第3話 夏の余波
「雪田さん、クラスの飲み会なんだけど」
「あ、私は……バイトがあるから」
「そっか、残念。予定が変わったら声かけてね」
……残念なんて思っていないくせに。
手を振りながら去って行くクラスメートの一団、それ横目で見送りながら、芙由は短く溜息をつく。自分自身に。
(……やめよう)
やめよう、穿った考え方をするのは。
例え顔と名前くらいしか知らなくても、クラスメートだ。本当に、芙由が参加しないことを惜しんでくれているのかもしれないではないか。
でも、けれど……笑顔で離れていく彼女らが、ほっと胸を撫で下ろしているのではないかと思ってしまうのだ。対して仲良くもない芙由が、その立場をわきまえず『楽しい飲み会』に参加しようとしなくてよかった、と。
(考えちゃだめ……)
根拠のない、文字通りの疑心暗鬼だ。
それに、親しくも無い相手と一緒に行って、気まずい思いをするのは彼女らだけではない。芙由自身にも当てはまる。
だからそう、これは一つの『憂鬱な人付き合い』を避けるための選択だったのだ。
開放的な装いも化粧の香りも、何もかも芙由にとってはよそよそしい。それらにすっかり囲まれてしまったら、どうすればいいのか分からなくなってしまう。
だから、あれは間違っていないと、正しい対応だったのだと、自分に言い聞かせる。
それでも、それでも心の奥で微かな声がするのだ……「最初の誘いを断らなければ、今頃違っていたのではないか?」
一年前、初夏に移り変わる頃、最初のクラス会が催された。
出席を問われた時、芙由は参加を断った。不参加のための言い訳ではない。一人暮らしのための荷物が、届く予定だったのだ。引越しの多い春のこと、受け取れないがために荷物の配送が遅れてしまうことを案じた故の選択だったが、その選択は尾を引き、芙由と多くのクラスメートの間に目に見えない溝を作ることになった。飲みの席で交わされた会話、その時の空気を、共有できる者とできない者の線引きだ。
そんなものがあるなんて気のせいだ。あったとしても気にすることではない。そう言う者もいるだろう。けれど、芙由は違う。
想像してしまうのだ。「今度は私も参加したい」という一言がもたらすものを。
もし、その一言を聞いたクラスメートが表情を曇らせたらどうしよう。芙由が断ることを前提とした誘いだったらどうしよう。芙由のことを共通の話題を持たない者だとみなした、空気が変わる瞬間を、果たして耐えられるだろうか。
恐ろしかった。その可能性に踏み込むよりは、このままの方がずっと楽だ。
(そうでしょう?)
肯定する者は自分しかいないのに、同意の眼差しを求めて窓を見る。
ガラスの向こうに目を遣れば、早くも学び舎を出て行く者の姿が見える。大学生活二度目の夏季休暇が始まるのだ。
午後、出席する授業のない日は、芙由は大抵アルバイトの予定を入れる。今日も、例にもれず、彼女は自転車に乗って、紙の城の如き職場へと向かうのだ。
「おはようございます」
がたつく引き戸を開けると、日に焼けた紙と埃の匂い。胸いっぱいに吸い込んで、ほっとする。
本の山はそれを抱える木の棚よりも更に古い。かつて土間だったのであろう空間は、今はコンクリートで固められて歪んだ床になり、どうにか本棚たちを支えていた。
店も扱う商品も、時代から取り残されてしまったかのような古書店が、芙由のバイト先だ。
大通りから外れ、開発の波を潜り抜けて来たその店は、実利よりも店主の趣味によって経営されている。あるいは、密かに蓄えた資産の税金対策なのかもしれないが、いずれにしても、目の前の老いた女店主からは真実など計り知れない。
「お疲れ様、雪田さん」
「あっ、新しく入荷した分ですね? 私、並べますよ」
申し出ると、店主は包帯を巻いた足を気にしながら、屈んでいた体を起こした。
「ごめんなさいね、助かるわ」
謝られると困ってしまう。彼女が包帯を巻くことになったのは、芙由が高い所にある本を取りたいと頼んだせいなのだから。
当時まだ客として店に出入りしていた芙由は、ぐらつく脚立の上で姿勢を崩し、落ちた際に足を捻った店主に申し出たのだ。ここで働いてお詫びをしたい、と。
「買い付け、大丈夫でしたか? 言ってくだされば手伝いますのに」
「ありがとう。でも、これだけはね、自分でやりたいのよ」
この店は多くの古本屋がしているような、店頭での買い取りはしない。その代わり、定期的に店主自らが大きな古本市に赴き、品物を選りすぐって買い付けるのだ。
扱う品の多くは古い純文学や洋書で、店頭に出してもあまり買い手がつかない。しかし、古い文化史などの学術本はそれなりの速度と値段で売れていく。棚にしまわれていく新入荷の古書も、店の『売れ筋』に合わせたラインナップだ。
「あ、これ……いいですか?」
「ええ、どうぞ」
自責の念から始めたアルバイトではあるが、芙由にはこの勤め先が気に入っている理由があった。入荷した古書の中に、気に入ったものがあれば読ませてくれるのだ。
いずれ買われていく書籍だが、それまで短い時間を自分のものにできる。客のいない店内でこっそりと古い紙面に目を走らせるのは、芙由にとって何ものにも代え難い時間だ。
背の高い本棚が窓のほとんどを隠し、紙を光から守っている。薄暗い店内で、会計用の受付だけが明るい。
この雰囲気が好きだ。
客がやって来るまでのひと時。買われていくまでの、短い逢瀬。
お茶を淹れる音、からから回る自転車の車輪、足早な自動車。微かな生活音が柔らかく聞こえる。
そして、それらにサイレンや爆発音が混じらないことへの感謝を。
ミサイルでも爆弾でも何でも、攻撃の的になってしまえば、この木と紙の聖域はあっという間に失われてしまうのだ。
店主はそのことをどう思っているのだろう。この不安定な世の中で。
あるいは、失われてしまえばそれまでだと思っているのかもしれない。ここにある本の半数近くは、先の大戦を潜り抜けて来た幸福者だ。しかし今この時さえ、彼らに運命の瞬間が訪れても不思議ではない。
(あ……)
笑い声が近付いて遠ざかる。そんな心配はするだけ仕方がないと言うように。
けれど、心配しないわけにはいかないではないか。いつ起こるか分からないということは、起こらないということではないのだから。
食品の一部は『配給券』と引き換えないと手に入らないものがある。その最たるものは酒だ。
近代以降の日本にとって、エネルギー資源に乏しい地質は常に悩みの種だった。緊迫する世界情勢、それに伴う供給減への対策として、アルコールや食用油の加工、転用が行われるようになったのだ。
現在は、植物由来のセルロースを利用した燃料の開発が進められているらしい。だが、いつ頃実用されるだろうか。明日明後日で完成するものではないことは確かだ。
今月配られた『飲用アルコール』の配給券は四〇〇ミリリットル分。先月より少なくなっている。
「どうも」
気だるげな小売店の従業員が、発泡酒の缶を渡してくれる。缶の表面はぬるい。電力制限のために、冷房も冷蔵庫も最小限にしか動かしていないようだ。
今夜あたり、また停電があるだろうか。幸いにも日が長くなってきて、照明を必要とする時間は少なくなっているけれど、長時間の停電は冷蔵庫の中身に大打撃だ。
その日は、買ったばかりの酒を冷やすまで電力は無事供給された。
ゆっくり夜に変わる夕焼けを眺めながら、風を浴びるため窓を開ける。手の中の冷えた缶が心地よい。次第に熱を取り戻してくそれを手の中で玩(もてあそ)び、思い出したように一口飲みを繰り返す。
星が瞬き始めた。クラスの飲み会に参加したクラスメートは、同じ星の下でやはり酒を飲んでいるだろうか。
「!」
ポケットの中で携帯電話が震えた。有機液晶の薄膜へ指を滑らせると、母の名前が映し出される。
民間利用できる電波域が少なくなって久しい昨今、無線タイプの通信機器はかえって不都合をこうむることが多かった。いらない、と言い張った芙由にそれを持たせたのは、故郷の両親だった。
「もしもし?」
通話のボタンを押すと聞こえてくる、懐かしい声。
元気にしているのか。ちゃんと大学に通っているのか。送っている野菜はどうか。野菜の他に何か送ってほしいものはないか。それから、地元の友人らのちょっとした噂。そして、夏季休暇中に帰省するのか。
取り留めもない会話は、遠回りしながら核心へ迫った。
「ううん、帰らないよ。夏休み明けに試験もあるし」
楽しくやってるみたいね。
「……うん、楽しいよ」
自分で望んだ学部に進学できたこと。そこで学べること。好きな本に囲まれる生活。アパートの可愛い管理人と番犬。
今思いつく限りの『楽しい』をかき集めて、答える。
母親が求めている『楽しい』はこれで正解なのか。相手を安堵させるための答えに、自分の心がともなっている必要はない。だから、電話口から安心の吐息を感じられさえすれば、これが最も良い回答だったと言えるのだ。
ダメ押しのように、自分が如何に充実した生活を送っているのか続ける。
行ったことも無い飲み会の話は、耳にしたクラスメートの会話を面白おかしくアレンジして話せばいい。何も知らない母は簡単に騙せてしまうから。
優しい母。ごめんなさい、話は本当のことですが、自分のことではないのです。
けれど、その真実を彼女が知ることはない。だからこそ、芙由は安心して通話を切れる。
うん。じゃあ、また電話するね。
「んふふふ、うそつきー」
「!?」
通話を切ったと同時、安堵の息を吐くより早く、頭上から『嘘つき』呼ばわり。ハッと見上げれば、そこにはこの春、空腹から助けた住人がいた。
「か、海鉾さん」
芙由と目が合うと、手にしていた缶を軽く掲げて乾杯のポーズをしてみせた。彼女もまた、夕暮れを肴に楽しんでいたらしい。
「夏菜でいいよ。それより、なんであんな嘘つくのさ?」
「嘘って……」
「飲み会とかどうとかって話。芙由、そういうの全然参加したことないでしょ」
「な、なんで?」
何故、それを知っているのか。手の平に汗が浮いてくる。湿度の高い夏の夜が、急に冷え冷えと感じられた。
「なんでも何も、芙由が私より遅く帰ってきたことないじゃん」
そう言われれば、夏菜が帰宅し、階段を上がる音はもう日常生活の一部となっている。
「自転車もキレイだし、酔っ払って乗ったことなさそう」
その通り。酔っ払ってぶつけることも、転倒して傷付けることも、したことがない。
夏菜と芙由は違う大学に通っていて接する時間は少ない。その少ない時間で、夏菜は階下の住人をよく観察していたらしい。
「……」
「あっ、ごめんね! その、監視とかそういうつもりじゃなくて、その、クセみたいなやつで」
芙由の沈黙をどう受け取ったのか、夏菜は口の動きを速めて言い訳を始める。
「……どっちでもいいけど」
監視でも癖でも、褒められた趣味ではないことには変わりない。けれど、悪気が無いだろうことも分かっている。その上で芙由の嘘を見破った。
「……どうでも、いいじゃない。本当のことなんて知りようがないんだから」
誤魔化してしまおうか。少しだけ考えて結局やめた。誤魔化そうとしても、やはり見破られてしまうような気がしたのだ。あるいは、頭に回り始めた酒精のせいかもしれない。
「私が楽しく学生生活を送っていると思って貰えれば、それでいいの。両親がそれで安心してくれれば、嘘でも本当でも」
「ふーん、心配させたくないんだ。親孝行だね」
「……」
それは本心か皮肉か。夏菜の態度からは如何とも判断し難いが、皮肉だろう。
本当に親孝行ならば、夏季休暇には一も二も無く地元に帰り、親に元気な顔を見せるものだ。
「ま、芙由の好きにするのがいいと思うよ。人生たった数年の学生生活だもん。『こうあるべき』なんて過ごし方は無い……」
夏菜が顔を上げ、息を飲む。
同時に、手の中の通信機器に『警告』の文字が光った……『ミサイル射出にともない、データに重大な損失が生じる可能性があります』
「あ」
読み終えるより早く、西の空で光が弾けた。遥か彼方の爆発は、音こそ聞こえないが炸裂が空気を震わせる。肌が粟立つ。
「撃ち落としたね」
「うん」
一体どういうシステムで、電磁パルスが発生するのを防いでいるのか、芙由にはさっぱり分からない。しかしともかく、広範囲の電子機器破壊が防がれたのは確かだ。『警告』の文字が、『ミサイル撃墜』の知らせに変わった。
今回は核弾頭を有していないタイプのミサイルだったのかもしれないが、どういうものであれ、日本国へ向けて射出された兵器は、全て無効化のために迎撃されることになっている。
芙由が物心ついた時から、ずっとそうだ。目の前の危機が去ってほっとするような、繰り返される日常の一部にうんざりするような、複雑な感情が腹の奥で渦巻いた。
「芙由」
空気が静けさを取り戻すのを待って、夏菜の声。
「ね、こういう世の中だから、どういう生き方をしても後悔だけしないようにしたいって思うよね」
「……うん」
芙由たちが生まれる前から続いている、間延びした戦争。
そのきっかけは、歴史や経済か宗教か利権問題か。諸々の問題が複雑に絡み、最早どこか一国が拳を治めれば片付く状態ではなくなっていた。
いつ終わるとも知れない争いの中、それでも芙由たちは学生としての日常を許されている。国土と国民を守るための迎撃システムは、幸いにも運用は順調で、ここ十数年は大きな被害はない。
政府が、離れて暮らす子を案じる家族が、志を与えてくれた師が……多くの存在によって得られている一日。日常の雑事に……例えば人間関係に、一喜一憂していると忘れがちになるその事実へ、思いを馳せる。
いつになく感傷的になっているように思う。頭に酒精が回りきったせいだろうか。それとも、夏という季節のせいだろうか。
「……ねえ、結宇はさ」
静けさを待って、夏菜がゆっくりと口を開いた。
「結宇ちゃん?」
「そう。結宇はさ、今のままでいいのかな? 芙由、なんか聞いたことある?」
「結宇ちゃんが、学校に行ってないのが気になるの?」
「ていうか、学校に行かないからって何してる様子でもないじゃん? いつまで通えるかだって分からないのに。勿体無い、とか思わないのかな。余計なお世話だとは思うんだけど、でも、今の結宇の生活がいいとは思えないんだよね」
夏菜の言い分は分かる。けれど、結宇の現状に、大家の周詞が敢えて口出ししないのも、何となく理解できるのだ。
いつ状況が変わるともしれない日常だからと言って、あれこれと物事を抱え込む必要はない。結宇自身に無理を強いるよりは、未だ平穏な時期だからこそ、心静かに過ごさせてやりたいとも思うだろう。
それに、結宇は結宇で、彼女のペースが出来ているように思う。例えば、
「学校には行ってないけれど、結宇ちゃん、仕事してるよ?」
夏菜の予想外のところで、社会と繋がりを持っているところとか。
「うっそ!?」
「本当。もう一年近くなるのかな? 不定期だから、気付かなかったのかもね」
「不定期?」
「そう。葬儀屋さんのお手伝いだから」
なので、不幸が起こった時、結宇は急に呼び出されて出勤する。
驚きの言葉を連ねている夏菜を頭上に、二つ隣の部屋へ視線を遣れば、窓は真っ暗だ。どうやら、結宇は今まさしく仕事に従事しているらしい。
「どうして教えてくれなかったのさぁ!」
ついには、不満の声まで飛んできた。だが、その問いには「聞かれなかったから」としか答えようがないだろう。
(それに……)
それに、夏菜にはまだ教えていないことがある。
結宇だって、人目を憚らず声を上げて泣くことがあるということを。
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