、あー何だ、広告がつくのだな? そして、財布が潤うと?」

「そういうことです」

どうにも、スエイニンは二十世紀以降に普及した技術には疎いところがあった。その時代の多くを眠って過ごしたという証左なのだろう。

「しかし、昼に言っていたな。最近は規制があると。我のような者を映すのには問題ないと思うが……」

「勿論。制限されるのは、政治的な扇動を目的としたものや、暴力を肯定してそそのかす内容のものや、風説の流布のための動画だけですから」

だから、柴犬を撮影した動画は規制にひっかかりようが無い。

もっとも、アップロードのための審査は年々厳重化しており、今や一つ一つの動画を人の目で確認している始末だ。

「ふむ、では今夜にも我の姿が……仮初でこそあれ世界中に知れ渡るのだな」

「今夜? そんなすぐには無理ですよ」

投稿した動画が世界中で視聴できるようになるまで、一週間以上かかるだろう。

「なんと! かつては情報の伝播にも物資の輸送にも速度を求めたものだが、変わったものだなぁ」

「いつの話ですか、それ」

「『兵は神速を貴ぶ』と言うではないか。時代が変わっても真理であると思っていたが、変われば変わるものだ」

兵は神速を貴ぶ。聞いたことのない諺だが、兵器においての速度は絶頂に達した時代だ。

国の迎撃システムが作動しなければ、今この瞬間にだって音より早いミサイルが飛んで来るかもしれないのだから。

スエイニンが現状をどれだけ理解しているのか分からないが、悪い事柄こそ知らぬが仏である。

「あ、えっと。そうだ、動画。自分で見るだけならできますよ」

本題に戻す。

やや無理矢理な閑話休題に、しかし柴犬は素直に食いついた。

「おお! どれ、見せてみろ!」

尻尾が左右に揺れる。そわそわと結宇の周囲でステップを踏む体を抱え上げて、膝に乗せた。いまだ揺れる尾の毛がくすぐったい。

「画面、見ててください」

尾の動きが止まる。スエイニンがパソコンの画面に集中したことが分かった。

動画の再生ソフトを立ち上げて、芙由の携帯から移した動画データを読み込む。すると間もなく、昼間の光景が映し出された。

息を切らしながらはしゃぐ犬と、夏菜たち。笑い声の輪唱。時折、夏の日差しが画面を白く染めるのはご愛敬。

知らず、結宇の頬は緩んでいた。

「結宇! おい、見たか!」

「見てますよ」

「我の声が、完全に犬のものになっているではないか!」

「え?」

下げた音声に注意を注ぐ。

笑い声の合間に挟まるはずのスエイニンの声は、完全に、犬の鳴き声になっていた。

「……本当だ」

こうして見ると、ただの芸達者な犬だ。誰が、この犬の中に人間の魂が閉じ込められているなどと思うだろう。何も知らなければ、結宇だって考えもしない。

「芙由さんや海鋒さんにはこう見えてるんですね」

逆に何だか新鮮だ。何せ一年も『この柴犬はおっさんの声で喋る』という認識で生きてきたのだ。

「結宇よ」

「はい?」

「ありがとう」

「……はい?」

じっと画面の中の自分を見つめていた犬が、不意に口にした感謝の言葉。それは、結宇を混乱させた。

「今、我の言葉を聞き届け理解する者は結宇、お前だけだ。お前がいるからこそ、今の我は一匹の犬ではなく『スエイニン』として存在できるのだ」

「……」

「だから、ありがとう。お前がいてくれてよかった」

「……」

ありがとうなんて言われたのは、久しぶりだ。

店や職場で交わされる、人間関係の潤滑油としての挨拶ではない。血の通った感謝の念を表した言葉。お疲れ様、ご苦労様、明日もよろしく……労いとも少し違う、感謝の意。

ささやかな、けれど結宇個人に対してまっすぐに向けられた言葉は面映ゆくて、それでいて嬉しい。ゆるむ口元を見られたくなくて、柴犬の両頬を撫でるふりをして抑えた。

「ははは、何だ。照れているのか」

「ち、違います」

否定しても、本当はバレているのだろう。悔し紛れに両手に収めた毛皮を揉みしだいた。

「照れるな、照れるな」

案の定、柴犬は余裕の様子で尻尾をゆるく振っている。なかなか上機嫌なようだ。

「まあ、何だ。お前のような臣下がいて、我は幸せだ。少なくとも、誰にも存在を悟られることなく、孤独のうちに過ごす不幸は免れたからな。ははは」

「臣下じゃないですから」

では、何だろう。

友達ではない。上司と部下だとも、結宇は思っていない。

飼い主とペット、と言うにはスエイニンにその意識が全く無い。

それでは、家族なのだろうか。そう言えるのだろうか。

(……お父さん、とか?)

結宇は、自身の父親を知らない。父親というものは、祖母の思い出話から想像するものでしかなかった。

互いを気遣ったりそうでもなかったり、時々お互いの存在に感謝したり。そういう風に、共に暮らす年上の男性のことを父親と呼ぶのならば……

(いや、やっぱり違う気がする)

描いてきた父親とスエイニンとは、やはり、違いが大きすぎる。

ここは一度保留にしよう。

もしかしたら、この関係を言い表すのに相応しい言葉が、いずれ見つかるかもしれない。

「なあ、この動画というものは、世界中のあらゆる映像を映しているのだな?」

両手の間で、柴犬の頭くるりとこちらを振り返る。

「へっ? ああ、まあ、そうですね。一応」

突然の質問は、至極当然の内容だった。

最近投稿されたものの多くは、自らの国の現状を訴える、個人が撮影と編集を行ったニュースの類が多い。投稿の絶えて久しい国もある。

しかし、投稿時期の新旧にこだわらなければ、様々な地域の映像があるのは間違いなかった。

「と言うことは、我が祖国を映したものもあるということだな」

「あ」

そうか。なるほど。千年余りも離れている故郷のこと、気にならないはずがない。

もともと、国のために現世に留められた魂の持ち主だ。普段は何も言わないが、望郷の念が無いはずがないのだ。

「結宇、ノルウェーの様子を見せてくれ。一番最近のものを頼む」

「……え、でも」

そうか、まだ彼は知らなかったのだ。

「もう、ノルウェー王国はありませんよ」

彼の最も恐れるべき事実は、あっさり結宇の口から告げられた。

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